2004年08月31日

前略フルキハウス

 『月は東に日は西に』のいいところを無理に探してみた。その結果、「はにはに」という略称が素晴らしい、という結論に達した。
 『フルハウスキス』は、話題になったわりに、今ひとつ伸び悩んでいる。もし「フルキハウス」という略称を普及させていれば、違う結果になったかもしれない。

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2004年08月30日

神の王国を地上にも

 宮崎学『不逞者』を読んだ。

 だがしかし、少なくとも闇市のような世界では、そのもう一つ底に、「日本人の野郎め」「朝鮮人のくせに」という意識を突き抜けた、両者とも「どっこい生きている」、要は力と意地の張り合いだという、ある種「健康」な裸の個と集団の対抗意識があったのではなかろうか。(21ページ)

 こういう単純な生命力を、著者は称揚する。本書で描かれる二人の人物、万年東一と金天海も、このような生命力の観点から描かれている。
 が、本書を読みながら私は、クンデラ『存在の耐えられない軽さ』のラストを思い出していた。トマーシュの墓碑銘「神の王国を地上にも」に、なんの反対も起こらず、ということはつまり、トマーシュはそのようなものになってしまった――というラストを。
 たとえ何百ページを費やそうとも、書かれたものは必ず、「神の王国を地上にも」のバリエーションになる。このような変容は、単純な生命力からもっとも遠いものを作り出す。そのことに著者はどれだけ自覚的なのだろうか。アウトローの世界にいて、任侠神話を流通させる当事者でもあった著者には、もうそんなことは目に入らないのかもしれない。
 「だが、この世界では、そうした歴史的事実よりも、それを物語化し勲を綿々と語っていく神話的事実のほうが、ずっと重きをなすのである」(56ページ)。私の見方はこれとは逆である。物語化されることのない細部、不確実さの闇へと消えてゆく端々のなかに、共感すべきものが潜んでいる。

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2004年08月29日

一時的な音楽

 ミシェル・シオン『映画の音楽』を読んだ。
 映画音楽について300ページ以上も論じているわりには、音楽制作の具体的なプロセスへの言及が少ない。ただ、「一時的な音楽」の使用がしばしば不幸な結果を招いていることだけは、印象に残った。
 「一時的な音楽」とは、作曲家が作業にとりかかる前に、フィルムに「一時的」なものとして既存の音楽をつけてシーケンスを構成することである。
 黒澤明は「一時的な音楽」を使い、作曲家に「この曲と同じものを」と注文した。このため、多くの作曲家が著しく気分を害し、二度と黒澤明の依頼を受けなくなったという(この話の情報源は本書ではない)。キューブリックも似たようなパターンに陥っている。『2001年宇宙の旅』は最初、作曲家に音楽を依頼していたが、キューブリックは途中で気が変わり、「一時的な音楽」をそのまま使うことにしたという。
 映画の監督には、すべきことは驚くほど多く、できることは驚くほど少ない。「一時的な音楽」をめぐる問題は、それを象徴しているかもしれない。

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2004年08月28日

同人ショップ取り扱い開始

 Visual Reading Story『希望入りパン菓子』の店頭販売・通信販売を開始しました。何卒ご贔屓ください。

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2004年08月26日

月刊電撃大王 10月号

小梅けいと「うた∽かた」

 今年10月開始のTVアニメが原作である。
 コスチュームデザインが、こう… 魔法少女系のコスチュームと一口にいっても、百合にふさわしいデザインとそうでないデザインがあるが、後者のような気がする。
 今にして思えば、CCさくらのコスチュームには、百合にふさわしいものが多かった。大道寺知世というキャラは、デタラメとステロタイプでできているが、妙な説得力を感じさせる。コスチュームデザインのセンスもその一端を支えている。

林家志弦「はやて×ブレード」

 もっと軽妙に指せるところだと思う。この作品だけでなく、現在の百合作品は全体に、軽妙さが足りない。

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2004年08月25日

言葉の体系

 ミシェル・シオン『映画の音楽』を読んでいる。
 私はリアルタイム性のあるものがすべて苦手だ。最たるものが音楽で、右も左もわからない。映画もわからない。アニメの絵コンテは驚異の技である。
 そんな私が「映画の音楽」なる本を読むのだから、理解できないのは最初からわかっている。ではなぜ読んでいるのかというと、この本には無数の作品が例として挙げられており、それぞれに短い描写がなされている。その描写から、作品を想像するのが楽しい。
 読んでいると、音楽はさほど難しいものではないように思えてくる。語ることができるものは、なんとかなる。どうせ私が作るわけではないのだから。
 が、効果音はどうか。音楽について語ることができるように、効果音について語ることができるのか。効果音のための言葉の体系がどこかにあるのなら、ぜひ知りたい。

