2013年08月23日

醜さについて

 8月15日近辺になると、よくTVのニュースなどで「戦争を語り継ぐ」などという話が出てくるが、「戦災を語り継ぐ」の間違いではないかと思う。
 山中恒『撃チテシ止マム』411~412ページより。

「通風塔」に寄せられる投書は、その後、戦局の推移と共に激越さを増し、更にファナティックな様相を帯び始める。婦人の化粧は一切禁止せよだの、老人の隠居を許すな、買出し夫人は愧死すべきである、などと言い出す。そして遂には「米はコメ、日本の国は瑞穂国の米どころで混同のおそれあり」として、区別するために、アメリカの「米」には〈けものへん〉をつけて「■」という新字、「英も英霊の英、東条英機首相の英」にまぎらわしいから、これにも〈けものへん〉をつけて「■」とし、「■■撃滅」とせよなどと、大まじめに言い出す。
 また、『戦争に徹しよう』の投書者に見られるような、やたらに他人を大喝叱正したがる「張切り者」が出現し始める。警防団の班長、隣組の防火班長など、やたらに「長」の肩書きのつく人種がふえ、それぞれが「長」をかさにきて、大喝叱正する。下っぱであればある程、それが激しい。大喝叱正をくわされる方は、女、子ども、学生が多い。多分、反撃される心配がなかったからだろう。そして、そういうおとなの横暴は、「お国の為の赤誠から出た、やむにやまれぬ感情」からであり、「お国の明日を憂うこと」として正当化されてきたのである。

 こうした醜さを伝える努力は、特にTVでは、ほとんどされていないように思える。
 もし、「こんなことには戦争体験として伝えるほどの価値がない」と感じられるのなら、こうした醜さが再び世界を覆いつつあるということだ。

Posted by hajime at 20:25 | Comments (0)

2013年08月08日

核兵器のインフォグラフィック

 長崎大核兵器廃絶研究センター(RECNA)が核兵器の配備状況のインフォグラフィックを公開した(報道)。
 このインフォグラフィックを見れば、確かに数はわかる。が、数は数にすぎない。それで私は考えた。核兵器の配備状況のインフォグラフィックはいかにあるべきか?

 
1. 世界地図の上に、指揮命令系統の線を示す。線の太さが弾頭数を示す
 ホワイトハウスからグアムやディエゴガルシアに線が伸びるわけだ。ついでに運搬手段の届く範囲も示すといい。
 線の数と長さではアメリカがダントツなので、猛烈にアメリカが悪く見える。
 
2. 各国の兵器級プルトニウム・ウラン(≒弾頭数)の通算生産量とその現状の内訳を、1個の円グラフで示す
 パイ一切れ全体の大きさが一国の通算生産量、パイの内側に同心円状の区画を描いて消費量・配備量・保管量・廃棄量とする。
 これだとロシアもたいぶ悪く見える。
 
3. 各国が過去に核兵器に投じた費用の現在価値を、1個の円グラフで示す
 これまたアメリカが(略)
 
4. 各国が1946年以降に軍備に投じた費用の現在価値とその内訳(通常兵器・核兵器)を、1個の円グラフで示す
 核兵器関連費用の割合が異常に多い国(パキスタンと北朝鮮)がだいぶ悪く見える。が、パイが細すぎて棒グラフにしか見えないだろう。
 
 というわけで、「核拡散したっていいじゃん」という気分になりそうなインフォグラフィックしか思いつかなかった。
 パキスタンに内戦勃発→ドサマギで核弾頭が行方不明→「アルカイダなんて古いぜジジイ!」と粋がったアホがテルアビブに打ち込む、というシナリオが一番ありそうなのだが、こういうシナリオはインフォグラフィックにはならない。なお、このシナリオでも、パキスタンを締め上げて核放棄させる作業をストップさせているアメリカがやっぱり一番悪い。

Posted by hajime at 01:50 | Comments (0)

2013年08月01日

今月の俺Twitter

そういやゴキソハブってどうしてベアリングが定位置予圧なんだろう。部品点数を減らしたいってシロモノでもないのに。予圧ゼロにしたいから?



「脚を消耗する」という現象について洞察を得た。90~100% 5MPあたり(=VO2max出力付近)に閾値があって、そこを超えると消耗が起こる。閾値はforceとは無関係で、powerだけで決まる(だから昔のトップ選手はとてつもない大ギアで山を越えられた)。


おそらくlactateは関係ない。90% 5MPを4分持続すると、lactateバリバリのはずなのに、そこからさらに60MPを20分間持続できる。この閾値はVO2maxで決まってる。すなわちtHb massで決まってる。そりゃEPOが猛威を振るうわけだよ。


この閾値(仮に消耗閾値と呼ぶ)を連続して1分くらい超えると、おそらく局所的な酸素不足のせいで、筋膜のポリモーダル受容器が悲鳴をあげはじめる。同じ刺激が続くと、他の感覚受容器が鈍麻するのに対して、ポリモーダル受容器は逆に過敏になる。ポリモーダル受容器の過敏はいわゆる筋肉痛と同じ現象なので、48時間は続く。数分や数時間では絶対に回復しない。


過敏になったポリモーダル受容器は、消耗閾値どころか60MP以下の出力でも悲鳴をあげるようになる。こうして、筋グリコーゲンや酸素に余力があっても使えない状態、「脚が終わった」状態に陥る。


結論その1:レースでもサイクリングでも、最後の最後まで絶対に、消耗閾値を超えてはいけない。超えるとDNFや地獄が待っている。


結論その2:トレーニングにおいて消耗閾値を超えると、そこから48時間(あるいはそれ以上)はろくな負荷をかけられなくなる。消耗閾値を超えないようにトレーニングすべし。


