小幡績『すべての経済はバブルに通じる』(光文社)を読んだ。前半の内容をまとめると、
・トラックレコード(過去の運用成績)が相対的に悪いファンドは潰れる
・なぜなら、ファンドの客は馬鹿だから、トラックレコードでファンドを選ぶ。丁半博打でたまたま連勝中なだけなのか、本当にうまいことやったのか、区別がつかない
・そもそもファンドの客は、馬鹿だから自分で運用できなくてファンドにやらせるのだからしょうがない
・バブルに乗ると、バブルがはじけるまでのあいだは、すごいトラックレコードが出せる。バブルに乗らないファンドは猛烈に見劣りする
・よってファンドはバブルに乗らないわけにはいかない
・ファンドをバブルに乗らせないための仕組みは、常に裏をかかれる
・なぜなら、裏をかいてバブルを起こすのに成功すると、いわばネズミ講の胴元になるので、猛烈に儲かる。サブプライムローンは「格付け」の裏をかき、「最高の格付けの証券にのみ投資する」というファンドの資金を集めた
・よって、バブルはこれからも何度でも起こり続ける
本書の前半の内容は以上に尽きる。後半はサブプライムショックの詳細を記しているが、
・相場に興味がないと意味がない
・相場では、過去と同じパターンが繰り返されることは稀なので、過去のパターンを学ぶことには大した意味がない
よって、読者諸氏はこれから本書を読んでも時間の無駄なのでお勧めしない。
さて、ファンドはバブルに乗らざるをえない。とすると、リターンに比して過大にリスクを取らざるをえない。とすると、この投資行動は非合理的であり、叩いて儲ける方法があるはずだ。
それを現にやったのがタレブ(『まぐれ』『ブラック・スワン』)らしい。タレブは、四半期ごとにトラックレコードをお化粧する必要のない資金を得て、この戦略を実行したという。そんな鷹揚な資金と、馬鹿な客(=トラックレコードや「格付け」に騙される客)の資金が、どれくらいの量的比率で存在しているかと考えると、これは無限に金の生る木に等しい。
さて、以上の理屈を理解した客が、四半期ごとにトラックレコードをお化粧しないファンドに殺到したとする。すると、どうなるか。
バブルが起こらなくなる。
トラックレコードをお化粧しているファンドが魅力的に見えてくる。「市場が健全になったので、もうバブルは起こらない」「この市場だけは特別」という幻想がはびこる。損ばかり出しているファンドから、「儲かる」ファンドへと資金が移る。
相場では、過去と同じパターンが繰り返されることは稀だ。なぜなら、「同じパターンで来る」と判断した投資家は、それを利用して儲けようとする。同じ判断をする資金が多く(≒判断の妥当性が高く)、マーケットインパクトが大きければ、その「同じパターン」は実現しなくなる。「お化粧しないファンドに資金が殺到するとバブルが起こらなくなる」というのも、この原理による。
なのに、バブルというパターンだけは、何度も何度も繰り返されてきた。バブルは人間の本性に埋め込まれている。
バブルはこれからも何度でも起こり続ける。
ほとんど専用治具なしにPowerTapのハブシェルのベアリングを予圧調整する方法を見つけた。外径24mm弱のワッシャーを何枚か重ねればいい。
ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』(柏書房)を読んだ。
本書を読みながら、私は考えた――災厄はしばしば人々を結束させる。天災しかり、戦争しかり。しかし金融危機だけは違う。互いに手を携えて難局に立ち向かうどころか、逆に「万人の万人に対する闘争」の度合いを増し、野蛮状態へと近づいてゆく。なぜなのか?