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2004年08月24日

奥山益朗『消えた日本語辞典』

 読者諸氏は「闇夜の黒牛」という言葉をご存じだろうか。黒一色の光景をいう慣用句である。広辞苑には出ていないものの、Googleでは用例をかなり拾える。
 小学校6年生のときに、この慣用句を使った記憶がある。クラスの卒業制作の図案として、私は「闇夜の黒牛」を提案したのだ。もし実現していたら、私のようなひねくれ者を励ます記念碑として多くの人々に感動を与えたはずだと、今でも信じている。
 昨日、この言葉を使ったところ、相手に通じなかった。どうやらこれも死語の仲間入りをしたらしい。
 会話ならまだしも、文章中で死語をそれと知らずに使うと危険なので、『消えた日本語辞典』のような本はありがたい。「これが死語では困る」という言葉も多いが(特に、「ほだされる」のような風情のある和語が使えないのは百合にとって致命的だ)、それなりに参考になる。
 また、差別用語の変遷が面白い。「下女」という言葉がもともとあり、これが差別的なので「女中」と言い換えたところ、数十年を経たらその「女中」が差別用語だというので「お手伝いさん」になったという。次の言い換えはきっとカタカナ語になるだろう。esbooks

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2004年08月23日

宮城とおこ『白桜の園』

 キャラはみないい味を出しているが、話は雑然としている。隔月刊でこのページ数ではやむをえないか。
 よく見ると、主人公がロシア革命の本を読んでいる。大上段に構えたタイトル(「レーニンとロシア革命」)は、E.H.カーあたりのイメージか。esbooks

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髙木信孝『PUREまりおねーしょん』2巻

 エロレズをよく描くエロまんが家は、論理性重視と論理なしのどちらかに極端に分かれるような気がする(2月10日の日記参照)。その理由がわかったような気がした。中途半端に理屈を通そうとすると、固定観念や男女物の影響を受けやすく危険なのだ。
 あのんよりあいなのほうが背が低いような気がしていたので、最終回の身長比は居心地が悪かった。百合では攻め受けがはっきりしない場合が多いので、身長比を印象づけるのが難しい。esbooks

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2004年08月21日

ノベルゲームのディレクターをつとめる人のために

 「希望入りパン菓子」の製作過程では、無数の教訓を得た。そのほとんどが、私の個人的な問題に帰せられるものだが、一般的な教訓もわずかながらある。ノベルゲームのディレクターをやろうなどという無謀な人々のために、ここに教訓を書き残しておく。
 人材はいつでも不足しているので、人材を確保・配置するときの優先順位は、かならず問題になる。とりあえずシナリオと作画はすでに確保したものと仮定して、以下の優先順位で確保・配置することをお勧めする。
1.サウンドディレクター
2.マーケッター
3.アートディレクター
 サウンドディレクターについて。
 音は、重要であるだけでなく、きわめて専門性の高い仕事でもある。たとえば、あなたは効果音について、どれくらいのことを知っているだろうか。雨の音、足音、衣擦れの音を調達しようとしたとき、どこにどんな注文を出せばいいか見当がつくだろうか。市販の効果音ライブラリーがどんなシロモノか知っているだろうか。サウンドディレクターなしで制作した場合、その作品はほぼ確実に、音の面で大いに改善の余地があるものになるだろう。
 マーケッターについて。
 ディレクターは作品を体現するのが仕事なので、作品を売り込むのには向かない。たとえば広告上で、作品の魅力の核心をずばっと言い切ってしまうのは、必ずしもよいことではない。作品を売り込む方法を考えるには、作品から距離を置いた第三者の目が必要になる。また、ディレクターは制作にかまけきりになるので、広報はどうしても疎かになる(疎かにならないようでは完成にこぎつけられない)。マーケッターなしで制作した場合、例外的な傑作は別として、売れ行きに少なからず影響するだろう。
 アートディレクターについて。
 考えてみれば当然のことだが、ノベルゲームに使われる視覚表現の種類と数と複雑さは、同人誌などの比ではない。これらに統一した雰囲気を与えるには、アートディレクターが必要だ。アートディレクターがいなければ、先に出てきた現物に後のものをあわせてゆくことになる。制作期間が十分に長ければこの方法もそれなりに機能するだろうが、「制作期間が十分に長い」という状況はありえないので、改善の余地のある出来栄えとなる。が、サウンドディレクターを欠くのに比べると、作画スタッフが多少はカバーできる分、ダメージは少ない。

