2005年08月31日

河南あすか『ゆ・め・の・は』

 ブックオフや書店で、未知の百合物件をあてもなく探す――昔は毎日のようにやっていたことだが、そんな心の余裕がなくなりつつある今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。
 そんな私も、ここしばらく夏休みを決め込んでいたので、久しぶりに百合物件を探すことができた。ささやかな成果をご報告する。
 河南あすか『ゆ・め・の・は』(宙出版)。いわゆる男性向け創作少女である。
 近年の男性向け創作少女は、女性のナルシシズムを実にうまく処理するようになった。この処理が下手なまま百合を描くと、なんとも嫌な(文学的な)後味のものになる。世界は日々、百合の普及発展へと前進しているのだ。

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2005年08月30日

堀江由衣にはちんこが生えている

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20050829#1125327476
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20050829#1125332167
 いい機会なので一言しておきたい。
 私の知るすべての声オタは、「堀江由衣にはちんこが生えている」との共通見解を抱いている。私は声オタではないが、同じ見解を抱いている。
 これはもちろん、解剖学的な事実をいうものではないし、トランスセクシュアルだというのでもない。演技の発想、キャラクターの解釈が、「ちんこが生えている」という隠喩がぴったりくる、という意味だ。
 たとえば、To Heartのマルチをショタくさく演じるという発想。あれは私にとってはコペルニクス的転回だった。ロボットだから中性的に演じる、という手は常にある。セリオが無性的なのに対してマルチは両性的、という手もやはり合理的である。が――想像を絶する発想だった。
 少し急ぎすぎた。話を戻して、「ちんこが生えている」という隠喩の示すところを私なりに述べたい。
 精神分析における男根の乱用にみられるように、「ちんこが生えている」という隠喩は、文脈を限定しなければほとんど意味をなさない。この文脈では主に、ヴァルネラビリティとコケットリーのありかたとして用いられている。
 ショタ物がお好きなら、ヴァルネラビリティとしてのちんこの意義がおわかりだろう。内面を暴露する表示の機能(勃起・射精)と、内面を揺り動かす感受性の機能(性感帯)。これらはまさに弱点である。この弱点が、コケットリーとして働く。
 (ちなみに、80年代にあれほど流行した触手が滅びたのは、ヴァルネラビリティとしてのちんこの意義を欠くものだったから、という理由が大きいと思われる)
 ショタ的な演技は、ヴァルネラビリティとしてのちんこと結びついている。堀江由衣は、ごく当たり前のヒロインを演じるときにも、コケットリーを出す方法として、ショタ的な演技をよく使う。「コケットリーを出す方法として」、というところが重要だ。ただなんとなくショタくさいのではなく、それをコケットリーに使う、という点が重要だ。そこをとらえて、「ちんこが生えている」と言うのだ。マルチをショタ的に演じるという解釈も、さきほど説明したような蓋然性をたどって出てきたものではなく、「ショタ=コケットリー」という発想がまずあったとしか思えない。


 さて諸君、残念な知らせがある。
 堀江由衣が、長年にわたって、正統派メインヒロインを演じる声優として通用しているという事実。これは、男がどれほどちんこを好きかを示している。
 かつて私が百合の普及発展を思い描いたとき、こんな事実は計算に入っていなかった。百合のインフラ面での問題が解決されつつある今日、この事実は、百合の壁として立ちふさがりつつある。

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2005年08月28日

プリンセスコンチェルト

 『プリンセスコンチェルト』というギャルゲーを始めた。サクラ大戦形式の、ADV+戦闘SLGなゲームである。
 買った理由は、
・全年齢向け(私は非差別的市場を強力に支持する)
・主人公が顔出しフルボイス(主人公が顔出ししないADVは80年代の遺物だ)
・制作過程が不幸で泣けそう(発表時の予定では2002年発売)
……といったところか。
 戦闘SLGパートが辛い。最適なプレイングとリソース配分をすれば一直線でいけるのだろうが、それができないと、延々と経験値稼ぎをするはめになる。
 ADVのほうは、メインヒロインには凝った仕掛けがありそうだが、ほかはたいしたことがなさそうだ。

