『MADLAX』というTVアニメが百合と聞いて、第5話まで見た。
統合失調症になると世界がこんな風に見えるのだろうか、と思える作品である。情報組織がどうのこうのは言うまでもなく、自我漏洩や作為体験を思わせる展開がいたるところに見られる。
たとえば、花屋で花を買おうとして「これを」と指差したとき、店員はどんな反応をするだろうか。この作品では、「この花が好きなの?」と問いかけてくる。
肝心の百合としては、まだそれらしい展開が始まらない。先は長いらしい。
レベジ退役中将は2002年、52歳の若さで、ヘリの墜落事故により死亡した。本書は1995年に発表された自伝である。
1991年8月の破局まで、レベジはただ単に、きわめて優秀なソ連軍人にすぎなかった。破局のあと、レベジの置かれた複雑な立場を説明することは到底できない。ここでは、破局の記述のみを扱うことにしよう。
国家非常事態委員会は、その名称とは裏腹に(あるいはその名称どおり)、事態をほとんど掌握していなかった。本書の記述もこれを裏付ける。国家非常事態委員会の迷走は、そのメンバーが愚かで無鉄砲だったからなのか? まさか。彼らは賭けに出たかもしれないが、勝算を数えずに賭ける賭博中毒者ではなかった。
レベジは謎めいた結論を出している。
「第一に、最も重要なことは、クーデター自体がなかった。
それは独創的に計画され、見事に実行された、類例を見ない大規模な挑発だった。その役割も利口者とばか者のために分けられた。そして、利口者もばか者も、意識的、無意識的に自己の役割を果たした。まさにそれゆえにいわゆる非常事態国家委員会のメンバーは茫然自失となり、まさにそれゆえに「アルファ」部隊司令官でソ連邦英雄のカルプーヒン少将があらゆるところで遅刻し、まさにそれゆえにヴォルゴグラード師団のよく整備された機材に不調が生じたのであり、~」(401ページ)
「この陰謀の著者」(402ページ)は誰だったのか。レベジは黙して語らない。だが陰謀の目的は語っている。「共産党を一掃すること。軍・内務・諜報機関を破壊し、そして、最終的に、一九九一年三月の国民投票で七三パーセントの国民が声をそろえて「ソ連は存続すべきである」と意思表示した大国を解体すること」(402ページ)。
1991年、ソ連大統領の権力は崩壊しつつあった。国家機構の統制が失われ、歯車が空転し、大統領の意思表示が現実へと反映されないようになっていった。ゴルバチョフとその側近だけが権力から切り離されて宙に浮き、その下にある国家機関は正常に作動していたのか? まさか。ソ連のような中央集権国家では、中央の機能が低下すると、国家機関のすべてが機能低下に陥るようにできている。この状況下で、これほど巨大な陰謀を描くことのできた人々は、いったい誰なのか。
どこかに1991年版のスモーリヌイがあり、そこで1991年版のレーニンが密かに指揮を執っていた――という発想を私は拒否する。特定の人々の共謀によって組織されることなく、巨大な連鎖反応が起こったのだ。「陰謀の著者」なる人々は、もしいるとしたら、「人類は歴史の著者である」というのと同じ意味の著者だ。
もちろん、誰かが最初の引き金を引いた。セルビア皇太子暗殺のように。だが、これほど巨大な連鎖反応の準備に比べれば、引き金を引くのはごく小さな仕事だ。国家非常事態委員会のメンバーは、歴史との決戦(に見せかけた三文芝居)に担ぎ出されることを断固拒否し、持久戦を続けることもできただろう。そのときは連鎖反応がそこで止まっただけのことだ。国家非常事態委員会メンバーに限らず、その周辺のかなり多くの人々も、連鎖反応を止めることができたのではないか。だが誰も止めなかった。それはおそらく、1991年版レーニンの指揮によるものではなく、単なる偶然だ。