本書は、20世紀アメリカにおける人々の結びつき(=社会関係資本、ソーシャル・キャピタル)とその経時変化を論じている。本書の主張をおおまかにまとまると、
1. 社会関係資本には、「結束型」のものと「橋渡し型」のものがある。「結束型」は、家族、階級、民族などの排他的な枠を持ち、結びつきが強い。結束型の枠を超えて人々を弱く結びつけるもの、たとえば草野球チーム、ロータリークラブ、ボーイスカウトなどが「橋渡し型」である
2. 社会関係資本は、人々が互いを強く信頼しあう「高信頼性社会」の基盤である。たとえば、地縁を同じくする移民同士が固まって暮らし、地縁で人を雇うのは、そうすることで強い信頼を得られるからだ
3. 社会関係資本には悪い面もある。結束型は構成員の同質性が高いため、差別や不寛容を温存しやすく、問題解決能力に乏しく、高信頼性社会を形成する範囲が狭い。橋渡し型はこれらの面で優れているが、作り出すのが難しい
4. 社会関係資本が少ないと、治安の悪さ、うつ病、公教育の劣悪さ、起業の困難、脱税、汚職に悩まされる。これは相関関係ではなく因果関係である
5. 1960〜70年をピークに、社会関係資本は縮小しつづけている。人々は互いの家を訪ねるのをやめ、コントラクトブリッジに通うのをやめ、労働組合に入らなくなり、公職に立候補しなくなり、家族同士で会話するのをやめた。そのかわりに、テレビを見るようになった
6. 縮小の主な原因は、世代変化とテレビである。第二次大戦の影響を受けた世代(1910〜40年生まれ)は社会関係資本に熱心にコミットするが、それ以降の世代はテレビを見るのに忙しい
7. 社会関係資本が減少の一途をたどる今、これを増やすことは重要な政治課題である。20世紀初頭のアメリカでは、急速な都市化によって従来の社会関係資本が大量に失われ、多くの人々が危機を感じて様々な対策を講じた。ロータリークラブ、ボーイスカウト、職能別労働組合など。現在のアメリカ人もなんらかの行動を起こすべきである。特に重要なのは、橋渡し型を増やすことである
要約はこれくらいにして、面白いところをいくつか。
291ページより。強調は私。
テレビは確かに習慣形成的であり、おだやかな中毒症状と言えるかもしれない。テレビをあきらめさせようという実験的研究において、一般に視聴者は引き替えとして多額の見返りを求めた。一貫して、テレビを見ることは他の余暇活動と比べて、仕事さえよりも満足度が低いと回答しているにもかかわらずである。一九七七年に『デトロイト・フリー・プレス』紙は、五〇〇ドルの見返りに対して一ヶ月間テレビを見ないということに進んで参加するものを、一二〇家族中五つしか見つけることができなかった。伝えるところでは、テレビをやめた人々は退屈、不安、苛立ち、そして抑うつを経験している。ある女性はこう述べた。「ひどいものでした。何もすることがなくて――主人と私は話をしたんです」。
438ページより。「コミュニティ活動への関与は、男女平等や人種統合などへの不寛容を強めるのではないか?」という疑問に対して、
社会的参加者や市民的活動家は社会的孤立者と比べて、立場を異にする、慣例に従わない行動に対して一般的に寛容であるというパターンは、一九五〇年代の抑圧的なマッカーシー時代に社会科学者によって最初に発見され、その後繰り返し確認されてきた。米国五都市での市民参加による住民発案(イニシアチブ)に関する包括的調査によれば、社会経済的地位とかかわりなく、これらの住民発案に対して積極的であった人々は非参加者と比べて、人気のない、議論の的となるような発言者の権利に対して非常に寛容度が高いことが見いだされた。宗教的関与、特に福音派教会に対する関与が不寛容さと関連しているというよく見られる例外を除けば、コミュニティ関与と不寛容性の間に想定されたような関連があることを見いだした実証研究はただの一つも発見できなかった。
409ページより。大規模アンケートで測られる生活満足度について、
全般的にいうと、所得階層が上昇すると、生活への満足度も増加する。したがって金銭によって幸せが結局は買えるということになる。しかし、それも結婚がもたらすものほどではない。教育、年齢、性別、婚姻状態、収入、市民参加を統計的に統制すると、生活への満足に対して結婚のもたらす限界効果は、所得階層におけるおおよそ七〇パーセンタイル程度――いわば一五パーセンタイルから八五パーセンタイルへの上昇移動に相当する。数字を丸めると、結婚は年収を四倍にするのと「幸福相等」である。
教育と満足度についてはどうだろうか。教育は、収益能力の増加を経由して、幸福感への間接的関連要因として重要だが、収入(や年齢、性別その他)を統制したとき、生活への満足度との教育の限界相関はどの程度だろう? 数字を丸めるとその答えは、四年間の教育年数追加――例えば、大学進学――は年収をおおよそ倍にすることと「幸福相等」となる。
さて、冒頭の疑問に戻る。あらゆる災厄のなかでも金融危機だけは一体なぜ、人々を結束させるどころか、逆に野蛮状態へと陥れるのか?