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2005年08月24日

あとがきにかえて

 悪い作品をあとがきで救うことはできないが、よい作品をあとがきで傷つけることはできる。だとすれば、あとがきなど、書くべきではない。しかし私はこうして書く。
 ホラティウスの『詩論』によれば、つまらない詩は存在することを許されない。つまらない食料でも腹は満たせるが、つまらない詩は人をいらだたせるだけだから、と。
 存在を許されないもの。
 あえて極端な二者択一を仮定しよう。存在を許されることと、許されないことと、どちらかを選ばなければならないとしたら? 私は、後者を選ぶ。
 存在を許されないものはみな私の友である。私は、彼らを弁護したり、神に代わって許したりはしない。ただ彼らの友でありたい。私は、たとえ行く先が天国であろうと、友を置き去りにしては行かない。
 作品が神に捧げられるのだとしたら、あとがきは友情に捧げられる。我が友フィガロとの友情に、この一文を捧げる。



 波多野陸子について。
 「民営国王」や「抽選制国王」というアイディア自体は古い。たとえばジョシュア・ノートンは、19世紀アメリカに実在した狂人である。アメリカ合衆国皇帝を自称する、サンフランシスコの有名人だった。
 また、チェスタトン『新ナポレオン奇譚』。この小説に描かれた1984年のイギリスでは、国王が抽選で選ばれる。
 ヨーロッパにおける王権の衰退が、こうした発想を生み出し、人気のあるものにしたのだろう。その後はこうした発想をきかない。王に正統性を求め、正統性に血統を求める――いまではこの考えはすっかり自明のものとされ、まったくと言っていいほど挑戦を受けていない。
 では私がやろうと思った。
 これは営業的には自殺行為に近い。男が男らしく、女が女らしく、王が王らしくあること――もし世界が百人の村だとしたら(これはいい表現だ。死語にするのは惜しい)、九九人までもが、そのような作品を求める。たとえば『ハリー・ポッター』はその極みだ。ジョシュア・ノートンや『新ナポレオン奇譚』は、王が王らしさを失っていった時代だからこそ、受け入れられた。
 だが私は自殺志願者ではない。ラクダを針の穴に通すくらい難しいが、勝算はある。
 王座と王宮と大臣を、大道具と衣装と音楽できらびやかに飾れば、王は王らしくなるのか。なる。パイプ椅子とジャージとハーモニカでも、「王らしさとはなにか」を伝えることはできるだろう。が、その光景自体はけっして王らしくならない。だからフィガロで私は1000万円の予算を要求した。
 王座と王宮と大臣を、本物に似せれば似せるほど、王は王らしくなるのか。いや、ならない。「らしさ」は、形を似せることでかえって失われる面がある。うまく似せるほど、似ていない点が目立つ。
 これら二つの原理のはざまに、波多野陸子の王らしさが立つ余地がある。
 九九人を捉えることはできないが、三〇人なら自信がある。しかもその三〇人のなかには、九九人に入らなかった一人が含まれている。この一人を抱きしめない作品を、私は作ろうとは思わない。
 王らしさにもバリエーションがある。
 現在の日本では、イギリスのエリザベス女王と昭和天皇が主に「王らしさ」のモデルを提供している。エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世もいくらか影響力を残しているかもしれない。が、ほかにも王らしさのモデルはある。私が選んだのは、エリザベス女王の妹、マーガレット王女だ。
 マーガレット王女は、イギリスの大衆紙に他愛ないセックススキャンダルをしばしば提供し、イギリス王室の問題児として知られていた。が、歴史的にみれば、セックススキャンダルはまぎれもなく、王らしさの一部をなしている。
 もちろん、マーガレット王女の王らしさはそれだけではない。こんな逸話がある。
 あるパーティーで、テーブルの上に高く積み上げられたグラスの山を、給仕が倒してしまった。会場にはグラスの割れる音が響き渡り、その直後、会場は静まり返った。白い目に囲まれ、我を失う給仕。その瞬間、マーガレット王女が突然、『Happy Birthday To You』を歌い始めた。歌声の主が誰かわかると、すべての客が歌に加わった。歌が終わると、客はみな何事もなかったかのように歓談を再開した。こうして客も、給仕も、幸せになった。