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2004年08月20日

大人は質問に答えない

 福本伸行「賭博黙示録カイジ」には印象的なセリフが数多く登場するが、「大人は質問に答えない」というセリフは特に印象深い。
 久美沙織がある女子校で講演したときのエピソードが、まさにこのセリフを地でゆくようなものだった。このエピソードは一読の価値があるので、こちらをご覧いただきたい。注目すべきは、教職員がアンケートへの回答を拒否した、という点である。
 この某女子校の教師たちは、久美沙織のどんなメッセージよりも強く、生徒たちに教えたのだ――「大人は質問に答えない」。これは私の推測だけではなく、講演を聞いた当の生徒も、そのような印象を受けたという(私は聴講者のひとりを個人的に知っている)。
 大人は質問に答えない。それはなぜか?
 「答はあるのに、なにか理由があって答えない」、のではない。答える理由がないかぎり、答は用意されていない=存在しない。久美沙織は「思考停止」と批判するが、大人の論理では、思考する理由がないのに思考する人のことを哲学者という。
 答が欲しければ、答えるべき理由を作るのだ。そうすれば、質問するまでもなく、相手のほうから話し始める。
 私が、やおい・BLのことを「強姦されてハッピーエンド」だと主張してやまないのも、彼女たちが答えるべき理由を作るためだ。
 「強姦されてハッピーエンド」という認識が広まれば、やおい・BL界の心ある人士は、対抗してなにかを言わざるをえなくなる。統計的にいえば私の主張は圧倒的に正しいので、その正しさのゆえに、対抗せざるをえなくなる。部外者が「そうか、強姦されてハッピーエンドなのか」と思ってやおい・BLを読み、実際にそのとおりのものをそこに見て、「まさしく」とうなずく――このような「理解」の広がりに対して無関心でいるのは、きわめて困難だ。
 あなたがもし、やおい・BLについて詳しく知りたいとお考えであれば、ぜひ「強姦されてハッピーエンド」という認識を広めていただきたい。
 汚い手ではある。だが、「答があるはずだ」という幼稚な前提に立った質問は、見苦しい。

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2004年08月19日

脚本がすべてだ

ティーウ・ラック『ムービー・マーケティング ―映画宣伝の魔術―』
マーク・トラビス『ハリウッド・ディレクティング・バイブル』

 脚本がすべてだ。
 上の2冊の本を要約すると、そういうことになる。「ハリウッド・ディレクティング・バイブル」は380ページの本だが、前半の130ページを、脚本を読み解く方法に費やしている。「ムービー・マーケティング」は最終章の最後にこう述べる、「極論をいえば映画の成功はストーリーにかかっていて、そのストーリーは脚本家にかかっている」。
 残念ながらこれは、現実をあまり反映してない。私はいままで「ジュラシック・パーク」の脚本への賛辞を見たことがないが、2004年8月現在、全米興行収入の歴代ランキングで「ジュラシック・パーク」は9位に入っている。
 著者たちもこうした現実を知らないはずがない。知っていて無視しているはずだ。「ムービー・マーケティング」ではB級映画の例として「恐竜カルノザウルス」という作品をあげ、「ジュラシック・パーク」の便乗作品として成功したさまを描いているが、これは「ジュラシック・パーク」にあてつけたのかもしれない。
 なぜ無視するのか。それは著者たちが、映画を愛しているからだ。
 「ムービー・マーケティング」は再三、「『ランボー』を見る客は批評など読まない。批評だけでなく、何一つ読まない」と述べている。そうした客を満足させることに専念すべきだろうか。それとも、新聞の批評欄を見て面白そうな映画を探し、また友人たちとしばしば映画について語り合うような人々を念頭に置くべきだろうか。ビジネスの観点からはさまざまに評価できるが、映画を愛するという観点からは、答えは明らかだ。
 ところで、この2冊を読んで、私が日本映画を嫌いな理由がよくわかった。予算、スタッフ、スケジュール、いずれをとってもインディペンデント映画かB級映画なのに、当人たちにはその自覚がなく、まるで大手映画を作っているかのように、鈍臭い人々に配慮しているからだ。鈍臭い人々に配慮するのは、どんな大掛かりなセットよりも贅沢なことだと知るべきである。

