・基本的に全部「調査中」
中間報告なので仕方ない。
・「改竄と盗用が山盛りだが、悪意があるかどうかは調査中」
・「泳動写真の切り貼りには、今のところ悪意が発見できない。切り貼り前の泳動写真は、論文の主張を覆すものではないように見える」
悪意があるならもっと真面目にやる、という説を裏付ける形。
・「STAP細胞が実在するかどうかは、第三者の追試を待つ」
こんな怪しい話に、自分のリソースを賭ける人はまずいない。
追試がたとえ百万回失敗しようとも、「実在しない」という結論を確定することはできない。ただ、百万回も失敗を繰り返す前に、誰も追試をしなくなる。現在のSTAP細胞も、誰も追試をしなくなった状態にある。
・「ES細胞とのすり替え疑惑については検証しない」
・「STAP細胞と称するものが実はES細胞だったかどうかの検証は不可能」
若山氏のキメラマウスを調べた結果が出ても、同じことを言えるのか。
・「完全な証拠保全は放棄。疑いをかけたものだけ。O氏グループが協力的だから証拠保全をなあなあで済ませた。偽装工作? 見破れる」
・「O氏の実験ノートの管理? 知らない」
・「ES細胞疑惑に関しては証拠保全した。ただし、NGSデータから疑惑が生じたあとで」
調査委員会は誇大妄想に陥っているように見える。自分を全知全能と信じる、コントロール幻想だ。
研究プロセスの信頼性を検証するプロセスに信頼性がない――理研は無政府状態だ。
・「丹羽さんが再現実験に意欲」
・「先日、O氏が再現実験に成功したが、再現といってもOct4蛍光しか見ていない」
・NHKのスクープ「この一年、小保方さん本人が再現できないと聞いている」委員会「知らない」
NHKのスクープは、チャンピオンデータ説を裏付けるもので、理研CDBにはむしろ有利な話。とはいえ、若山氏のキメラマウスを調べた結果がクロと出れば吹き飛ぶ。
3月14日14時、ニコニコ生放送にて、「STAP細胞 研究論文の疑義に関する調査 中間報告」の生中継がある。「その時、科学史が動いた」を目撃するチャンスなのでお見逃しなく。
ポイント:
・「形式上の不備」という説明だけで乗り切ろうとするのではないか?
・なぜ証拠となるサンプルを第三者機関で検査しないのか? 当初は「曖昧なままフェードアウト」という方針があったのではないか?
・D論画像の流用についての笹井氏の説明に対してどう考えたか?
・竹市氏はSTAP細胞が存在するという主張をまだ続けるなら、その根拠はなにか? キメラマウスのTCR再構成は調べたのか?
・証拠保全はいつ何をしたのか?
・この事件に最初からつきまとっていた過剰さはまだ続いているか?
STAP細胞事件はまだ始まったばかりだが、事件の性質はすでに確定した。
O氏の手際の杜撰さは、ファン・ウソクやヘンドリック・シェーンと共通する。捏造したのが画期的業績(=必ずバレる)であることも同じだ。ある種の精神構造は、捏造が発覚することを気にかけないらしい。
共通点が目立つのと同じくらい、それぞれの事件の個性も目立つ。ファン・ウソク事件はナショナリズム抜きには語れない。ヘンドリック・シェーン事件は、共同研究者の責任という問題を提起した。では、STAP細胞事件の特徴はどこにあるのか。
私が思うに、それは「過剰」であることだ。
ファン・ウソクが2004年に捏造した業績は、2007年にほぼ現実のものとなった。ヘンドリック・シェーンの業績はこれよりは大げさだが、権威ある賞を複数受賞した、つまり学界でいったんは「ほぼ確定した話」と見なされた。STAP細胞事件に比べれば二人とも、もっともらしい嘘をついた、といえる。
STAP細胞は、学界の常識を根底から覆すような現象である。もちろん学会発表ではいつも端のほうにトンデモさんがいて、学界の常識を毎度覆そうとしているのだが、そんな日常の光景はもちろん誰も気にしない。Nature・理研・権威ある共著者に担がれたからこそ、STAP細胞は発表の瞬間から事件になった。「豪華メンバーがトンデモを担いだ」――この組み合わせが第一の過剰である。