 林三千歳について。
 最初は単に、トップクラスの吉原女郎が不老不死になって現在も生きている、というところから始めた。近世の闇から生まれた女。ごく単純な発想だ。
 が、時代考証をしてみると、事は複雑になった。
 近世の闇から生まれた女が、元禄からずっと生きているのでは、ピントがぼやける。どんなに早くても化政期が限界だ。もちろん黒船以降にするわけにもいかない。とすると彼女は、吉原没落の時代に、女郎としてのキャリアを歩んだことになる。吉原が、現在の売春業に通じる、「早い・安い・確実」の波へと飲み込まれていった時代に。
 こうして彼女に、強い虚栄心が与えられた。トップクラスを目指すのは、厳しいうえに見込みのないキャリアだったのに、あえてそれを求めたのだから。
 私はそれまで、虚栄心を意識してキャラを構想することはなかった。考証のおかげで新しい視点を得たわけだ。
 考証からの影響は、話し言葉にも表れている。
 売春は高級なものほど言葉の比率が大きい。その言葉も、低級なものは決まり文句に終始し、高級なものは創造性にあふれている。ある程度以上に高級になると、金だけでは割り切れない領域に入る。
 トップクラスの女郎は、この領域で働いていた。言葉には自信があったはずだ。話すだけではない。手紙も大きな役割を演じた。
 それなら、高級女郎の書いたものも、多く残っているだろう。そう思って調べてみたところ、愕然とした。ゼロではないが、驚くほど少ない。高級女郎についての一次資料は、大半が客の書いたもので、女郎屋の息のかかったものが少々(遊女評判記など)。高級女郎自身の手になるものはおろか、その息吹を感じられるものさえ稀だ。
 私は、近世の闇を甘くみていたことを思い知った。真の闇からは沈黙しか出てこられない。
 こうして、林三千歳は無口なキャラになった。
 言葉への矜持は、林三千歳をプロスペローに結びつけた。
 かつては一国の王であり、いまは万能の魔法使いでありながら、敵と和解することだけはできなかったプロスペロー。彼は、敵と和解するために、魔法の力を駆使して大騒動を起こし、さらには魔法の力を捨てた。映画『プロスペローの本』(ピーター・グリーナウェイ監督)では、その魔法は、言葉としてシンボライズされている。
 プロスペローは、娘のミランダが成人するころには、敵と和解することができた。対するに林三千歳は、140年ものあいだ地上をさまよった。なぜか。理由が要る。
 ひとつには、彼女にはミランダがいなかった(逆にいえば、ミランダを設定してしまうところに、シェイクスピアの男らしい手ぬるさがある)。もうひとつは、彼女が和解できなかった相手とは、敵ではなく自分自身だった。140年も生きる人間はいないが、彼女自身はそうではない。


 安西広重について。
 歴代のローマ教皇には、素晴らしい顔の持ち主が多い。特にヨハネ23世はピカイチだ。もし少しでもオヤジに興味があるなら、ぜひ見るべき顔である。マフィアのボスか、さもなければ教皇、それ以外ではありえない、という顔だ。
 安西広重にはピウス12世をあててみた。ヨハネ23世のようなスケールの大きさはないものの、フィガロに似つかわしい、繊細な味わいのオヤジである。もしこんな顔の大物ヤクザがいたら、きっと日本はもっと楽しくなるはずだ。


 川井文について。
 そういえば、名前の由来を解説するのを忘れていた。「波多野」「陸子」「林」「文」にはこれといって由来はない。「三千歳」は、歌舞伎の『天衣紛上野初花』のヒロインから。「川井」は民法学者の川井健から。
 主人公・佐藤初雪の愛を争う(というわけでもないが)人々は、魔法使い、国王、マフィアの指導者、みないっぱしの権力者だ。ただひとり川井文だけが、なんの権力も持たない。おまけにサブキャラである。だから、おそらく全キャラ中で彼女が一番人気だ。
 だから彼女には、私が友情を捧げすぎる必要もないだろう。言うべきことの大半は、『チェリスト』のなかに書いた。あとは、作品としてでなければ言えない。


