Referer Houndのサービスの名称を、Houndに変更した。ちなみに読みは「ハウンド」である。
お知らせだけではなんなので、自分でしばらく使ってみた感想などを書いておこう。
blog作者にとって一番楽しいのは、リンク元情報のRSS配信である。リンク元がつくたびにすぐにRSSリーダーで通知を受けることができる。ホットなエントリに次々とリンク元がつくさまは、実に愉快だ。
自分のblogでこの愉快さを味わうには、blogツールのテンプレート機能をかなり使いこなす必要があるので、なかなかハードルが高い。そこで、この中里一日記のリンク元を配信するURLを公開する。
http://www.hound.jp/server/rss?user=223&token=b3ec2ccc&lang=ja
常駐型のRSSリーダーをご利用なら、この配信をしばらく試してみていただきたい。
リンク元が面白いエントリはこれだ。
http://kaoriha.org/nikki/archives/000187.html
もっとリンク元が面白くなるように日記を書きたいが、なかなか思うようにはいかない。
『プリンセスコンチェルト』のメインヒロイン、フローラをクリアした。
この手のゲームはたいていシナリオが納得いかないものだが、この作品は総じて悪くない。どう悪くないか。
・途中で自己犠牲する仲間がいない。ゲームにかぎらなくても、この筋の成功例は『機動戦艦ナデシコ』以外に見たことがない。
・役立たずの仲間はいるが、無駄な仕事を作る仲間がいない。少なくとも『サクラ大戦』に比べれば全員まともだ。
・「デウス・エクス・マキーナぶちかますのでよろしく」と言わんばかりのオープニングが期待をかきたてる。
どうせこの日記を読むほどの諸賢なら、オープニングを見ただけでほとんど展開が読めてしまうだろうから、多少ネタバレしてしまおう。
『プリンセスコンチェルト』の世界では、魔王の元締めは、地上に落とされた元天使である。自分(天使)よりも人間のほうが神に愛されていると思って、人間に嫉妬したから、というパターンだ。頭にきた元天使は人間の絶滅を誓う。オープニングでこの説明をするとき、元天使の髪型が、金髪ストレートロング左右分けである。なんのひねりもなく、そのままフローラだ。
さてここからはっきりとネタバレになる。
フローラは元天使の化身だが、まだ目覚めていない。表のボスを倒したあとで目覚めてラスボスになる。
フローラ以外のエンドでは、ラスボスもろともフローラが死ぬ。ではフローラエンドではどうなるのか。まさか、フローラと元天使を分離して元天使だけ片付ける、という展開にはできない。それでは、フローラ以外のエンドでフローラが死んだのが無駄になってしまう。どうするか?
また、元天使の化身は、人間が絶滅しないうちは何度でも地上に現れてくる。神がそのような運命を彼女に与えたからだ。これを断ち切らないことにはすっきりと終わらない(実際、フローラ以外のエンドは、あまりすっきりしない)。どうするか?
私の読みを披露しよう。神とバトルだ。
元天使がフローラの愛に影響される
→元天使の力で、主人公たちが神に対面
→元天使を運命から解放してやってくれと頼む
→拒否の回答
→ではフローラは?
