タイトルは釣りです。
山中恒『ボクラ少国民』『御民ワレ』を読んだ。戦前の国民学校で行われた「皇国民の錬成」の有様が、著者の体験を交えつつ、これでもかこれでもかとばかりに執拗に記されている。
『御民ワレ』が出たのは1975年、敗戦から30年後だ。今は2013年、『御民ワレ』が出てから40年近く過ぎている。『ボクラ少国民』『御民ワレ』は一種の歴史書だが、今となっては、それ自体が歴史の一次史料として読める。
現在の目で読んで、私の頭に浮かんだことーー「ブラック国家」。
「これまでくり返し述べてきた〈皇国民ノ錬成〉という概念規定が、どうもよくわからないのである。〈皇国ノ道ヲ顕現〉する臣民が〈皇国民〉であり、〈皇国ノ道〉とは、『教育勅語』に示された〈斯ノ道〉のことであり、それが〈皇国ノ道〉であると、逆戻りして来て、エンドレスの迷路にはいりこんでしまうのである。改めて『国体の本義』(一九三七年・文部省)や『臣民の道』(一九四一年・文部省教学局)を読み返してみても、そこには、一見哲学的な概念説明が執拗にくり返されているが、結局はさきに述べたエンドレスの迷路、つまり入口はあるが出口がない奇妙な概念説明の無限軌道にのめりこんでしまうのである」(『御民ワレ』325ページ)。
この「エンドレスの迷路」の感触は、〈皇国ノ道〉に限らず、この時代の通奏低音のように思える。検証や評価を一切拒む、信仰の姿勢。
庶民は馬鹿で踊らされていたが、インテリと支配層は醒めていたーーわけではない。牟田口廉也はインパール作戦の失敗が目に見えてくると、戦勝祈願の祝詞を毎朝唱えていたという。二・二六事件の青年将校は、天皇親政を手段や過程ではなく価値と感じていたように見える。『ボクラ少国民』『御民ワレ』には、踊るインテリの例が山ほど記されている。
マルクス・レーニン主義流に言えば、「体制の諸矛盾が亢進した結果、宗教というアヘンが蔓延した」となる。
体制の諸矛盾が亢進する以前には、事態は違っていたらしい。「大東亜戦争開始後二週間の間に、宣戦の詔勅を奉読すること四回、神社に参拝祈願すること二回におよんでいて、戦争開始を、まるで宗教的行事か儀式のように取扱っている。日清、日露の両戦役の時でさえ、政府文部省はただちに訓令を発して「戦争中ト雖モ日常ノ如ク学業ヲ続ケヨ」といったのと比較して、何というちがいであろう」(『御民ワレ』388ページ、孫引き)。
戦前日本を真顔で称揚する人々は、「戦争中ト雖モ日常ノ如ク学業ヲ続ケヨ」と訓令を発するような『坂の上の雲』的な時代と戦前を混同しているのか、それともアヘンが欲しいのか。たいていは両方だろう、と私は睨んでいる。
いわゆる「ブラック企業」とはなにかというと、
・従業員が、現在の仕事以外の領域(家庭、転職・退職後、趣味、政治、宗教など)で生きることを認めず、現在の仕事へと総動員する
・総動員をかける手段として、信仰・無知・恐怖を用いる
くらいだろう。
大日本帝国は、おそらく二十世紀初頭ーー『坂の上の雲』の時代の終わりーーまでには、総動員をかける手段を整えていた。昭和恐慌までは必要がなかったので使わなかっただけだ。
必要が生じたけれど使わない、という選択は不可能だった。もしそんな判断をする能力があれば、無条件降伏にまで至らなかった。
ブラック国家の誕生を防ぎたければ、総動員をかける手段を国家から奪うべきだ。すなわち、信仰・無知・恐怖という3つの手段に国家が近づかないよう、監視しなければならない。
企業の経営環境にも、同じことが言える。個々の企業を「ブラック企業」として槍玉に上げるのは、不合理な性善説、企業信仰ではないか。総動員をかける手段があるかぎり、それを用いる企業はいくらでも現れる。
戦前日本やナチスドイツのようなブラック国家は長続きしないーーと私も信じたいところだが、北朝鮮は短く見積もっても30年前から現在まで、ブラック国家として生存している。同様に、30年間生存するブラック企業があっても私は驚かない。10年間くらいなら、繁栄することさえありうるだろう。戦前日本もナチスドイツも、それくらいは栄えていた。
人間の一生にとって10年は長い。そのあいだに受けた傷が癒えるまでの期間を含めれば、2倍3倍になるかもしれない。国家を監視する手間は、歯磨きと同じく、惜しまないほうがいい。
最近、goo.ne.jpのページをIEで開くと、開いて1秒後から3秒間くらいスクロールしない。タスクマネージャを見るとCPUがシングルスレッドでフル回転。たぶんJavaScriptだと睨んでIEの制限付きサイト(JavaScriptを無効にしてある)に入れたらビンゴ。メーテル、またひとつ制限付きサイトが増えたよ! やったねたえちゃん!