 設楽光について。
 おそらく全キャラ中もっとも幸福な人だ。背負わされるものもなく自由に育ち、愛する人(波多野陸子)に出会った。愛する人のそばに、それも文字どおり物理的にそばにずっといて、その人を支えることだけを使命にしている。毎日が命がけで、脚光を浴びる仕事でもあり、しかもそれほど忙しいわけではない。おまけに公務員なので失業はない。いったいどうすれば、これより幸せになれるだろう。
 彼女のこの幸せは、もちろん、波多野陸子の王らしさを示すためのものだ。
 波多野陸子がロリコン(ストライクゾーンは中学生)を半ば公言しているのも、もしかすると、彼女のためかもしれない。もし設楽光が、自分がストライクゾーンに入っていることを知ったら、「長いあいだには、なにが起こるかわからない」と考えるだろう。その「なにが起こるかわからない」というプレッシャーが、設楽光の幸せに影を落とすだろう。セックススキャンダルは王らしい行いだが、その相手が設楽光では、彼女の辞任を招く。
 連載中、更紗さまから、「どうすれば二人は結ばれるのか」と尋ねられた。私は関係の安定性を理由に、そっけない答を返してしまった(このそっけなさは、字数制限も大きな理由である。この日記を読むのは読者諸氏の好き好きだが、更紗さまが私の書簡を読むのは義務だったのだ)。ここでもう少し考えてみたい。
 記憶喪失と時間経過。連載では、フィガロのトーンにあわせて上品なものを選んだが、もっと下品でよければ手はまだある。
 たとえば。陸子が脱いだ直後のワンピースを、かき抱いて匂いをかいでいる光。そのありさまを、陸子は物影からしばし眺め、そのあとで、「ひかるちゃーん、見ちゃったよー?」と声をかける。これは破局を招く行いだが、陸子もまた、光にやみがたい性欲を覚えていたのだ。そのときから陸子の言葉責めの日々が始まった――(本物の女王様、というわけだ)
 あるいは。風邪で高熱を出し、朦朧としている陸子。テロリストに襲われて急所を刺された、というシーンを夢でみて、目を覚ますと、光がひとりでそばにいた。夢からは覚めたものの、まるで自分がもうすぐ死ぬかのような錯覚に陥っていた陸子は、「キスして」と頼み、光はそれに応じる。さらに――「ひかるちゃんの指、なめさせて」――「ちょっとだけど、気持ちよくしてあげるね」――と続く。熱がひいたあとも、光はもちろんのこと陸子も、このことを覚えており――(記憶喪失をひねっただけだが、ずいぶん下品になる)
 なるほど、この二人は、なかなか妄想カロリーが高い。


 佐藤葉桜について。
 彼女の孤独さについて書く機会がなかった。これを伝えなければ彼女のキャラデザは不可能だと気づいたときには、すでに時遅しだった。時間切れになったのは、更紗さまではなく私である。いまさら手遅れだが、ここで触れておきたい。
 アウトローの孤独は恐るべきものだ。どれほど成功しても、この孤独から逃れることはできない。イタリア式マフィアが組織を「ファミリー」と呼び、日本の暴力団が上下関係を親子関係に擬するという事実は、彼らの孤独を如実に示している。
 佐藤葉桜も例外ではない。彼女が妹を溺愛するのも、その孤独さが一因である。
 川井愛もそうだが、堅気の人々とは、人間への感性が違う。「カモは食われる」、「精神的なダメージを恐れない」という原理が、血管のすみずみにまで行き渡っている。現在の日本人が自由と平等を奉じるのと同じくらい、これらの原理を自分のものにしている。
 だから、溺愛する妹を、(たとえ国王とはいえ)女をたぶらかすために送り出すことができる。アウトローでなければ、妹が傷つくのを恐れて、こんなことはできないだろう。
 名前の由来は、「葉桜」は初雪からの連想、「佐藤」は元首相から。退陣の際の記者会見で、「新聞は嘘を書く」と言って記者とスタッフをすべて追い出し、会見場にTVカメラだけを置いて会見を行った、あの繊細な人である。バックストーリーからはまったく見て取れないだろうが、実は彼女にはそういう繊細なところがある。