→死ぬとの回答
→戦うしかない
この神はかなり全能なので当然負けるが、負けてからいよいよデウス・エクス・マキーナのはじまりだ。この先の展開は読めていると思うし重要でもないので書かない。
重要なのは、元天使の罪が私怨の逆恨みである以上、その改心もまた私情によるほかない、という点だ。逆恨みしている人間を、「そのりくつはおかしい」で改心させられるはずがない。逆恨みを覆すだけの私情を、絶望的な戦いによって表現する、というパターンはもっと使われていい。ただ残念ながらこのパターンは、改心によって戦いの帰趨がひっくりかえるという展開にされてしまうことが多い。デウス・エクス・マキーナを正しく使いこなせる人が少ないせいだろう。これもアリストテレス『詩論』のせいである。
さて、現実の『プリンセスコンチェルト』はどうだったか。
改心の話そのものがなかった。
なかった。元天使を倒すと、これといった前置きも山場もなく、改心してしまった。どうやら元天使は自分で「そのりくつはおかしい」と気づいて改心したらしい。
どういう内部事情があってのことかわからないが、これは実にまずかった。キャラがいろいろツボを押さえていたので期待したのだが。
世界中で政治家のトップと長年取引きをしてきたが、そこで私が発見したのは、“窮屈なイデオロギーにとらわれて融通性がない”と見られている人物がいざ判断を下すと、一般に、実は最も柔軟性があり、冷静な実利主義者だということである。まことに奇妙なパラドックスだが、これは事実である。
A. ハマー『ドクター・ハマー』180ページより
民主国家の指導者達は、スターリンの重々しく控えめな神学的な演説は、思想と政策の厳格さを意味するものと誤解した。スターリンの厳格さは、共産主義のイデオロギーのみに対するものであり、彼の共産主義に対する確信は、彼を戦術においては驚くほど柔軟にさせた。
H. A. キッシンジャー『外交』454ページより
iPod nanoのカラー液晶に感動したので、4日ほど考えた。どうすればiPodでギャルゲーを――具体的には『希望入りパン菓子』の体験版を動かせるか。
ファームウェアをいじるのはなしだ。作るのもインストールも大変すぎる。iTunesが扱える形式の範囲内で、それらしいことができないものか。
最初、Notes(メモ)を使うことを考えた。
文章を読むにはこれが一番だ。が、同時平行感に欠ける。BGMはなく、セリフはクリックしないと再生されず、目パチ口パクもないようでは、作るに値しない。
次に、音楽ファイルを使うことを考えた。
iTunesのm4aファイルはアートワークを含めることができる。ファイル内にチャプターを切って、各チャプターに対してアートワークを割り当てることもできる。ということは、セリフの最中に表情を変えることもできるし、目パチ口パクも可能ではないか?
文章はどうするか。タイトルに入れる、という手がある。実用性には大いに疑問だが、なにも文章まで読まれなくても、体験版には一応なりうる。
が、調べてゆくうちに、どうにも厳しいということがわかってきた。
まず、チャプターのタイトルが、iPodでは表示されない。m4aファイル全体のタイトルしか表示されない。これは打撃だった。タイトル表示を文章表示に使おうと思ったら、文章ごとに別ファイルに分けるしかない。iPodはファイルの切り替え時にギャップが生じるので、文章が切り替わるごとにギャップができてしまう。セリフのリズムは乱れ、BGMはズタズタになってしまう。
さらに、アートワークの切り替えが遅い。普通にやると、3fpsも出ない。キャッシュも作っていないらしく、2パターンの切り替えでも速度が上がらない。これでは目パチ口パクも厳しい。
というわけで、「やる価値はない」との結論に達した。iPodのファームウェアが更新されて、チャプターのタイトルが表示されるようになれば、やってもいいのだが。
ただし、オーディオドラマにキャラの顔をつける、といった用途には十分使える。ネットラジオなら、m4aでの配信を考えてもいいだろう(Appleのいう「拡張ポッドキャスト」)。
まだ上巻しか読んでいないが、途中で忘れそうなのでメモしておく。
たまには親切に説明してみる。キッシンジャーとは誰か。
