橘裕『ガッチャガチャ』4巻を読んだ。
史上かつてなく心荒む少女まんが――だったはずが、4巻ではあまり荒まない。話が間延びしているせいだろうか。
クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の終盤に、繰り返すことと幸福についての議論がある。飼い犬が毎日同じように散歩を要求しても、飼い主はけっして「たまには違うことをしてみせろよ」とは思わない。同じことの繰り返しが肯定されるとき、幸福がある――大略こんな議論である。
間延びした話にも、同じことがいえる。サザエさん化した話や、『っポイ!』化した話のなかには、たしかに幸福がある。もし『デビルマン』が5巻で終わらずに話を引き伸ばしていたら、愚にもつかない駄作になっていたはずだ。
心荒む少女まんがたるべき本作品も、ぜひ手早く話を進めてほしい。
よしながふみ『それを言ったらおしまいよ』を読んだ。
物語には二種類ある。主人公が風車に突撃する物語と、しない物語だ。私は前者が好きで、自分で書くのもこちらである。よしながふみは後者を描く。私の知るかぎり、突撃しないタイプの作家のなかでは、よしながふみが最高だ。
よしながふみを読むと、突撃しないのもいいものだ、と思う。だが、突撃するかしないかは、よしあしではなく、選択ですらない。
皆川ゆかの「運命のタロット」シリーズ最終巻『《世界》。』を読んだ。
実は、『ぴたテン』と同じオチで終わるのではないかと予想していた。ライコ=湖太郎、ジョン=小太郎、《魔法使い》=美紗。美紗と湖太郎のつながりが、湖太郎と小太郎の同一視からはじまったように、《魔法使い》とライコのつながりは、ジョンの一方的なライコへの愛からはじまった――という読みだ。が、外れた。ジョンが作品の根本にかかわるミッシングリンクのはず、と仮定したのが失敗だったらしい。
愛の観念は驚くべき速さで変わる。1991年のTVドラマ『101回目のプロポーズ』の主人公は、いまではストーカーじみて見える。「運命のタロット」シリーズが始まった1992年には、大河のたどった運命は納得のゆくものだったのだろう。今日では、厳しい評価をせざるをえない。
以下ネタバレになるので未読のかたは注意されたい。
ジョンの存在意義は不明のまま終わった。あんなところで重要人物めかして登場しておいて、なにもオチをつけずに終わってしまったのだから、予想を覆されるのも仕方ない。
まさかと思うが、ジョンが宇宙終焉の引き金を引く、などという設定だとしたら、私はもう皆川ゆかを読まない。小悪を後生大事にかかえている小人にそんな大役を当てるのは、極めつけの馬鹿だけだ。
依澄れい『ぽすたるWORK』を読んでいる。
連載時に読んだときには、やたらに百合に思えたが、通して読むとそうでもない。
私の記憶力はあてにならないので、こういうことは珍しくない。が、単行本を読んで「あれ?」と思うたびに、連載時に読んだ作品が別にどこかにあるような気がして、不思議な気持ちになる。