 佐藤初雪について。
 「初雪」はとっておきの名前である。山田圭子『ゴーゴーヘブン!!』の主人公、白雪ミシャエラ紅玉から連想した。
 初雪。おいそれとはつけられない大看板だ。いまにして思えば、この看板にふさわしい最強を求めるあまり、手が縮んだかもしれない。
 最強を求めた結果、久美沙織『丘の家のミッキー』の主人公・浅葉未来に範をとった。現代最強の少女のイメージは『赤毛のアン』というのが相場らしいが、アンとダイアナの運命を思うと、浅葉未来のほうが上だ。もし『赤毛のアン』ほど先まで話が続いていれば、こちらも辛いことになっただろうが(特にトコ)、現に書かれていないので、こっちのものだ。
 潔癖で上品志向。浅葉未来に倣った点は多いが、もっとも影響が大きかったのは、この点だ。私のお高くとまった芸風とあいまって、フィガロ全体のトーンを極端なものにしてしまった。そのうえ気の短さを削ったので、キャラとしての掴みが弱くなってしまった。
 主人公は薄味のほうがいい。もし川井愛が主人公だったら、誰もついていけない。が、掴みは濃さとは別のものである。たとえば波多野陸子は掴みの強いキャラだが、主人公が勤まる程度には薄味だ。
 今後フィガロがもしなにかにつながるのなら、佐藤初雪というキャラは仕切り直すことになるだろう。初雪という名前はやはり大看板すぎた。
 となれば、いまこの場では、ありったけの友情でもって、彼女を抱きしめよう。
 連載にも書いたとおり、彼女は、フィガロのなかで私がもっとも愛したキャラである。私は、世の常の人と同じく、接することの多い人を好きになる傾向がある。また、多くを与えた人を好きになる傾向がある。彼女は主人公なので、接する機会はもっとも多かった。少なくとも名前と使命だけは、私の知るかぎり最上のものを、彼女に与えたと思う。
 彼女の使命は、彼女の名前と同じく、私の手にはあまるものだった。
 「信用されることを信用される」という使命は、言葉の上では難解だが、すべての人々が暗黙のうちにやっていることだ。私はこういうものを明示的に表現するのが大好きだ。暗黙の曖昧さのなかでしか生きられない妖怪に、縄をうち、理性の光で照らすことのできる形にこねあげ、試験体にして観察するのだ。こんなことをしても、妖怪を根絶することはできないが、妖怪の妖怪らしさを削り取ることはできる。
 だが、この妖怪は巨大だった。
 このメタ信用ゲームは、人々の意識を構成する基礎部品になっている。愛について論じてもロマンチストと思われるだけだが(私に言わせれば、論じない人のほうがよほどロマンチストだ)、いわゆる「社会人」はみな毎日のように信用について論じている。愛について論じるときは、詩的な省略があっても見逃してくれるが、信用はそうはいかない。貨幣と資本について論じるのと同じレベルの論理的な綿密さ、莫大な量の前提の共有、そして飽きることなく論を追う聴衆が要る。これは物語にできることではない。いや、できるかもしれないが、私にはできなかった。
 私は理屈っぽい子供だったので、王や権力について考えることも多かった。振り返って思えば、拙い思考だった。いまでは、王や権力についてはいくらか格好がついてきたものの、やっていること自体は、あのころとまったく同じように拙い。王や権力がメタ信用ゲームに、説明が物語に代わっただけだ。
 どういう一致か、更紗さまもまた最上のものを、彼女に与えてくださった。更紗さまのキャラデザの白眉は、彼女だと思う。たとえ一つでもこのデザインが得られるなら、フィガロを何度やってもいい。
 友よ、赦してほしい。私はあなたを飾るだけで、生かすことはできなかった。


 川井愛について。
 私はまだあきらめていない。この怪物の生きるべき場所は、必ずこの地上にある。
 理屈から生まれた怪物である。理屈とはこうだ。クンデラ『不滅』の主人公・アニェスが、自分の思いを行動に移したら――「そんな馬鹿な」と思う人は、近代の生まれを知らない。そういう人はきっと、「クメール・ルージュの虐殺は、妄想を実現するためのものではなく、権力を維持するためのものだった」と思っているのだろう。時と場所を得れば、妄想は現実へと噴き出す。アニェスの思いも例外ではない。
 とはいえ、ありそうもなさでは、川井愛はクメール・ルージュの上を行く。生まれたばかりの娘を置いて、自由を求めて失踪し、しかもそれに成功した女。
 産後の身体は、ホルモンや神経伝達物質のバランスが嵐のごとく乱れるため、一貫性のある建設的な意思決定は難しい。初産ならまず不可能だ。これはいわば、弁慶が母の胎内に18ヶ月いたという伝説のようなものだ。ありえない怪物には、ありえない出生が必要になる。もしポル・ポトがこういうありえない生まれかたをしたのだったら、彼の存在はもっと穏当なものに感じられただろう。川井愛はポル・ポトとは違って、物語のなかに生を享けたので、このあたりの角は丸くせざるをえない。
 だが、この怪物がおとなしくしているのはそこまでだ。彼女は、「怪物」という枠の中にとどまってはいない。
 あなたの隣人として、あるいは、あなた自身の母であったかもしれない女として、川井愛は、しなやかに動き回る。
 あなたの手を取り、ダンスに誘う。
 やれやれ、といわんばかりの疲れた後ろ姿で、肩をすくめる。
 微笑み返すことしかできないような、卑怯なまでの笑顔を、投げかける。
 だがどうやら、その機会は、しばらく訪れそうにない。
 もしその日がきたときには、どうか川井愛を、あなた自身の母として感じていただけますように。すべての母親は、どこかに川井愛を置き去りにしてきたのだと、私は信じている。置き去り――ちょうど川井愛が、自分の娘に、そうしたように。