ニクソン政権のもとで大統領補佐官などを務め、外交を担当。政権入りするまでは19世紀ヨーロッパ外交史の研究者。国務省の官僚機構の頭越しに外交を行った。ナチスの迫害を逃れてアメリカに移住したユダヤ系ドイツ人。おしゃべり好きで著書多数。
いかにもヨーロッパ人らしく、ウィルソン大統領への愛憎に満ち満ちている。キッシンジャーの愛憎の観点から、上巻の内容を私なりに要約すると、こうなる――
「『国家間の問題は、たとえ国家的生存にかかわる問題であろうと、力ではなく法によって解決することができるし、すべきである』。この途方もない夢は、夢物語ではなく、20世紀の現実を形作った」
キッシンジャーの伝記()によると、ナチズムの台頭をまのあたりにしたキッシンジャーは、イデオロギーの力を重視するようになったという。本書でも、「アメリカ世論が馬鹿だったから」という書き方よりも、「指導者がそう信じたから」という書き方のほうが目立つ。ウィーン体制についても、そのイデオロギー的な結束を何度も強調している。
渋谷のBunkamuraでやっているので、iPod nanoを買いに行ったついでに見た。
美術館・美術展の法則:展示物の95%はクズである
SFなら90%かもしれないが、美術館・美術展なら95%くらいが相場だ。クズが90%以下で済んでいる美術館・美術展は、いままでに一つしか見たことがない(大英博物館)。ちなみに、この法則のポイントは、「残り5%がクズでないとは言っていない」ということだ。
この法則が受け入れられない人はロンドンかフィレンツェに行ってもらうとして、受け入れられる私は渋谷に行った。目的は、晩年のあの画風がどのように形成されたのかを見極めること。
金を払って見たので、成果を忘れてしまうのも悔しい。ここに書きとめておこう。
予想通り、あの画風にたどりつくまでの軌跡は直線ではない。飛躍、というほどでもないが、どこかで脱線したように思える。ではどんな脱線だったのか?
仮説その1:年をとって手を動かすのが面倒になった
仮説その2:金がなくなって絵の具をけちるようになった
仮説その3:努力が報われなかったので、「絵なんかハッタリだ」という境地に達した
どれも当たらずとも遠からずだと思う。私もペンと紙にもどって、インクをけちってみようか。
ただの萌えまんが誌とみせかけて、百合だらけなのに驚いた。
萌え4コマ業界の流れを汲んでいるようだが、もしかしていまの萌え4コマ業界では、百合がデフォルトで男女物は絶滅危惧種なのだろうか。萌え業界の未来を先取りしていて興味深い。
アップルストア渋谷で買った。ちなみに白の4GBである。
容量、サイズ、カラー液晶、操作性、デザイン。実際に手にとってみると、すさまじいまでの商品力がありありと感じられる。この先、実売2万円以上の価格帯のシリコンオーディオプレイヤーは、iPod nano以外1個も売れないのではないか。
バズワードはコンピュータ業界の名物である。
最近のバズワードといえば「Ajax」だった。これがバズワードになったのは、Gmailによるところが大きいだろう。見ることは信じることだ。また、APIと直接に関連しているという点も重要だ。「ソリューション」というのは、「実装については言いたくありません」という意味の専門用語だが、なんらかの「ソリューション」がバズワードになることなどありえない。具体的な実装に近ければ近いほど、それはバズワードになりやすい。
「CMS」(コンテンツ管理システム)もなかなかがんばっている。WikiとblogとDreamWeaverとバージョン管理システムに分断された世界を統合しようとする試みである。現状のCMSはどれも幼稚なので、これからが面白いバズワードだ。美しいデータモデルを作り上げたものが勝つだろう。
対して、「セマンティックWeb」や「Web 2.0」のほうは元気がない。
セマンティックWebのほうは理由は単純で、まだ誰もセマンティックWebを見たことがないし、実装もないからだ。が、10年後には、実装先行の連中(Dave Warnerなど)を打ち負かすだろう。NetscapeもそうやってW3Cに滅ぼされた。W3Cは、デタラメな先行実装を滅ぼし、まともなコードを素早く書ける企業(=MS)に道を開くために生まれた団体なのだ。