第二の過剰は、「リケジョ」売りだ。割烹着だの女子力だのピンクの壁だのといったジェンダーまみれの宣伝は、恥辱の一語に尽きる。
私がSTAP細胞事件の性質を最初に感じたのは、「STAP細胞でサルの脊髄損傷を治した」という報道だった。iPS細胞でサルの脊髄損傷を治したという報告がすでにあるので、同じ幹細胞なら同じことができても不思議ではない。が、この実験は、STAP細胞なるものの性質を明らかにするものなのか。未知の幹細胞が得られたなら、応用研究より先にすべきことが山ほどあるのではないか。この話の実態がどんなものであれ、「脊髄損傷を治した」というセンセーショナルなストーリーがまず先にありき、にしか見えない。そう思ってSTAP細胞のマスコミ向け発表を見ると、「簡単に作れる」「応用は間近」というメッセージが目につく。マスコミ向けのセンセーショナリズム、これが第三の過剰だ。
そして第四の、おそらくは最大の惨禍をもたらした過剰がある。
理研が調査を始めたと認めた2月17日の段階で、もし調査委員会がSTAP幹細胞株とキメラマウスを第三者機関に渡して調査を依頼していれば、事件の被害はずっと小さくて済んだ。しかし調査委員会がやったのは、O氏に実験を再現させ、3月6日にそれを発表することだった。そして今日(3月12日)まで調査委員会は、STAP幹細胞株とキメラマウスを外に出していないし、出すとも発表していない。
調査委員会は、なんらかの錯覚か幻想に囚われている。それはつまるところは、ありがちなコントロール幻想なのかもしれない。「自分には事態を100%コントロールする力があるので、第三者機関に真相を確定されてしまうのは百害あって一利なし」という考えだ。続々と出てきた捏造の証拠を無視して、研究室をロックアウトせずO氏に実験を続けさせ、共著者との連絡も禁じないのは、ありがちなコンコルド錯誤なのかもしれない。「曖昧なままフェードアウト」という既定方針を損切りできず、不合理にしがみついてしまっているわけだ。そしてもちろん、身内びいきもあるかもしれない。
だから、調査委員会の動きは、ありがちな心理の積み重ねとして理解できる。異質なものを想定する必要は感じない。そこにある異常は量的なもの、「過剰」だ。
STAP細胞事件はこれから、O氏への1億総バッシングへと進むだろう。O氏のような特異な人物はそれなりに興味深いが、結局のところ「よくあるパターン」しか見つからないだろう。病気とはそういうものだ。
私が知りたいのは、この事件の過剰さがどこから来たのか、だ。
おそらく、特定の誰かに由来するものではない。O氏は過剰さを振りまく人物に見えるが、おそらく読者諸氏が直接知っている人のなかにも、ああいう過剰さを振りまく人物がいるのではないだろうか。O氏は、過剰さを振りまくがゆえに適格者として選ばれたのであって、O氏がこの事件に過剰さを与えたのではない、と私は考えている。
今後、O氏は研究の場から取り除かれるだろうし、理研CDBも消滅するかもしれない。もちろん、「浜の真砂は尽くるとも」で、捏造事件は人と場所を変えて起こり続ける。それは人間の本性として避けようがない。しかし、この事件の過剰さは、人間の知恵で避けられるもののように感じる。
なお、この事件にも、ひとつだけよかったことがある。
「リケジョ」という気持ち悪い言葉が死語になり、あのジェンダーまみれの宣伝が恥辱として記憶に刻まれたことだ。
もし理研CDBが消滅するとしたら、それはO氏に潰されたのではない。「リケジョ」売りの恥辱のあまり崩れ落ちたのだ。
ラピエールの2014フレームがフロントブレーキにダイレクトマウント採用らしい。もし将来ダイレクトマウントが消えることになったら、フォークだけ確保したい。