 では、友よ、しばしの別れだ。
 私はあなたを忘れるかもしれない。だが焦らずに待っていてほしい。なにしろあなたは死ぬことがないのだから。私もいずれ、二度と死ぬことのない存在になったときには、あなたのことを思い出すにちがいない。

Posted by hajime at 22:55 | Comments (0)

2005年08月23日

Apache MyFacesと文字化け

 久しぶりに地獄めぐりをさせられたので、ここに書いておく。
 まず最大の責任者を非難しておこう。Javaサーブレット規格だ。フォームのPOSTのENCTYPEとして、application/x-www-form-urlencodedしか認めていない。これはenctypeとは名ばかりで、文字のエンコーディングが規格で決められていない。ならサーブレット規格のほうで「エンコーディングはUTF-8」と決めてくれればいいのに、それもしていない。ここからすべてが始まった。
 さて本題に入る。
 Referer Houndの管理サービスには、JBoss-3.2.7とApache MyFaces-1.0.9を使っている。この管理サービス内の、あるフォームとあるブラウザの組み合わせで、日本語に文字化けが起きていた。ほかのフォームやほかのブラウザでは文字化けは起こらない――これだけでもう逃げ出したくなるような話だ。
 その文字化けのしかたは、UTF-8のバイト列をShift_JISで解釈した状態になる、というものだった。いったいどこからShift_JISがまぎれこんだのか。私は最初、自分のミスだろうと軽く考えていたが、そうではなかった。根源はつきとめきれていない。MyFacesのソースコードのどこにも、Shift_JISやWindows-31Jのたぐいはない。
 ともあれ、なにか想像を絶する特定の条件が揃ったときにのみ、数MBのバイナリの闇の底から、得体の知れない強制Shift_JIS解釈が発動し、文字化けを起こすのだ。
 相手が闇の底だけあって、解決方法も一筋縄ではいかない。
 結論から書くと、javax.faces.webapp.FacesServletへのリクエストをサーブレットフィルタでつかまえて、setCharacterEncoding("UTF-8")をかけ、さらにgetParameterMap()する。後者が肝心なところだ。これをやらないと、setCharacterEncodingしないときとはまた違った妙な文字化けを起こす。いったんgetParameterしたら、その結果がキャッシュされて、そのあとでsetCharacterEncodingをかけてもgetParameterの結果は変わらなくなるらしい。
 20世紀まで人間は、太陽のエネルギー源を知らず、地磁気の原因を知らなかった。バイナリの泥沼は、人間に、新たな尽きることのない謎を投げかけているのかもしれない(ありえない)。

Posted by hajime at 22:32

玄鉄絢『少女セクト』(コアマガジン)

 完璧だ。これが百合である。
 もしあなたがまだこれを読んでいないとしたら、きっとあなたは死につつあるのだろう。これはたとえ話ではない。実際に、人はそのように病み老いて死んでゆく。
 完璧であるがゆえに、今日の百合のかかえる問題をも、反映せずにはいられない。
 まず、BLやエロまんが、つまり勃起・射精ベースの起承転結とのミスマッチング。勃起・射精ベースの起承転結では、勃起・射精という目標と、それへのアプローチが峻別され、その分離によって話の流れが生じる。しかし百合では、勃起・射精という目標は設定できない。その代替物を設定することにも疑問がある。となると、話の流れ自体が、BLやエロまんがとはまったく違ったものにならざるをえない。しかし、どんなものに?――今日まだその答は出ていない。
 絡みにおける構図や仕草の問題。男女の構図はそれこそ文明と同じ長さの歴史を持つが、女同士の構図には、歴史と呼べるものがない。これについてはBLも同じ事情を抱えている。絡みになるととたんに受けが女じみてくるのは、構図や仕草によるところが大きい。ひとりでルネサンスができるような天才でもないかぎり、一点の淀みもなく流れるような絡みを描くことは不可能だろう。
 すべての百合物件が完璧である必要はない。不完全な現在をくまなく照らし出す明晰さよりも、鮮やかな未来を垣間見せる一瞬の輝きが欲しい。とはいえ、不完全な現在も、それはそれで素晴らしいものだ。特に、まだ現在がよくわかっていない人にとっては、本書は必読中の必読である。Amazon(なぜか7andyにはない)