歴史の些細な部分だけが偶然に影響され、大筋は必然からなる――この発想は、マルクスをはじめ、多くの人々の心を捉えてきた。しかし1991年8月の破局と、その後の性急な連邦解体は、歴史の大筋が偶然に影響されうることの実例ではないか。
もっとダメージの小さい形での連邦解体はありえた。もしエリツィンと民主派が、権力を握る用意を周到に整えたのちに権力を掌握したのだったら、あれほどロシアを傷つける(より正確には、モスクワの貴族から奪って地方領主に与えてやる)ような連邦解体を行うはずがなかった。この連邦解体が、いったい歴史にどれほど巨大な影響を刻み込んだか。
このような、「歴史の神はサイコロを振る」という発想の受け入れがたさが、1991年8月の破局を理解しがたいものにしているように思える(ソ連の知識人はみなマルクス主義の教育を受けている)。
サイコロを振る神が気に食わなければ、視野を1000年単位にしてみることだ。歴史のかなりの部分が必然に見えるだろう。ただ、そのときは、巨大隕石の落下が気になるかもしれないが。
もうじきまた忙しくなってくるので、いまのうちにギャルゲー・エロゲーをやっている。
ことりが一番人気――それが市場のルールである。ほかに選択肢はない。
当然ではあるが、1周目よりは劣る。「イリヤ」というとエレンブルグを連想する私は、『名探偵コナン』で「灰原」という文字を見るたびに『ナニワ金融道』の主人公を連想する私でもある。
日本の女子校、しかも神道系で、部活動にクリケットがある学校って一体…
つまらない。理由はふたつある。
・主人公がつまらない
『このミステリーがすごい!』の2003年版でこの作品を推した人に尋ねたい。こんな奴が主人公でいいのか、と。いつ化けるのかと思っていたら、最後まで化けなかった。
主人公が化けなかったことと同根だが、
・オチがない
理屈がつくことと、オチがつくことは、まったく異なる。将棋にたとえれば、大駒が捌けていない。
ついでにいえば、アリストテレスは『詩学』で、当時の有力説に反対して次のように主張している。「たとえば『オデュッセイア』のように二重の組みたてが見られ、善人と悪人にとってそれぞれ反対の結末が生じる。(中略)しかし、このような二重の組みたてから生じるよろこびは悲劇のよろこびではない。それはむしろ喜劇だけに属するよろこびである」(第13章)。
ここは非常に間違いやすいところなので、詳しく解説しておこう。まず『オデュッセイア』については、アリストテレスのほうが間違えている。『オデュッセイア』の結末は、『To Heart』のマルチEDに似た構造の「泣き」であり、アリストテレスの思っているような「オデュッセウスとペネロペイアはいつまでも幸せに暮らしました」という結末ではない(2003年7月7・8日の日記参照)。『詩論』のアリストテレスは、デウス・エクス・マキーナの意味を理解しなかった。
また、ここでは「二重の組みたて」に力点があり、勧善懲悪はその具体的な形態のひとつにすぎない。『詩論』の散逸部分には、風刺劇への言及もあったと考えられるが、風刺はいつでも、悪人が幅を利かせ善人が馬鹿を見るさまを描く。これもアリストテレスのいう「二重の組みたて」に含まれる(そして風刺劇は喜劇なので、「喜劇だけに属するよろこびである」とつながる)。
もしアリストテレスが『半身』を読んだら、自説の強い裏づけを得たと思うだろう。私も同意する。シリアスな物語では、「二重の組みたて」は第二級のものだ。
またもやサラ・ウォーターズ『荊の城』について。
私はいままで、生まれ育った環境というものを過大評価していたらしい。百合は人類の明るい未来ではあるが、それを垣間見るには、日本のオタク文化のような進んだ環境が必要だと思っていた。「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」とニュートンは言った。
が――サラ・ウォーターズは(おそらくは)日本のオタク文化の助けなしに、私と同じ視点を獲得した。
