なにをおいてもまず、ページデザインをやっているデザイナーを首にしてほしい。1号2号はまだ、なにかの気の迷いだと思って見逃していたが、もう見逃せない。
「電撃大王」など他誌に連載されている百合に比べて、優位性を感じない。大塚ぽてとを載せているのはポイントが高いが、雑誌1冊の強みがそれだけでは、いかにも弱い。
藤枝雅の「いおの様ファナティクス」を読めば一応の用は足りる。もし暇なら、うるし原智志を読んでもいい(なにしろ短い)。
「おそらく、最も人の怒りを買う主張は、真実であるかもしれないと恐れられている主張だろう」。
逆にいえば――ある主張に対して怒ってみせることで、それが真実かもしれないという恐れを生み出すことができる。
私の知るかぎり、このほうがはるかに一般的なケースだ。中世においては、無神論者はなかば想像上の存在であり、言及されることは多くても実在するかどうか疑わしいものだった。「自分は無神論者だ」という主張がまじめに受け取られるには、いくらか努力を要したはずだ。が、聖三位一体の否定は、わずかの苦労で激烈な反応を呼び起こすことができた。
いま、聖三位一体を肯定するにせよ否定するにせよ、そのなかに重大な真実があるという考えは流行らない。では、聖三位一体をめぐる問題は、ちょっとした歴史の偶然からくるある種の自然災害であり、人間のなかには原因を求めることができないのか? そうではない。それは明らかに、必要なものだった。もし聖三位一体が問題にならなかったとしたら、別の対立軸が浮かび上がり、同じような役割を果たしただろう。
こういう種類の、真実らしく見えるものを、「政治的真実」とでも呼ぼう。
政治的真実の裏をかくには、おそらく、独特の才能がいる。目標に向かってまっすぐ歩いているつもりが、同じところをぐるぐると回ってしまっている、というような。だが、その円周の軌道がいつのまにか、目標そのものを無に帰してしまうのだ。
百合は、そういうものであってほしいと願っている。
「処女宮 ~栗毛の潮吹少女たち~」が積んであるのを横目に、「Fate / stay night」をやった。人生は厳しい。
なるほど面白い。ただしタイトルは、「観鈴 Happy Story」のほうがよかったかもしれない。
自分の都合でできないことを自分で主張すると、それが相手のせいになる――不思議な政治技術だ。
政府(正確には外務大臣)は「自己責任」と言う。この場合、自己責任とは、政府が介入せずに事態を放置することだ。
別にそれはそれでかまわない。日本国外で日本政府に守ってもらおうというのはお門違いで、助けを求める先は現地の行政機関(現在のイラクならCPA)である。また、「テロに屈しない」という例のスローガンの観点からも好ましい。相手にしなければ屈することもない。完全無視は不可能でも、お義理程度の情報収集と働き掛けと「ノーコメント」の壁で済ませるくらいのことはできる。
自己責任ウェルカム、いつでもどうぞ――だが、それをしないのは政府だ。
なぜできないのか。この件の成り行き次第では、小泉政権、さらには対米追従路線までもが吹っ飛ぶからだ。政府の救出活動は、人命よりも、対米追従路線を守るためのものだ。
邪推だろうか? では、「自己責任」という台詞は一体なんなのか。
たとえば、詐欺にあって一文無しになった人がいるとする。あなたは、その人の境遇を知って義侠心を起こし、詐欺師をつかまえてやろうと決意したとしよう。そのときあなたは、「自己責任」という台詞を口にするだろうか。それは、一文無しの人を見殺しにするときの台詞のはずだ。
助ける義理もない連中に鼻面を引き回されれば、腹立ちまぎれに「自己責任」と言いたくもなる――というのは的確な理解ではない。
外務大臣の「自己責任」という台詞は、国会の答弁で出てきた。私の知るかぎり、国会の答弁は、腹立ちまぎれの台詞を口にするような場ではない。「自己責任」という台詞には、ちゃんと狙いがある。その狙いとは、「自分の都合でできないことを自分で主張すると、それが相手のせいになる」だ。
相手のせいになる――ここが重要だ。
小泉政権と対米追従路線がいまのような危機に陥ったのは、誰のせいなのか。もちろん、小泉政権のせいだ。危険地域で3人が誘拐されたくらいで危機に陥るような、脆弱な政策をとったせいだ。これこそ自己責任というものだ。
その責任を、被誘拐者の3人になすりつける政治技術が、川口外務大臣の「自己責任」発言である。
私は、こういう政治技術を見ると吐き気がする。小泉政権崩壊が待ち遠しい。
はてなアンテナが更新を拾わないので、こちらから更新を通知してみようと試みた。更新通知先をコンテンツ側で設定する必要があるとは、なんともインテリジェントでない仕組みだ。