さて、Web 2.0である。
初めてこの言葉を聞いたとき、なぜこれが人の口にのぼるのか、さっぱりわからなかった。読者諸氏の大半もそうだろうと思う。
まず、人の目に見えない。これは人々の認知モデルと深く関連しているので、あとで詳しく論じる。
また、どう贔屓目にみても、APIよりはソリューションに近い。つまり、実装から遠い。Web 2.0には、「とにかく目新しいもの」という意味もあるので、ソリューションよりもさらに実装から遠いとさえいえる。
が、実際に自分でWeb 2.0的なこと(Referer Hound)をやってみると、なるほどと思えた。Web 2.0とは、プログラマの苛立ちを表現する言葉なのだ。なにに対する苛立ちか。野蛮人の認知モデルである。
「ディープリンク禁止」「無断リンク禁止」という、野蛮人の風習がある。かつての私はこうした風習を、いわば迷信のようなものだと思っていた。フレームという悪習と同様、特定の状況から発生した誤解の一種であり、取るに足らないものだと思っていた。そうではなかった。これらの風習には、重要で動かしがたい根源がある。それが、認知モデルだ。
野蛮人の認知モデルによれば、Webページは自我の一部である。
私の言っていることがわかるだろうか。もし野蛮人を観察したことがあれば、「いまさら」と思えるだろう。そうでない向きのために、もう少し詳しく述べたい。
同様の事例として古くからよく知られているものに、個人の邸宅がある。一代で財を成した人々が邸宅を建てるとき、機能性や美観とはほとんど関係のなさそうな部分に情熱を注ぐことがよくある。「自我の一部」とはこういうことだ。人間は、機能性や美観のために存在しているわけではない。それと同様に、成金の邸宅のおかしな部分は、機能性や美観のために存在しているわけではない。それは善悪とは無関係に、そうでなければならない。
自我の一部である以上、それに接するには礼儀が求められる。礼儀を守ることは相手側の義務とされるので、本人は、様式を明示する以上のことはなにもしない。それが「ディープリンク禁止」「無断リンク禁止」という風習の深層だ。
自我の一部である以上、機能性によって分断することはできない。完全なWYSIWYGの世界である。そのためにはブラウザウィンドウのサイズまでも強制する。セマンティックWebなど、縄文人と量子力学くらいに無縁だ。
営利企業のサイトではさすがに野蛮人の認知モデルは影をひそめたが、かつてはトップページに無意味なFlashをつけるなどの形でみられた。個人サイトでは衰退の気配さえない。最近のマスコミによるblog・SNSの大合唱も、啓蒙の戦いではないかとも思えてくる。野蛮な邸宅の建設を防いで機能的なWebを、というわけだ。
マスコミによる大衆操作が資本によるアプローチだとすれば、Web 2.0は権力によるアプローチだ。
人々がみな合理的(=プログラマ的)であってほしい、あるべきだ、という信念。さらには、合理的(=プログラマ的)な人々だけを相手にすればいい、という世界観。そのためには合理性(=プログラマ性)による独裁も是とされる、という傲慢。これはかつてW3CのCSS (Cascading Style Sheet) として結実し、プログラマが独裁権力を握っていることを証明した。個人サイトを作っている人々の大半は、いまもCSSをほとんど理解しておらず、おそらくは理解する能力もないが、必要に応じて使わざるをえない状態にある。彼らは収奪されたのだ。
Web 2.0はたしかに未来を指し示している、10年前のCSSのように。営利企業は積極的に利用するようになるだろう。だが企業の腰はあきれるほど重い。プログラマは、素早い動きを個人に期待するのだが、野蛮人の認知モデルではうまく処理できないものにぶつかると、彼らは立ち止まってしまう。そこでプログラマは苛立ち、つぶやくのだ――Web 2.0、と。
Web 2.0とは、上(=プログラマ)から仕掛けられた階級闘争の名前だ。プログラマ側の勝利はすでに確定している。だがそれはけっして華やかなものではない、10年前のCSSのように。