今頃になって『天元突破グレンラガン』(TVアニメ版)を見た。
面白い。と同時に、「でもいいの? 本当にそれで?」とも思う。
ここは私の日記帳なので、この違和感について書き留めておく。
面白さについて:
・登場人物の造形
ニアの瞳。ヨーコの奇妙な立ち位置と演技。カミナの勢いと無能さ。
カミナの勢いについては説明を要さないだろうが、無能さについて少し述べる。
第1部の戦いを通して、「カミナの虚勢にシモンが内実を与える」という構図が描かれている、と私は理解した。が、よく思い起こしてみると、カミナの死の直前の戦いはこの構図に収まらない。カミナを単なる英雄とみなす読解にも説得力がある、と言わざるをえない。
が、最終回直前の、多元宇宙の罠の世界で描かれた盗賊カミナの姿は、カミナの無能さを裏付けるものだと読める。また、カミナの父親が地上に出てほどなくして死んでいた、というエピソードも、カミナが勢いだけの人物であることを暗示していると読める。
・「悪い権力」の断罪も正当化もしない
「悪い権力を倒して自由と平等を手に入れました、めでたしめでたし」という筋書きに気を悪くする人はめったにいないだろう。「悪い権力が悪でありつづける原因は、その権力自体が作り出しているマッチポンプであり、悪い権力を倒せばマッチポンプ構造も消えて悪も消える」というベタな構図に文句をつける理由は、私には思いつかない。
この作品は、ロージェノム、ロシウの村の司祭、ロシウ、アンチスパイラルと4つも「悪い権力」を描いている。このうちマッチポンプ色が強いのはアンチスパイラルだけで、ほかは外部に悪の原因がある(ただ私見では、ロシウもマッチポンプ色を強めたほうが面白かったと思う)。「悪い権力」の構図としてはやや珍しい。そして、外部に悪の原因があるからといって、「悪い権力」を正当化してもいない。
この構図と態度が、作品の魅力を支えている。もし断罪や正当化をしていれば、カミナやシモンの勢いを殺ぎ、作品の魅力を損なっただろう。正義と勢いは両立しない。螺旋族を断罪するアンチスパイラルとの対比も味わい深い。
違和感について:
・死についての設定が消化不良
ロージェノムが生体コンピュータとして蘇り、ニアが仮想生命体なるものに変化したことで、死についての設定が消化不良に陥った。
視聴者の日常生活のレベルで「生きている」とはいえない存在が登場人物として行動する以上、作中の死についての設定は、視聴者の日常生活のものとは大きく異なる。ではどんな設定なのかというと、私にはほとんど読み取れなかった。そのためニアの消滅が意味不明になってしまった。
この問題について、製作者がなにも考えていなかったとは思わない。獣人の設定や、ロージェノムの娘の棺が多数ある(=理想の娘を一人だけ作り出そうとはしなかった)ことは、死についての設定を意識していたことの表れとも見える。
・第3部でシモンが無能さを露呈するが、その無能さが棚上げにされてしまう
ロシウのクーデターによってシモンは逮捕され、監獄で時間を空費する。
「シモンはカミナをどう乗り越えるか」という第2部のモチーフ、そして「カミナは無能だった」という読解からすると、かつてのカミナと同様に無能になったシモンはなんらかの答えを出すのではないかと期待する。しかしシモンは誰かに利用されるでもなく、内実を与えられるでもなく、有能に成長するでもない。シモンの無能さは、監獄の外の成り行きで、螺旋力を生かせる(=有能であれる)立場に戻ったことで終わる。シモンが答えを出したようには見えない。
この問題について製作者がどう考えていたのか、さっぱりわからない。「カミナは無能だった」という読解は不適切なのか? だとしたら、なぜ多元宇宙の罠の世界でシモンだけは、偽の幸せを味わうかわりに無能なカミナを見つめていたのか? この問題は私にとっては、ニアの消滅よりも違和感が大きい。
ともあれ、「でもいいの? 本当にそれで?」と感じるくらいには面白かった。凡庸なアニメの感想には、逆接も疑問符も入らない。