2004年12月31日

冬コミ御礼

 冬コミにて香織派のスペースにお越しくださった皆様に、厚く御礼申し上げます。

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2004年12月29日

冬コミのお知らせ

 西在家香織派は12月30日、コミックマーケット67にサークル参加いたします。西ゆ-46bにて皆様のお越しをお待ちしております。
 なお今回、新刊はございません。来年1月に開始予定の、某秘密作戦にご期待ください。

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2004年12月22日

NTFSのパーミッションを回避する方法

 たとえば、HDDを交換してOSを再インストールした場合である。
 それまで使っていたHDD内のデータを取り出そうとしたら、NTFSのパーミッションに阻まれることがある。MSの公式情報では、このパーミッションを回避する方法はないとされている。しかし現実にはちゃんと回避方法が存在する。
 RedHat以外の最近のLinuxは、NTFSが読める。一番手っ取り早いのはKNOPPIXだろう。LinuxからNTFSをマウントすると、パーミッションを無視して読み出せる。

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2004年12月21日

同性婚+近親婚

 兄妹が結婚している戸籍を作るのも楽ではないが、姉妹が結婚している戸籍はさらに難しい。今月11日の設例を、もう一段ひねる必要がある。
 CD夫妻はXに会ったことがなく、出生証明書および出生届には性別が誤って記載された。EF夫妻はほどなく、Xの戸籍に性別が誤って記載されていることに気づいたが、海外在住であったため、現地の書類を訂正しただけで、日本の戸籍はそのまま放置した。
 成人したときXは、自分がAB夫妻の実子であることと、自分の戸籍に性別が誤って記載されていることを知っていた。
 XとYは知り合って、結婚することにした。このときXYは、Xの戸籍の誤記を利用し、Xを夫としYを妻とする婚姻届を作成して提出し、受理された。そのあとでXは、自分の戸籍の訂正を家庭裁判所に申し立てた。
 戸籍の訂正だけが行われた場合、XYは姉妹かつ夫婦であるという状態が生じることになる。これは可能か?
 結論からいえば、法務省民事局の判断で決まる。
 法律には、同性間の結婚を無効とする明文の規定はない。XYの婚姻を無効とするには、XYの意思が「婚姻をする意思」(民法742条1号)ではないと解釈する以外に方法がない。もし法務省民事局がこの立場を取ったら、XYの婚姻は最初からなかったことにされ、戸籍もそのように訂正される。
 この判断について、XYは国を相手取って裁判で争うこともできるが、ほとんど勝ち目がない。裁判所は法務省民事局の判断を追認する傾向があるし、憲法や法律からXYに有利な条文を見出すこともできない。
 法務省民事局が、政治問題になりそうな判断を回避し、Xの戸籍の訂正だけを行うことを認めれば、XYは姉妹かつ夫婦であるという戸籍ができる。
 が、XYの婚姻によって不利益をこうむる者は誰でも、XYの婚姻は無効であると主張して裁判で争うことができる。さらに近親婚でもあるので、親族あるいは検察官が婚姻の取消を請求したら、XYにはどうしようもない。
 というわけで、道は険しいうえに、いつまでたっても安全にならない。もし実際にXYのような立場にいる姉妹がいるとしても、こんな真似は到底お勧めできない。

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2004年12月19日

TVアニメ『神無月の巫女』最終回

 TV棋戦の終盤で、次の一手で詰めろ逃れの詰めろが決まる、と思って観戦していたら、お互い明後日の方向に着手してガッタンコに、という感じの展開だった。
 「伝承の読み違え」というセリフはいったいどこに行ったのか? 前回のラストで、貝殻の首飾りを目にした千歌音が一瞬動揺したのは、千歌音の計画の破綻を示すものではなかったのか? 千歌音が自分の身代わりになって死んだことにぶち切れた姫子が、アメノムラクモ対オロチという構造自体をひっくり返そうとする(=神に挑む)はずではなかったのか?
 輪廻の扱いも疑問がある。釈迦は「輪廻、カッコ悪い」と喝破した。輪廻を扱うなら、それを断ち切るのが本筋だ。釈迦の説に反対して、輪廻を積極的に捉えなおす、という手もないではない。しかし本作品での扱いは、釈迦が「カッコ悪い」と言った輪廻そのものだ。
 千歌音のようなキャラは悪形だと前にも述べたが、悪形の害がもろに出た格好になった。いまは21世紀である。自己犠牲や悲しい運命に陶酔していればよかった戦前少女小説ではない。
 ちなみに私の読みは、過去生の姫子と千歌音が輪廻による再会を望んだためにアメノムラクモ対オロチという構造が作り出された、というものだった。