Posted by hajime at 01:11 | Comments (2)

2005年08月20日

先日のエントリ「まんが版『舞-乙HiME』」に関するお詫びと訂正

 先日、週刊少年チャンピオンに連載中のまんが版『舞-乙HiME』について、百合物件かもしれないとの情報を掲載してしまいましたが、主人公が女装男であることが確認されました。これは斜め読みの早とちりによるものであり、謹んでお詫び申し上げます。

Posted by hajime at 19:18 | Comments (0)

2005年08月17日

お手軽な幸せ

1. かずといずみ『貧乏姉妹物語』1巻を読む
2. この世のすべての姉妹が、このように愛し合っていると仮定する
3. 幸せ

Posted by hajime at 21:19 | Comments (0)

2005年08月15日

悪い質問

 悪い質問というものは確かにある。無意味な結果しか出てこない測定があるように、無意味な答しか出てこない問いもある。
 子供が悪い質問をしてもどうということもないが、マスコミが悪い質問をすると、無理に意味が与えられてしまう。

<戦争調査>「間違った戦争だった」43% 毎日新聞実施

・間違った
・やむをえない
・わからない

 質問はどうやらこの三択らしい。
 「間違った」と「やむをえない」は排他的か。まさか。やむをえないからといって、間違った行為が正しくなることはない。正しくなると思うのは、「戦争は人殺しだ」というのと同じくらい粗雑な思考である。
 戦争では人命を目標にすることはほとんどない。例外として、ナチスドイツはユダヤ人の命を重要な戦争目標にしたが、軍隊を使うのは効率が悪いと気づき、強制収容所を建設した。戦争で人命が失われるのはやむをえないことだが、だからといって、殺人が正しい行為になるだろうか。
 「間違った」と排他的な項は「正しい」である。「やむをえない」と排他的な項は「避けられる」である。
 毎日新聞は、2つの質問をすべきだった。ひとつは、「15年戦争は、正しかった・間違っていた・わからない」。もうひとつは、「15年戦争は、避けられた・やむをえなかった・わからない」。
 「正しかった」にマルをつける人は、ごく少数だろう。お題目はどうあれ、出世主義の跳ね上がり者にひきずられていった過程が、「正しかった」とは到底言いがたい。
 「やむをえなかった」という主張は、戦争観というより、人間観、組織観の問題に帰せられる。細部は必然で固められているようでも、全体としては回避する能力があった――というのが私の見方だが、違う見方もあるだろう。興味深いアンケート結果が得られそうな質問だ。
 さて明日はV-J Dayである。

Posted by hajime at 00:37 | Comments (0)

2005年08月09日

対テロ翼賛体制

 解散総選挙である。
 いい決断だったと思うが、犠牲は大きい。政治家が右往左往するのは、それが仕事なのでどうでもいいが、問題はイラクだ。
 スペインで成功したことが日本では成功しないと、信じてくれるとは思えない。テロリストがぼんやりしているか、警察がファインプレーを演じるかしないかぎり、死人は避けられないだろう。
 だが人命は最大の犠牲ではない。
 もし、テロに先回りして、「選挙結果にかかわらずイラク即時撤退はない」という翼賛的な声明を出すような事態が訪れたとしたら――これが最大の犠牲だ。
 現在の対テロ戦は、軍隊以外のすべてを動員した総力戦である。警察的なプロフェッショナルの能力だけでは十分ではない。テロの損害から速やかに回復する能力や、テロを無視する能力も重要である。
 日本は幸い、回復する能力には優れている。だからここでは、無視する能力の重要さを強調したい。
 無視する能力とは、あるがままの事実を認めない、ということではない。カラスが白いと思い込むことではない。物事の表面的な因果関係を無視し、「カラスは黒い? は? それがなにか?」と認識することだ。
 かつて湾岸戦争時には、クウェートが無謀な挑発外交を重ねてきた事実は無視された。これが無視できるのなら、オサマ・ビン・ラディンがアラブ人であることや、そのテロ組織がムスリムで構成されていることも、無視できないはずがない(実際、クウェートの場合よりも、因果関係のつながりは薄いと思える。アフガニスタン紛争への英米の介入(これがオサマを怪物に育てた)に比べれば、ごくささいなことだ)。
 また、テロリストの主張する「われわれの目的」なるものは、彼らのテロ行為とはあまり関係がない――と考えることも、それほど難しくない。今日のテロ行為の多くは、日本のカミカゼが生んだおかしなミームがグローバリゼーション世界で繁殖した結果であり、テロリストは、日本のマスコミの常套句でいえば「わけのわからないことを口走っている」にすぎない――というモデルはそう理不尽でもないはずだ。非人道的なモデルではあるが、テロ行為ほどではない。
 対テロ戦から尻尾を巻いて逃げる覚悟がないのなら、こういった覚悟を固める必要がある。こんな対テロ戦国家になるよりは、逃げたほうがいいと思うが。