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2004年08月16日

『Princess Holiday』

 『月は東に日は西に』の謎を解くべく、オーガストの前作である『Princess Holiday』(DC版)をやってみた。この『Princess Holiday』の人気を受けて『月は東に日は西に』は期待作になったのだ。現在、レティシアのノーマルハッピーEDを見たところだ。
 結論:
 『Princess Holiday』は適切な長さで面白く、『月は東に日は西に』は無駄に長くてつまらない。
 私は気が短いので、退屈だと思ったら容赦なくメッセージスキップを食らわせるが、『Princess Holiday』では一度もメッセージスキップを使わなかった。シナリオの力が目に見えて違う。
 「シナリオの力」という表現に注意していただきたい。話が面白いのではなく(ストーリーはどちらも申し訳程度のものだ)、シナリオに力がある。
 演出家は、ろくでもない脚本を演出したときにこそ力量が測られるという。この伝でいくと脚本家は、ろくでもない話を書いたときにこそ力量が測られる。話のどうでもよさが問題にならないような技術と情熱が、『Princess Holiday』のシナリオにはある。
 シナリオというと話のよしあしばかりが注目されるが、これは単に、話のよしあしが論じやすいからにすぎない。読者をつかむうえでは、技術と情熱のほうがはるかに重要だ。少々面白い話でも、技術と情熱に欠けると、読者は途中で読まなくなる。
 シナリオ以前の要素で、『月は東に日は西に』が不利なのは確かだ。学園という舞台は、ファンタジー世界の飲み屋よりもはるかに類例が多いので、展開に意外性が乏しく緊張感が出しにくい。共通ルートの比率がはるかに高い(エピソードの焦点が絞れないので共通ルートは難しい)。そしてもちろん、量が多い。
 が、これらのハンデを勘案しても、シナリオの力で『月は東に日は西に』は劣っているように思える。
 『月は東に日は西に』は、『D.C.』とは正反対に、アニメが大失敗しつつある。オーガストは、もし次回作で成功しなければ、急速に崩壊してゆくだろう。

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夏コミ御礼

 夏コミにて香織派のスペースにおいでくださった皆様、また『希望入りパン菓子』をお買い求めくださった皆様、まことにありがとうございました。

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2004年08月14日

夏コミのご案内

 西在家香織派は明日14日、西む-33aにて皆様のお越しをお待ちしております。

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2004年08月12日

PS2用ビデオゲーム『アカイイト』

 サイトでの情報公開がだいぶ進んできた。見たところ、ずいぶん制作費を突っ込んでいるらしい。
 体験版がWindowsで動くが、ビデオアダプタがGeForce限定である。私のマシンはATIなので動かない。
 GeForce限定なのは、GeForceのなにかに依存しているのではなく、OpenGLドライバが腐っているビデオアダプタ(MatroxのG550など)をはじくためのものだろう。OpenGL普及への道のりは長い。