234ページより。
大恐慌のみが唯一、二〇世紀前半三分の二の期間の市民参加と社会的つながりの上げ潮を中断させる引き金となった。失業はその犠牲者を急進的にするという期待に反して、社会心理学者の知見では職を失うと社会的にも政治的にも受け身的で、引きこもりがちになる。経済環境が苦しくなれば、関心が自分の、また家族の生存へと狭まるのである。収入が少なく、金銭的に困っていると感じている者は、豊かな者と比べてあらゆる形態の社会的、コミュニティ生活への参加が少ない。例えば、収入と教育水準が同一レベルの者で比較したときすら、金銭的な悩みの強い人口上位三分の一のものは、下位三分の一のものよりもクラブ会合の出席が三分の二にすぎなくなってしまう。
金銭的不安は単に映画に行く回数の減少だけでなく――これはおそらく、財布が薄くなったことによる自然な結果である――、友人と過ごす時間、トランプ遊び、家での歓待、教会出席、ボランティア、政治関心の減少とも関連している。金銭的コストがほとんどかからないか、全くかからない社会活動ですらも金銭的困窮によって抑制される。実は、金銭的不安と正に相関している唯一の余暇活動はテレビ視聴である。さらに、金銭的な不安、収入と教育水準を同時に投入して、さまざまな形態の市民参加や社会的つながりを予測してみたとき、収入だけが有意とはならなかった。すなわち低収入そのものではなく、それが生み出す金銭的な心配が、社会参加を阻害するのである。裕福な者であっても、金銭的な脆弱感があると、コミュニティ関与が弱まってしまう。
言い換えると、人間の脳は、金銭的不安に対する反応がバグっている。徒党を組んで社会的・政治的に大攻勢に出るべきタイミング、あるいは橋渡し型の社会関係資本(職を見つけるのに役立つ)に投資すべきタイミングで、逆に引きこもりがちになり孤立して、問題を悪化させてしまう。まるで誘蛾灯に吸い寄せられる蛾だ。
これが答えなのか? 違う。人間の脳にはたくさんのバグがある。薬物依存、プラシーボ効果、コンコルド錯誤、みなバグだ。これらのバグにはそれぞれ多少の対策がなされている。覚醒剤を乱用すれば刑務所行きだ。プラシーボ効果には二重盲検法が対策となる。今のMBAプログラムは必ずコンコルド錯誤を教えている(多分)。
だが、金銭的不安のバグに対しては、ほとんどなんの対策もなされていない。
このバグを、原始人の生活にたとえれば、こうだ――敵が武器を構え、雄叫びをあげて襲いかかってきたのに、応戦もせず逃げもせず、ただ憂鬱になって座り込む。そんなバグを抱えた種族は生き延びられないので、現生人類は誰もそんな反応はしない。だが、金銭的不安という敵に対しては、現生人類は「ただ憂鬱になって座り込む」。
このバグは、襲われた本人のみならず、経済全体にも打撃を与える。社会関係資本が減ることで、治安の悪さ、うつ病、公教育の劣悪さ、起業の困難、脱税、汚職が増える。
問題は、「これほど深刻なバグがなぜ未対策のまま放置されているのか?」だ。
「人間自身の行為が人間にとって疎遠な、対抗的な威力となり、人間がそれを支配するのではなく、この威力の方が人間を圧服する」(『ドイツ・イデオロギー』)。
社会は、自分がしていること(=貨幣経済)を支配せず、逆に圧服されている。言い換えれば社会は、貨幣経済のなかに文明を築こうとするかわりに、貨幣経済に合わせて人間を鋳直そうとしている。それゆえに社会は、この深刻なバグを未対策のまま放置している――これが私の結論だ。