が、Movable TypeはPerlのバージョンが5.6以上でないと更新通知ができない。私の使っているプロバイダのPerlは5.4。よって更新通知はできない。
まず「おねだりSweetie」というエロゲーをやる。しかるのち、TVアニメの「花右京メイド隊 La Verite」を見る。
すると、両方の主人公の声が、同一人物に聞こえる。声やしゃべりかただけでなく、性格や台詞も(普段は)あまり違いがない。
これは単にネタとして面白いというだけでなく、「花右京メイド隊」を緊張感あふれるサスペンスアニメにする方法でもある。
「おねだりSweetie」の主人公は、かなり高性能なエロ台詞ジェネレーターを内蔵しており、ひとたびスイッチが入るや、ダイナミックな台詞をガトリング砲のごとき勢いで吐き出す。では、もし「花右京メイド隊」の太郎(主人公)に、エロ台詞スイッチがあるとしたら? スイッチを押したあとの情景が、ありありと思い浮かぶとしたら?――スイッチの入りそうなシーンのすべてが、手に汗握るスリルとサスペンスに変わるのだ。
馬鹿につける薬がないことは古くから知られている。そのため、馬鹿は治すべきものではなく、識別し回避すべきものとして考えられている。
馬鹿を識別する方法は数多いが、このごろ特によく効く方法がある――自分以外の人間を強いものだと仮定しているのは、馬鹿のしるしだ。
「マッチョ」というと、ヒーロー願望のでしゃばりな性格が思い浮かぶ。マッチョにとっては、自分をヒーローにしてくれる守るべき対象=弱いものがぜひとも必要だ。もし世界中の正義の人がすべて、知略や行動力や時の運に優れたスーパーマンだったなら、マッチョはむしろ悪でありたいと願うだろう。だからマッチョは、自分以外の人間を弱いものだと仮定している。
このようなマッチョを、ちょうど逆さにしたような性格がある。
世界中の正義の人がすべてスーパーマンだと仮定し、だから世界は正義に満ちている、と考える人々。このような考えは、ふたつの点で、マッチョより楽なものだ。第一に、自分にはなんの行動も求められていない、なにもすべきでない、と信じることができる。第二に、正義を思う必要がない。正義とは、この世界で日常的に起こっていることであり、逸脱はあくまで例外にすぎない。
このような性格のことを、「負のマッチョ」と呼びたい。
もしかすると、弱い人間がマッチョになるのかもしれない。人間は弱いものだという仮定のなかには、自分自身の弱さへの認識が含まれているはずだ。たとえば、学校教師志望の学生には、「子供たちのすさんだ心を癒してあげたい」というような志望動機を口にするものがいる。こういう学生は、見るからにして、本人が癒されたがっているのだと知れるという。
自分自身の弱さを認識できない馬鹿が、負のマッチョになる。人間の弱さの証拠を、どれだけ積み上げてみせても、負のマッチョには理解できない。馬鹿だからでもある。だがそれ以上に、人間の弱さへの理解は、当人の性格に、価値観に、つまり当人のもっとも切実な利益に反するからだ。どんな証拠も、例外として片付けるか、あるいは正義の実現として見ようとする。
このような馬鹿の行動パターンを観察するのに適した例を挙げよう。
20世紀に存在した強制収容所の数々――特にソ連とナチスドイツ――は、正義の人がスーパーマンでないことをもっとも確実に証明している例だ。アウシュビッツには常時1万人を越える囚人が収容されていたが、囚人蜂起は一度も起こらなかった。少なくとも150万人が黙々と、正義のかけらも実現できずに、殺された。ソ連のラーゲリの歴史もまた同様に暗いものだ。
これほど目立つ、これほど確実な証明をみせつけられては、挑まずにはいられないのかもしれない。小は「ガス室はなかった」から、大は「ユダヤ人は悪でホロコーストは正しかった」に至る、負のマッチョの見事なグラデーション。
賢明なる読者諸氏にありきたりな話題を提供するのは恐縮だが、そういう日もある。というわけで、イラクの邦人誘拐事件について。
今世紀の戦争は、こういうレベルで戦われる。キーワードは、「軍隊ぬき」だ。
これから先、どういう展開が待っているかわからない。日本政府が裏で取引して、身代金を積んで人質を解放させるかもしれない。この場合、事態は戦争ではなく犯罪事件だったということになるだろうか? どうも私には、そんな気がしない。たとえ犯人が単なる犯罪者集団だったとしても、彼らが政治的問題を持ち出すことに利益を感じたという事実にこそ、「戦争」というべき何かがある。