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2004年08月11日

ギャルゲーと無葛藤理論

 『月は東に日は西に』の美琴ルートをクリアした。
 噂の「ワールド」は私には感じられなかった。私がイラク生まれのアフガン育ちだからといって、特にどうということはない。人間はどこにいても、食って、遊んで、死ぬようにできている。本作品の設定には、なんの驚きもなかった。驚異とは、「強姦されてハッピーエンド」のような不条理な因果関係から生じるものであり、設定からは生じない。
 むしろ私は、無葛藤理論をギャルゲー世界に展開したと思しき設定に注目した。
 無葛藤理論とは、「社会主義の実現にともない人間同士の葛藤はなくなった、これからは人間と自然との闘いを描くべきだ」という理論である。この理論にもとづく作品では、社会主義の実現過程は描かれず、実現後の世界から話が始まる。だから、予備知識なしでそうした作品に触れると、悪い冗談が延々と続いているかのような印象を受ける。
 私が本作品から受けた印象は、無葛藤理論の作品から受ける印象と、よく似ている。
 「他者=異性」という犯罪的イデオロギーはすでに歴史上のものになった。このイデオロギーに汚染された低劣な作品では、主人公にとって同性の仲間は、きわめて馴染み深いものであり、異質さがない。他者の異質さをまとめて異性に押し付けて、異質さのないホモソーシャルな関係性で癒されよう、というわけだ。
 このホモソーシャルな関係性の輪に、異性や性交渉まで取り込んでしまったのが、『月は東に日は西に』の世界である。
 「他者=異性」に比べれば、はるかに進歩的であり、いまは確かに21世紀なのだと思わせてくれる。が、他者の異質さがこれほど希薄な世界は、よいものなのか。
 異質さが希薄といっても、鈍感すぎて異質さを感じ取れないのだとしたら理解できる。まるで相手の話を聞いていない会話はよくある風景だ(こういう鈍感さは苦笑を誘うが、悪いものではない。ある種の共感は、深めようとした瞬間に崩壊する)。が、本作品に描かれる会話には、そのような鈍感さはみられない。
 それとも、私の見方のほうが、現代少女まんがや近代文学に染まりすぎているのかもしれない。本作品の登場人物は、近代文学よりも、西洋中世の物語に近いのかもしれない。だとすると他者など薬にもしたくないだろう。
 とりあえず、ギャルゲーユーザの多くが「人間同士の葛藤」に辟易しているのではないか、と疑ってみることにしよう。

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2004年08月10日

『月は東に日は西に』

 エロゲーの『処女宮』に着手した。
 冒頭のえもいわれぬDOSゲームくささに感動しつつ気力をなくして(私は「古きよき昔」なるものを捏造できない人間だ)、同じくエロゲーの『月は東に日は西に』に着手した。
 私の得た情報によれば『月は東に日は西に』は、前半の学園生活と、後半の「ワールド」からなる。学園生活はTo Heartの伝統そのままだが、「ワールド」に入ると、なにかとてつもないことが、なんの伏線もなく発生する。この「ワールド」に魅力がある作品だという。
 前半の学園生活がメッセージスキップを前提にしたものだとわかるまでに、ずいぶん時間を食われた。すでに3時間以上はやったはずだが、まだ「ワールド」に入れない。
 この膨大な待ち時間は、いったいなんの役に立っているのだろう。納得のいく説明を求めたい。

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2004年08月09日

安明進(アン・ミョンジン)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040808-00000102-kyodo-soci
 安明進(アン・ミョンジン)。この名前を記憶していただきたい。そして彼の言動を、「元北朝鮮工作員」のものとしてではなく、「安明進」のものとして認識するよう努めていただきたい。
 いまの段階であまり多くのことを語ると、社民党の二の舞になってしまいそうだ。が、「安明進」の言動をたどってゆくと、おそらく近い将来、なにかが見えるだろう。
 もうひとつ言えば、「安明進」を拉致問題の軸に据えることを望む何者かがいる。「安明進」という軸が取り除かれた瞬間に、拉致問題が空中分解してしまうことを望む、何者かがいる。

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2004年08月08日

百合姉妹 第4号

 また同じことを言うが、ページデザインをやっているデザイナーを首にしてほしい。
 これまた同じことを言うが、幅が狭い。百合の蓄積は、BLなどにくらべてまだあまりに少ないので、前例をなぞろうとすれば幅が狭くなる道理である。
 BLでは、「強姦されてハッピーエンド」などということを思いつくような頭のネジのゆるんだ人々が、莫大な貢献を積み重ねてきた。百合では、みずから頭の額縁を外す必要がある。
 額縁が比較的外れている例として、林家志弦と藤枝雅が参考になる。新たな前例となるようなものを構築しているわけではないが、未来はこの方向にあることは明らかだ。