結論その3:消耗閾値さえ超えなければ、どんなに苦しくなっても、何度でも復活できる。

ヘッドパーツが開けるたびに腐ってるのに業を煮やして、Water Pump Greaseなるものを買ってみた。これはNLGI #4のグリースを少量買える唯一の手段だと思う。



PowerTapの電池が切れたので、ついでにハブシェルのベアリングを交換した。かなりテキトーに叩いて入れたので、たぶんマッハでまた鳴り出す。というかすでに鳴ってるかも。まともに入れるには、専用の治具とプレス機が必要。ベアリングを外す前にそうとわかっていれば外さなかったが、外してしまったのでしょうがない。


だからPowerTapのベアリングをまともに入れたければ、Sarisに送るべし…… って本当か? 工場出荷状態でのテキトーっぷりからいって、Sarisのベアリング作業は信用できない。

Posted by hajime at 22:52 | Comments (0)

ブラジル忠臣蔵

 19世紀末、ブラジルで「カヌードスの乱」なるものがあった。
 ブラジル北東部の乾燥地帯に暮らす貧しい人々が、コンセリェイロという名の宗教指導者に率いられて、辺鄙きわまる寒村(カヌードス)に人口3万人の巨大なコミューン(ベロ・モンテ)を建設し、政府の支配を拒んだ。政府は武力によってコミューンを排除しようとしたが、辺鄙きわまる地域での戦いはコミューン側に地の利があり、政府軍の遠征は3度にわたって失敗した。最初の遠征から1年後、4度目の遠征で、1個師団ほどの兵力を投じて、ついに政府軍はコミューンを排除した。最新の推計では、コミューン側の死者は1万5千人とされる。
 ……と、わかったようなまとめを書いてみたが、実は、これ以外の史実を私はほとんど知らない。
 ブラジル史上最悪の内戦であり、よく研究されているらしい。が、私に読めるのは英語版Wikipediaくらいだ。『世界終末戦争』の記述がどれくらい史実と食い違っているのか、私にはほとんど知るすべもない。
 もしかすると、驚くほど史実に沿っているのかもしれない。
 戦闘終結後、コンセリェイロの墓は政府軍に暴かれた(史実)。埋葬場所を教えたのは、苦行帯をつけた古株の側近ベアチーニョだった――これくらいなら可能性は高そうだ。ナトゥーバのレオンにはモデルがいて、まさに『世界終末戦争』の記述どおりに四足歩行していた――のだったら、いささか驚く。商人アントニオ・ヴィラノヴァのモデルは、「コンセリェイロの遺言でカヌードスを脱出した」と主張していた――これはありそうな話だが、もし主張の内容まで事実だったとしたら大いに驚く。
 だが、どれだけ史実に沿っていたとしても、やはりこの作品は『仮名手本忠臣蔵』だ。

 すべてが原色で描かれている。「男爵はその調子に覚えがあった。それは、布教団でやってくるカプチン会の宣教師たちや、モンテ・サントにまわってくるいわゆる聖者ら、それに、モレイラ・セザル、ガリレオ・ガルたちと同じ口調なのだ。絶対的な確信の調子、けっして疑うことのない者たちの口調だ、と思った」(207ページ)。「わからん。またなんにもわからなくなった。ベロ・モンテにいたころは何でもはっきりしておったわ、白は白、黒は黒とな。あの瞬間まで、罪のないあいつらとベアチーニョに向けて銃を撃ちはじめたあの瞬間まではそうじゃった。それがまた、すべて複雑になりおったわ」(672〜673ページ)。こういう絶対的な確信は、それを共有しないものにとっては、稀には崇高に、たいていはキッチュに見える。オウム真理教がどれだけ安っぽく俗悪で滑稽だったか。
 著者は原色の絵巻物を描いている。もしそれが、ヘンリー・ダーガーのような怪物的な代物だったら、と私は妄想する。安っぽい象徴が漫然と大殺戮を繰り返す、世にも稚拙な終末絵巻だったら、と。しかし実際に私が読んだのは、高度に洗練された宗教画に近いものだった。『世界終末戦争』に描かれるコンセリェイロは、宗教画のなかのキリスト同様に崇高であり、安っぽくも俗悪でも滑稽でもない。そのことが、この作品を『仮名手本忠臣蔵』にしている。美しく巧みで面白い。芝居小屋の外を完全に忘れて見るのなら、手に汗握る最高の出し物だ。ただ問題は、「芝居小屋の外を完全に忘れて見る」こと自体が美しくなく面白くなく芸もない、という点にある。
 いったん芝居小屋の外のことを思い出すと、とたんに目の前の出し物が色褪せる。この出し物は、芝居小屋の外の世界に新たな彩りを加えるものではない、と気づくからだ。
 さて、「ブラジル忠臣蔵」とはもちろん映画『ベルリン忠臣蔵』のもじりだ。最近ではキアヌ・リーブスが忠臣蔵を演じたと聞く。私はこの種の、どう考えても忠臣蔵ではない忠臣蔵のことを、好ましく思っている。武家社会の史実としての事件と、江戸の町人に鑑賞された出し物としての『仮名手本忠臣蔵』のあいだの関係は、『仮名手本忠臣蔵』と『ベルリン忠臣蔵』のあいだの関係に似ている。『ベルリン忠臣蔵』を見ることで、忠臣蔵がなんなのかを知ることができる。
 ほとんど史実を知らない私には、『世界終末戦争』がなんなのか、よくわからない。ただそれが、美しく巧みで面白く、それゆえに芝居小屋の外の光には耐えられない、ということはわかる。

Posted by hajime at 19:33 | Comments (0)