あるいは、米軍特殊部隊が人質を救出するかもしれない。だが、そのときの米軍特殊部隊は、軍隊よりも警察に似ている。敵軍事力を退けることよりも優先される課題(人質の命)があるのだから。国家が絡み、政治的問題が絡んでいるにもかかわらず、具体的な行動は警察のものになってしまうのだ。
いずれにせよ、サマワの自衛隊の間抜けさが際立つ。人助けをしに行って逆恨みされ、無関係な人をピンチに陥れ、そのピンチを誰かに助けてもらったことになるのだから。「これぞ間抜け」という図だ。
前世紀までは、軍隊はヒーロー映画の主人公だった。今世紀の軍隊は、主人公の足手まといになりピンチを作り出す間抜けな脇役である。
スターリンの長男ヤコフの死については数多くの伝説がある。
ドイツ側の発表では、彼は1941年7月に捕虜になり、1943年に捕虜収容所を囲む鉄条網を越えようとして自殺同然に死んだとされている。これはスターリンが「私にはヤコフなどという息子はいない」(日本と同様、ソ連でも捕虜になることは禁じられていた)と述べたのを知ったためだとも言われる。また、パウルス元帥との捕虜交換をドイツ側から打診されて、「元帥と兵卒ではお話にならない」と返答したのを知ったためだとも言われる。
「存在の耐えられない軽さ」のなかでは珍説が紹介されている。捕虜収容所で、便所の使い方をめぐって他の捕虜とトラブルを起こし、そのために自殺したのだ、と。
が、これは私の知るなかでは、もっとも信憑性に欠ける説である。
ヤコフが捕虜になったというのはドイツ側の宣伝工作で、実際には彼は死体で発見され、その遺品を使って捕虜になったかのように見せかけた――という説が現在有力視されている。その根拠のひとつが、ヤコフを個人的に知っていた捕虜が見つからない、という点だ。ヤコフがこれほど数奇な死に方をしたのなら、ヤコフ捕虜でっちあげ説は成立しない。
なお、この説によれば、「元帥と兵卒ではお話にならない」というスターリンの返答はソ連の宣伝工作とされる。ヤコフがすでに死んでいることを察知した上で、「息子の運命に胸を痛めつつ職務に忠実である父」を演出しようとした、というわけだ。敵の手口を逆手に取るのは、情報機関のもっとも好む手口であり、そのため私はこの説にかなりの信憑性を感じる。
それはさておき、感想をいえば――ギャルゲーのような印象が残った。
主人公が無類の女たらしだから、というのは少しは関係があるかもしれない。が、もっとも重要なのはやはり、「Es muss sein!(そうでなければならない)」のモチーフと、「ピッチを塗った籠に入れられて川を流れてきた赤子」という隠喩だ。「Es muss sein!」は選択にかかわる問題であり、隠喩は、ギャルゲーキャラにとってはキャラデザと同じくらい本質的だ。
とはいえ、主人公が「Es muss sein!」と感じるだけでは、まだ十分にギャルゲー的ではない。「Es muss sein!」と感じると同時にそこから逃げ出そうとする、この構造がまさにギャルゲーそのものだ。「Es muss sein!」が事実によって追い付かれたとき、つまり「人間は呼吸をしなければならない」のような馬鹿げた命題になったときには、もはや「Es muss sein!」と感じることはできない。
この構造はちょうど、乃絵美のような非攻略対象の妹キャラと裏返しの関係にある。攻略不可能であることと、「Es muss sein!」が事実によって追い付かれていることは一体不可分であり、非攻略妹の魅力の核心をなしている。非攻略妹は、ギャルゲーの反対側にあり、それゆえギャルゲーのなかでは特に輝いて見える。(だからシスプリは何重にもねじれた代物だ)
ところで私は、「君が望む永遠」の水月ルートをひとつも見ていない(あゆと茜は見た)。私の「Es muss sein!」というわけだ。どうやら私は、あまりギャルゲー的な人間ではないらしい。
神奈川県横浜市保土ヶ谷区あるいはその近辺にお住まいのOCNユーザのどなたかにお知らせします。あなたのマシンはウィルスに感染しています。
台湾にお住まいのChunghwa Telecom (HINET)ユーザのどなたかにお知らせします。あなたのマシンはウィルスに感染しています。
新年度である。香織派も始めての人事異動を行う。
長年イベント等で私の影武者を務めていただいたかた(身長173cm・体重60kg・男性)は引退され、今後は新しいかたが影武者の任に当たる。身長162cm、当年とって19歳の溌溂とした女性である。初のお目見えイベントは少女庭園になるとみられる。イベントに参加される皆様には、先代と変わらぬご愛顧のほどをお願い申し上げます。