2008年07月29日

どこの誰とは言わないが

 まず、〈同性愛〉も〈性欲〉も〈ポルノグラフィー〉も〈エロチカ〉も、性という制度の中にしか存在しない語彙であることを確認しよう!
 「「「確認しよう!」」」(シュプレヒコール)
 
 この理解に立った上で、
 「性という制度に適応してる私たちって超クール、適応できてない連中は超ダサい」
 「あなたもさっさと性という制度に適応して、私たちみたいにクールになりなさい」
という権力欲丸出しの文章を読まされると、殺意が沸いてくるのは私だけではないはずだ。
 百合がなんであるにしろ、少なくとも、こういう権力志向オヤジに対する闘争でなければならない。

Posted by hajime at 10:08 | Comments (0)

2008年07月21日

「眼差し」という悪

 映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』をDVDで見た。
 脚本はほぼ原作どおりらしいのに、演出が、原作に対する批判意識(=悪意)に満ち満ちている。これこそ正しい映画化というものだ。

 
 真の悪とは自分の周囲すべてに悪を見出す眼差しのことだ、という話がある。
 清深は自分のまんが作品(第1作)によって、その「眼差し」を家族全員に共有させた。すなわち、「澄伽は悪鬼であり、ほかの家族は無辜の被害者である」という「物語」を、家族全員の共通前提として押し付け、成り立たせてしまった。
 この物語は家族にとって、そもそも不要であり有害無益なものだった。
 澄伽がわめきちらす「東京に出て女優になるから金をよこせ」という物語への対処として必要なのは、ただ「そんな金はない」と返事することだけであり、澄伽の物語を家族全員の共通前提とする必要はまったくない。澄伽はこの無理解の壁を相手にせずに金集めに励むが、それへの対処は「東京に出て女優になるから金をよこせ」という物語とは切り離される。
 澄伽の物語を、家族全員の共通前提へと押し上げたのは、清深のまんが作品(第1作)である。
 このことは、最初はほとんど気づかれないように、控えめに語られる。しかし話が進むにつれて、清深の「眼差し」の悪がしだいに強調されてゆく。
 たとえば「覗き」の演出だ。澄伽の美人局行為や、宍道への脅迫を、清深は覗く。映画はこれをさらりとは演出しない。清深の印象的な眼鏡や、深いコミットメントを思わせるカメラワークにより、清深の覗きを、重いものとして、無辜ではありえないものとして演出する。
 そしてクライマックス、澄伽が清深を刺そうとするときの演出にこめられた、あの悪意の深さときたら、もう言葉もない。清深が「眼差し」を押し付ける力によって優位に立とうとすることの悪、卑小さ、滑稽さが徹底的に表現されている。
 「眼差し」の悪についてはこちらも参照のこと。
 
 また、これは深読みのしすぎかもしれないが、「眼差し」の押し付けが成功してしまうことへの批判意識も感じた。
 「前近代の小説の野放図な対話性をどう抑制し、社会のあらゆる階層に存在する筈の多様な読者から挙がるであろう多様な、時としては突飛な異論をコントロールし、読み手をして作者が意図したように笑い、意図したように泣き、意図したように学び、以て、当該作品が書かれている規範的な〈国語〉ないし〈母国語〉ないし〈母語〉の使用に対して画一的に反応するよう感受性から訓練し、同一言語の使用者として規格化し、国家に従属させることこそ近代文学の課題だった、というのは、ある面では、正しいのです」(佐藤亜紀『小説のストラテジー』142ページ)
 この課題は、私の知るかぎり、現状ではあまり達成できていない。こういうコントロールが多少なりとも機能しているジャンルは、学校教育・萌え業界・ポルノ業界の3分野だけだ。
 この3分野の外は、戦場だ。読者は、作者の命令に従う部下の兵士ではなく、むしろ敵の兵士に似ている。清深の「眼差し」の押し付けが成功するのは、同じ家族という強力な共通前提に恵まれたにしても、不条理だ。
 清深のまんが作品(第1作)が掲載された雑誌を、近所の人々が読んでいるという被害妄想的なシーケンスには、「眼差し」の押し付けが成功することの不条理が演出されている――というのはさすがに深読みのしすぎか。