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電撃帝王 第2号

介錯「鍵姫物語 永久アリス輪舞曲 外伝」

 例によって、いろいろなものがにじみでている、介錯らしい百合である。

藤枝雅「いおの様ファナティクス」第2回

 例によって、雰囲気まんがである。
 言い訳もなく、迷いもなく、ただ百合であることを実現しているのが見どころだ。

うるし原智志「RCツインズ」

 例によって、男(絵だけとはいえ)が出てきた。

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2004年08月07日

レジャー白書1990

 『大貫卓也全仕事』を読んでいたら、としまえんの広告のなかに、当時の「レジャー白書」のデータが出てきた。以下に引用する。

 「財団法人余暇開発センター発行「レジャー白書'90―1990年代のレジャー」によると、わが国の余暇市場は、平成元年度実績で63兆4,450億円、国家予算にも匹敵する巨大な規模に成長しています。さらに今後も年平均8%以上の伸びを見せ、西暦2000年には150兆円に達するものと思われます。(社)日本経済研究センターによる西暦2000年のGNP予測値が799兆円ですから、いまから9年後には、余暇を通じた経済活動は、GNPの実に18.7%を占める計算になります。」

 「レジャー白書2003」の数字と照らし合わせてみよう。
 余暇市場の2002年度実績は82兆9660億円。もし150兆円に達していれば、なるほど、あのテーマパークと称した愚行の数々も、立派に成り立っていたのだろう。高度成長期のゴルフ場建設も似たようなものだったが、糸山英太郎はいま日本屈指の投資家である。
 2002年の名目GDPは500兆7000億円。(社)日本経済研究センターによれば、現在よりも6割増の世界がくるはずだったらしい。
 2002年、余暇市場がGDPに占めた割合は16.6%。1989年の名目GDPは416兆9000億円なので、1989年の余暇市場の占有率は15.2%となる。
 ちなみに、私の見た「レジャー白書」のデータによれば、1989年の余暇市場は66兆4290億円となっている(この場合、余暇市場の占有率は15.9%)。統計の取り方が変わったのだろう。

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2004年08月06日

価値観の指導者

 「残念な結果だ。模造品撲滅のため消費者意識を高める必要がある」
 人民の偉大な教師である内閣府は、われわれの価値観を指導してくれるらしい。
 カルチェやavexの商売の片棒をかつぐと、私にいったいどんな利益があるのか、そこのところが知りたい。「風が吹けば桶屋が儲かるので、あなたには桶屋のおこぼれがまわってくる」式の説明で納得できるほど私は賢くない。
 私としては、こう言いたい――現行法が定める知的財産権の内容には、著しい不公正があり、公共の福祉に適合しない面がある(憲法29条2項参照)。
 生物の多様性は、生物自体の存在を支えてきた。文化にとって多様性は、文化自体の存在理由でさえある。しかし現行の知的財産権は、多様性に対してなんの評価も含んでおらず、カルチェやavexは売れたぶんだけ儲かる仕組みになっている。彼らに利益を与えた服飾文化・音楽文化は、数多くの弱小ブランドがもたらす多様性に支えられたものであるにもかかわらず。
 カルチェやavexが好きな人は本物を買うだろう。もし模造品を買うとしても、もともと買えるだけの金がない場合なので、損失は発生しない。が、好きでなくても必要だと感じる人はいる。そのような必要を感じさせる力は、文化の力であり、カルチェやavexの力ではない。
 知的財産権が公共の福祉によく適合し、公正な分配がなされるという確信が抱けるようになれば、模造品への態度も変わるかもしれない。現行法のもとでは、「好きでもないのに必要だと感じる」という現象があるかぎり、模造品への態度はさほど変わらないだろう。

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2004年08月05日

髪の色

 電撃G'sマガジンのキャラ人気投票を眺めていたところ、新たな仮説を思いついた。
 「髪の色が派手だと人気が出ない、ただし赤紫は除く」
 9月号の人気投票を見ると、トップのことりを除いて、13位の天枷美春までずらっと黒髪・茶髪・暗い赤紫が占めている。作品内での相対的な順位もやはり、黒髪・茶髪・赤紫が強い。Memories Offシリーズでは例外なく、派手な色は下位に沈んでいる。
 この仮説はG'sでのみ妥当なのか? また、マーケティングとの自己循環を生じているのではないか?
 検討の余地がきわめて多い仮説だが、追求してみる価値はありそうだ。

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2004年08月04日

Visual Reading Story『希望入りパン菓子』

 諸君、私はマスターアップした。

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