この「私と同じ視点」の「同じ」の意味は、およそ想像しうるかぎり厳密なものだ。アリストテレス『詩学』の言葉を借りれば、ウォーターズと私の考えるエイコス(ありそうなこと)とアナンカイオン(必然的なこと)は完全に一致している。
説明しよう。水戸黄門では、葵の御紋の印籠を見た悪党は、戦意をなくすと決まっている。やおいでは、攻に強姦された受は、そのうち攻を愛するようになると決まっている。どちらも、現実にはとても必然とはいえないが、それぞれの物語宇宙では必然、すなわちアナンカイオンである。
『詩学』の現存するテキストの上では、エイコスとアナンカイオンは所与で自明のものであるかのように扱われている。しかしこれらはけっして所与でも自明でもなく、多くの才能の試行錯誤によって創造され、優れた作品によって伝達されるものだ。
百合には百合のエイコスとアナンカイオンがある。いまのところ、これを理解している作家はそれほど多くないが、ある重要な範囲には共有されており、また、その範囲は広がりつつある。
その共有の範囲は、作品による伝達の及ぶ範囲に等しいと、いままで思っていた。百合の登場と繁栄それ自体は、たしかに歴史の必然ではあるが、その細部には多くの偶発的要素が含まれているはずだと。
サラ・ウォーターズは私のこのような考えを、根底から揺るがせた。伝達なしに同じものが共有されるのだとしたら、百合には偶発的な要素はごくわずかしか含まれないのではないか? 百合の多くの部分が、人間性そのものから必然的に導き出されるのではないか?
これは歴史的事件かもしれない。賢明なる読者諸氏がこの事件を見逃すとしたら、あまりにも惜しい。だから結局、私が言いたいことはただひとつ、いますぐにこの本を読め、ということだけだ。
ローレンス・レッシグの「CODE ―インターネットの合法・違法・プライバシー―」を読んだ。
強引にまとめれば、「情報世界のアーキテクチャは政治的な価値判断にかかわる問題であり、自由放任はあまりいい結果を生まない」というくらいか。
しかしこの本の見どころはそこではない。見るべきは、あちこちにちりばめられたソ連ネタだ。「ソ連」という言葉も頻繁に出てくるし、「審議する」世論調査(417ページ)というアイディアは党の細胞会議を思い出させる。ソ連マニアなら誰しも「百日実施計画」という言葉ににやりとするはずだ(シャターリンの百日計画)。「やめる権利はあるのだけれど、それはソ連市民が国外移住の権利があったのと同じ意味でしかない」などと誰もわからないソ連ネタで喩えるのは私だけではなかった。
ただし、ソ連ネタ満載だからといって、本書の説に疑問を感じないわけではない。
たとえば、本書にも引き合いに出されているJ. S. ミルが、自由の敵のうち最大のものと名指ししたのはなんだったか? 習慣である。「情報世界ではコードがアーキテクチャを規定する」という説は、十分に真実ではない。コードは書き直せる、それも、一度目よりずっと簡単に書ける。習慣という要素を抜きにしては、コードが人々の暮らしを規定する力は、ほとんど取るに足らない。習慣という要素を導入すると、本書の議論がずいぶん怪しくなる。
19世紀のロンドン近郊で、妙な屋敷の令嬢と偽物の侍女が、愛と陰謀の渦に飛び込む――という具合にまとめればいいだろうか。
しかしそんなことはどうでもいい。私が言いたいことはただひとつ、いますぐにこの本を読め、ということだけだ。
とりあえず入手したが、まだ着手していない。
部屋の隅にはエロゲーの『処女宮』が未開封のまま積んである。ううう
兄が消えるなどしてピントが合ってきたと思っていたが、どうやら、どこが焦点なのかまだ見えていないらしい。
百合特集である。
人間関係の類型性は百合の重要なテーマであり、このテーマに自覚的な作品とそうでない作品は、同日に論じられないほどの差がある。よくわからなければ、この作品を読むといい。