Posted by hajime at 21:54 | Comments (2)

AVN Digital Magazine 2008 July, "The New Wave of Lesbian Erotica"

 アメリカのポルノ業界誌『AVN Digital Magazine』の7月号が、「The New Wave of Lesbian Erotica」なる記事を載せていたので、一部を訳してみた。

 すべてはGirlfriends Filmsから始まった。Girlfriends Filmsは、初のレズビアンビデオ専業studioである。Dan O'Connellが6年前に始めたこのベンチャー企業は、安定成長を続け、模倣者を生み出し、ニッチを超えた影響力を発揮している。
 Sweetheart Video、Abigail Productions、Femme Fatale Pictures、SMG Videoが販売するインデーズレーベル(Triangle, Bellezza, Purrrfect)――いくつかのレーベルにはGirlfriendsの元関係者がいる――、これらはlesbian eroticaのニューウェーブの表れにほかならない。
 これらの会社の作品は、伝統的なgirl-girl(いわゆる「lipstick lesbian」。男との絡みをやらない女優を出すための作品を含む)ビデオとは大いに異なる。「ニューウェーブ」作品は、リアリズムの要素を備えており、セールスポイントも異なる。
(訳注:lipstick lesbian: 女性ジェンダーに忠実なレズビアン像)
 Girlfriendsのビデオを見れば誰でも、それが古いgirl-girlものとは断絶していることがわかる。
 物語があり、充実した前戯があり、女たちはお互いに情熱的であるように描かれ、たまにstrap-onが使われるほかには性具はめったに出てこない。真の情欲、直感、ロマンスもしばしば。最初から恋愛感情があるように見えるカップルもいる。
(訳注:strap-on: 張形を股間に取り付ける性具。いわゆるペニスバンド)
(訳注:chemistryを「直感」と訳した)
 レズビアンポルノは、少なくとも1980年代半ば以降、ずっと強いジャンルだった。これはBruce Sevenが扇情的なall-girlビデオ――激しい絡み、大げさな性具、ロマンス抜き――をでっち上げたときに始まった。(BelladonnaはSevenの真の後継者だが、彼女はSevenのやりかたに女性的なタッチを加えて広めた。彼女のレズビアンビデオは独自のニッチにある)
 1990年代には、Vivid VideoのJanine LindemulderがレズビアンSMの女王様として売り出したが、1998年にVince Neilとの情事のホームビデオが流出してから、Janineは方針を変更した。
(訳注:この段落はかなり意訳)
(訳注:Janine Lindemulder: ポルノ女優。デビューからしばらくは男との絡みをしなかった)
(訳注:Vince Neil: 有名なミュージシャン)
 「私が始めたときには」GirlfriendsのO'Connellが回想して言う、「このジャンルでは誰も目立っていなかった」。
 2001年ごろ、ほとんどの会社はgirl-girlのラインを1本は持っていたが、Danによれば、「どこも本当にうまくはやれていなかった。ここに注力しようという人は誰もいなかったと思う。どこも資金不足か、関心がないか、そういう状態だった」
 「我々がモダンなレズビアンジャンルを始めたのだと思う」
 O'ConnellはGirlfriendsのやりかたを要約して、「我々が顧客に提供するのは、実際にお互いに楽しんでいる女、女が好きな女だ。女たちが直感で通じ合うのを、あなたはよく目にする。キスするのを見、タッチして見つめあうのを見る。こうしたことが演出できていれば、そのシーンはおそらく機能している」
(以下、Sweetheart Video、Abbywinters.com、SMG Video、Abigail Productionsへの取材が続く。
 取材の回答者はみな、性具を使わないことについて「女優の集中力を殺ぐ」などの理由をあげた。
 Abigail Productionsは、レズビアンまたはバイセクシャルの女優だけを使って、レズビアン向けビデオを作っている。顧客には男性が多いが、経営者は気にしていない。
 これに対してDan O'Connellは、Girlfriendsの主な顧客は男性であると確信している。「女性向けビデオを作れば、男性がついてくる」は彼がよく唱えるスローガンだ)