Posted by hajime at 00:37 | Comments (0)

2005年08月06日

JavaScript版Referer Hound

 作った。このところ日記の更新が少なかったのは、これにかまけていたせいだ。

 Referer Houndの原理については、すでにさんざん解説したので繰り返さない。外部ドメインのサーバと通信する手法も、Google AdSenseでおなじみである。

 ただし、iframe要素ではなく、内容自体を挿入するのは珍しい。

 これはReferer Houndの設計・実装上の重要なポイントではないし、手間もかかっていない(1日で動くようになり、3日で完成した)が、応用がきくので、興味のある向きも多いかと思う。解説しよう。

 基本は、こちらに書いてあるとおりだ。JavaScript中で、document.writeやDOMでscript要素を書き込むと、それが実行される。そのscript要素のsrc属性は、外部ドメインでもいい。そしてもちろん、src属性のなかに、クエリ文字列を入れることができる。

 HTMLの中に静的に書き込んであるJavaScriptを、Aとする。Aが実行されたときに動的に読み込まれ実行されるJavaScriptを、Bとする。もちろんBはさらに別のJavaScriptを動的に読み込んで実行できるわけだが、Referer Houndはそこまではしていないので、AとBだけで話を進めよう。

 BはJavaScriptだが、サーバで動的に生成される。Referer Houndでは、XMLをXSLTにかけてJavaScriptに変換している。このJavaScriptを実行すると元のXMLが生成されるというわけだ。こう書くとまるで魔法だが、たいしたことはない。参考までに、Referer Houndで使われているXSLTを載せておく。これはスキーマにかかわらず使えるはずである。

<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<xsl:stylesheet version="1.0" xmlns:xsl="http://www.w3.org/1999/XSL/Transform">
	<xsl:output method="text" version="1.0" encoding="UTF-8"/>
	<xsl:template match="/">
{
	var domDocument = Sarissa.getDomDocument();

	function dctn(text) {
		return domDocument.createTextNode(text);
	};
	function dce(en) {
		return domDocument.createElement(en);
	};
	var ce = dce('root');
	var e;
		<xsl:apply-templates/>
	sendRPCDone(ce.firstChild);
}
	</xsl:template>
	<xsl:template match="text()">
	ce.appendChild(dctn("<xsl:value-of select="."/>"));
	</xsl:template>
	<xsl:template match="@*">
	ce.setAttribute("<xsl:value-of select="name()"/>", "<xsl:value-of select="."/>");
	</xsl:template>
	<xsl:template match="*">
	e = dce("<xsl:value-of select="name()"/>");
	ce.appendChild(e);
	ce = e;
		<xsl:apply-templates select="@*"/>
		<xsl:apply-templates/>
	ce = ce.parentNode;
	</xsl:template>
</xsl:stylesheet>

 なおSarissaとは、JavaScriptのDOM実装である。AはBを読み込む前にSarissaを読み込んでいる。また、このXSLTに食わせる前に、要素内容と属性内容に含まれるダブルクォーテーションとバックスラッシュをエスケープ処理しなければならない。

 Aはキャッシュが利くので、動的に生成されない部分はできるだけAに詰め込みたい。だからBは実行後、生成されたXMLを引数にして、Aで定義された関数を呼び出す。上のXSLTでは、sendRPCDoneがそれである。この関数が、渡されたXMLをHTMLに変換して書き込む。

 以上が、原理のすべてである。

 この手法にこれといった名前はまだないようなので、私がつける。「Cross Domain Ajax」、略して「XDA」だ。

 なお、JavaScriptの常として、原理の単純さからは想像もつかないような地獄めぐりをさせられる。プロジェクトの要にAjaxやXDAを置くのは大博打だ、と忠告しておく。

Posted by hajime at 08:28 | Comments (2)