現在有力な説によれば1000万年前、アフリカ東部は熱帯雨林からサバンナへと変わった。サバンナという新たな環境に適応すべく、アフリカ東部の類人猿が進化して二足歩行を獲得した。これが現生人類の祖先である、という。
貨幣経済とは、人類にとっての新たなサバンナである。だが遺伝子の変化を待っていては、先に文明の寿命が尽きる。人類は、鋳直されることによってではなく文明によって、進化によってではなく知恵によって、この新たな環境に適応しようとすべきだ。
人間が新たな環境に適応しようとするとき、真っ先に必要なのは、衣類だ。しかしロビンソン・クルーソーには原始人レベルの衣類さえ作れない。祖先から受け継いだ物質的遺産もなく、同族の協力もないのでは、たとえ神のような知識があっても無力だろう。だから、ロビンソン・クルーソーのように「自己責任」で貨幣経済に立ち向かうのは、やめたほうがいい。そしてもちろんロビンソン・クルーソーには、長持ちする家屋も建てられないし、堤防を築くこともできない。
貨幣経済という新しいサバンナのなかに、水道あり電気ありコンビニありの快適な暮らしを築く能力が人間にはある、と私は信じる。今足りないのは、それを築こうとする意志だけだ。
戦前の日本を調べていれば必ず目につくあの広告、「どりこの」。
カルピスのように5倍希釈して飲む清涼飲料水で、ただしカルピスとは違って広告は効能を謳っている。「高速度滋養料」というからスポーツドリンクのようなノリだが、値段は割高だ。当時のカルピスが原液600ccで1円なのに対して、どりこのは原液450ccで1円20銭(5倍希釈後350ccの値段は、物価で換算すると現在の373円、収入に占める割合では933円程度)。この価格付けはエナジードリンクに近い。清涼飲料水がまだ珍しかった当時、どりこのはエナジードリンクという新市場を開拓し、最盛期には年間200万本以上も売れたという。
広告をご覧になったことのあるかたはご存知のとおり、どりこのは大日本雄弁会講談社(現・講談社)が販売していた。戦前の講談社は多角経営で、レコード(現・キングレコード)や石鹸を製造販売し、さらには鉱山まで経営していたという。よく考えてみると、出版社は宣伝媒体を自社で持っているのだから、宣伝が重要な商品の小売に進出するのはむしろ当然と思える。鉱山はおかしいと思うが。
というわけで、宮島英紀『伝説の「どりこの」』(角川書店)を読んだ。どりこのの大宣伝の様子や、どりこのの発明者兼製造者・高橋孝太郎の話が書いてある。それぞれ時代を映して興味深くはあるが、最大の謎の前には霞む。
どりこの最大の謎、それは製法だ。
どりこのの発明者・高橋孝太郎は、どんなに忙しくても自分ひとりで製造を行った。しかも、製法に関する資料は焼却してしまったという。一人の甥にだけは製法を伝授したが、その甥も今は亡く、秘伝は失われたらしい。戦前はすでに何事も大量生産のご時世だったのに、その戦前の大ヒット商品の製法が秘伝であり、しかも失伝した――「日本刀でB-29を落とした」くらいにロマンあふれる話だ。
せっかく失伝したとのことなので、心ゆくまで推理を楽しむことにしたい。
情報:
・主な原料は砂糖とグルタミン酸。特許明細書(74843号)によれば、ショ糖50%、0.25〜0.5%グルタミン酸水溶液を110℃の油浴で2時間煮るだけで、ショ糖が90%以上加水分解するという