 この記事にはその「ニューウェーブ」作品の広告が載っているが、どうも「lipstick lesbian」と大差があるようには見えない。おそらくニューウェーブ前の作品というのが、笑顔のマネキン2体がプロレスしているかのごとき代物だったのだろう。
 ともあれ、Girlfriends Filmsの作品は一瞥の価値くらいはあるかもしれない。

Posted by hajime at 02:51

2008年07月13日

つまらない歴史教科書をつくる会

唐沢俊一のガセビア
唐沢俊一のガセビアその2
唐沢俊一のガセビアその3
 
 「新しい歴史教科書をつくる会」もようやく死に体になってきた。元スターリニストの組織力はあの程度らしい。
 連中の誰かが、「昔の左翼の歴史教科書には物語的な気迫があって、そこは美点だった」と懐かしんでいたのを、どこかで読んだ。それを読んで私は深く納得した。その主張の当否に、ではない。昔の左翼の歴史教科書など読んだことがないので、その主張が正しいかどうか私には知るよしもない。
 私が納得したのは、「だからお前はダメなんだ」ということだ。
 
 「QWERTY配列という十字架を人類に背負わせたのは、20世紀初頭のアメリカのタイプライター・トラストなんだよ。トラストというのはね(後略)」
 「秋葉原は昔はアキハノハラやアキバハラと読まれていたかもしれない。どの読み方が正式なのかもわからないし、そもそも正式な読み方といえるものがあったのかどうかもわからない」
 こういう歴史はつまらない。「トラスト? なにそれ?」というところで引っかかると、膨大な政治経済的な説明が始まり、しかもそれは現在の生活とはほとんど無関係で、興味もわかない。それでも説明がつくだけまだマシなほうで、なにもかもが「わからない」で終わる話など、歴史でなければ許されない。
 しかしこれこそが教育に値する歴史だ。
・昔のいろんなことがわからない
・昔は重要だったけれど今となっては無意味な概念がある
・現在の社会の枠組みを過去に当てはめても、ぴったりとは合わない

 こうしたことに比べれば、どんな事件も人物もトリビアだ。そのトリビアを中心に据えるという発想そのものに、根本的な愚かさがある。
 私は、トリビア的な歯切れのよさ、わかりやすさ、興味深さを一切廃した歴史教科書を待望する。過去のわからないことや、過去と現在の共約不可能性を、これでもかとばかりに見せ付ける、ヤマもオチもイミもない歴史教科書を。それは恐ろしくつまらないものになり、教育として強制されなければ到底身につかないだろうが、元スターリニストの夢見る娯楽読み物よりもずっとマシな人間を育てるだろう。

Posted by hajime at 18:51 | Comments (1)

2008年07月07日

FirefoxからIEへ移行

 Flash広告がブロックできる!という無類のメリットにつられて、ここ1年ばかりFirefoxを使っていた(Flashblock)。
 が、Firefoxは遅い。
 宣伝ではさんざん「レンダリングが速い」と連呼しているが、実際に使うと遅くてイライラする。ユーザの入力(スクロールなど)に対するレスポンスが悪い。ベンチマークだけを狙ったユーザビリティ無視のチューニングをしているか、クロスプラットフォーム対応のコードに足を引っ張られているか、あるいはその両方だろう。Firefox 3で多少よくなったとはいえ、それでもIE7のほうが圧倒的に速い。
 懸案のFlash広告ブロックについても、Toggle Flashというものを発見した。というわけで私はFirefoxをやめ、IEに移行した。

Posted by hajime at 21:43 | Comments (0)

2008年07月01日