・原料のなかには、粉薬のように精密天秤で計量するもの(原料X)があった
・最終製品の成分はブドウ糖と果糖がそれぞれ32%前後、ショ糖が1.45%、5倍希釈後のpHが3.5
・原料を寸胴鍋に入れて加熱するだけで最終製品になった
・微妙な火加減が必要。ちょうどいい色合い(黄金色)にするのが難しい
・年間220万本(原液100万リットル、一日あたり最低2740リットル)を、一人の人間が作れた。200リットル以上の寸胴鍋があるとは考えづらいので、一人で一日に最低14個の鍋を完成させることができた。現実的には30〜60個の範囲だろう
本書では、原料Xをグルタミン酸と推測している。が、1回のバッチ(寸胴鍋)で得られる最終製品の質量を最低50kgと仮定して、原料のショ糖は30kgほど。対するにグルタミン酸は0.5%でも150g、これは精密天秤で測る量ではない。
しかし、原料Xのことを忘れると、すべて辻褄が合う。5倍希釈後のpH 3.5は、0.1%≒0.7mmol/lのグルタミン酸でおおよそ勘定が合う。製法は、鍋に水・砂糖・グルタミン酸を入れて2時間110℃で煮るだけ。火加減が難しいというが(濃度50%なら当然だろう)、いったん身につけてしまえば、一人で一日に30個の鍋を作るのはそう難しくない。原料Xは証言者の思い違いかなにかで、存在しないのではないか、と私は推理する。
つまり、秘伝の秘伝たる部分は、濃度50%のねっとりした砂糖水を焦がさないよう、メイラード反応が進みすぎないように寸胴鍋で煮る火加減だけ、というのが私の推理だ。
「あら奥様、こんなところにグルタミン酸の試薬が!」という研究室におられるかたは、ひとつ密造してみてほしい。もちろん、特許明細書にあるように油浴をお勧めする。
製法がわかってみると、高橋孝太郎は見事な商売をやったものだと感動する。
第一に、設備投資・固定費・変動費のすべてが著しく少ない。設備といえばコンロと寸胴鍋と作業場だけ。固定費は自分ひとりきり。変動費はガス・水・砂糖・グルタミン酸だけで、エナジードリンクとしての価格付けに比べればタダも同然だ。しかもこのスキームは、少なくとも年間生産量200万本までは拡大できた。
第二に、模倣品や後発品を作るのが難しい。もともと清涼飲料水はブランドが命で、本物とまったく同じ中身の模倣品を作っただけでは勝負にならない。なら後発エナジードリンクとして類似品を作れば、と思っても、特許がそれを阻む。現在のエナジードリンクはカフェインが売りだが、当時はブドウ糖が売りだった。ブドウ糖だけでは甘味が足りないのでほかに甘味が必要、となれば果糖だが、果糖ブドウ糖混合溶液が中間製品として安く大量生産されるようになったのは1960年代のことだ。戦前、どりこのの類似品を作るには、なんらかの手段で独自に果糖ブドウ糖混合溶液を作らなければならなかった。そして私の推測では、どりこのの特許(グルタミン酸によるショ糖の加水分解)を回避するには、かなりの設備投資が必要になった。ショ糖の加水分解後に触媒(酸や酵素)を取り除くはめになるからで、最終製品中に残しておける安価な触媒(=グルタミン酸)に目をつけた高橋孝太郎は慧眼だった。
本書では、発明者・高橋孝太郎は商売っ気のない人物であるかのように描かれている。だが、これほど見事な商売が、商売っ気のない頭から生まれてくるはずがない。こういう人物が、もし時と場所を得ていれば、と惜しまれる。