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2004年12月15日

設定マニア

 資本主義国ではお伽噺は「むかしむかし~」で始まるが、共産主義国では「いつかきっと~」で始まるという。
 もともとは単なる笑い話だが、よく考えてみると、ここには鋭い洞察が含まれているように思える(たいていのことは、よく考えてみれば、鋭い洞察を見出せるものだが)。
 お伽噺を批判的にしか受け取れない人は、そもそもお伽噺に縁がない。また、いわゆる「設定マニア」的な発想とも相容れない。お伽噺の世界は、事物の論理ではなく、意思の論理で動いている。
 いま「設定マニア」と言ったが、マルクスは設定マニアの轍を踏むのを注意深く避けた。設定マニア、すなわち空想社会主義だ。「構想を詳しく仕上げれば仕上げるほど、それはますます空想となっていった」(エンゲルス『空想から科学へ』)。設定マニア的であることを拒むなら、共産主義者が語る未来はお伽噺でなければならない。
 むしろ問題は、「むかしむかし~」のほうにある。
 なぜ「むかしむかし~」なのか。共産主義者のように、予言としてお伽噺を語ることができないのは、なぜか。言い換えれば――ファンタジーが受けてSFが受けないのは、なぜなのか。
 ここにはおそらく、人間の本性にもとづくなにかがある。

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2004年12月11日

虚偽の出生届

問題:
 AB夫妻の実子であるXは、生後すぐにCD夫妻に引き取られ、CDの嫡出子として出生届が出された。さらにXはCDによってEF夫妻に養子に出され、XはEFのもとで育てられた。Xは成人後、ABの実子であるYと結婚した。
 Cの死後、Xはその遺産の一部を相続した。この遺産について、CDの実子であるZから、『Xの出生届は虚偽のため無効であり、XはCを相続することはできない』として親子関係不存在確認訴訟と所有権確認訴訟が起こされ、有効に確定した。このとき、Xの戸籍を訂正してABの実子とすると、XYは兄妹かつ夫婦であるという状態が生じることになる。このような戸籍について述べよ。

解答:
 萌える。

ポイント:
 「問われたことに答える」

余談:
 もしこのような戸籍ができた場合には、各当事者、その親族、または検察官は、婚姻の取消を裁判所に請求できる。が、XYがまったく事情を知らなかった場合、婚姻を取り消すのは忍びないので、誰も取消を請求しない可能性は十分にあると考えられる。

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2004年12月06日

廣松渉『今こそマルクスを読み返す』

 マルクスの主張のあらましを紹介した本である。紹介といっても、単語が文学的に凝っているので、廣松ファン以外にはあまりお勧めできない。
 資本論にかなりのページを割いている。いま資本論を紹介するとなると、どうしても先回りして言い訳したくなるものだが、そういう言い訳を一切やっていない。へたに言い訳しようとすると、カバーすべき範囲があまりに広すぎるという事情もあるだろう。
 が、どう考えてもやはり、「燃焼とはフロギストンが物質から放出されることである」というような話をフォローなしに繰り広げても面白くない。いま資本論を紹介するとしたら、転形問題に踏み込むか、限界効用で切るか、どちらかをしないと話にならないような気がする。esbooks

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2004年12月05日

『ハウルの動く城』

 見た。
 一言でいえば、老人が作った劇場版『ウテナ』である。老人とウテナ、どちらかが苦手だと、あまり面白くないかもしれない。私はどちらもいけるので、素晴らしく楽しめた。

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2004年12月03日

『天空のシンフォニア』

 DQ8が流行る今日この頃、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。私は『天空のシンフォニア』というエロゲーをやっている。マップ戦闘育成系のゲームで、明らかにコンシューマ移植を前提としたギャルゲーである。あと半年もすれば、PS2版がフルボイスで出るだろう。
 現在ミルフィー(メインヒロイン)をクリアしたところだ。デウス・エクス・マキーナを積極的に使う、エロゲー独特の筋だった。
 が、ミルフィールートのデウス・エクス・マキーナには、すっきりしないところがある。なにがどうすっきりしないのか、今から説明してゆこう。
 デウス・エクス・マキーナは2000年以上の歴史を誇るが、アリストテレス以来、その地位は不当に貶められてきた。だが今日、オタク文化のあちこちで、デウス・エクス・マキーナ復権の火の手が上がりつつある。TVアニメや大部数まんがのようなハイ・カルチャーにはまだ浸透していないが、エロゲーやBLのようなロー・カルチャーではすでに一定の地歩を築いている。
 もちろんBLにおけるデウス・エクス・マキーナとは、「強姦されてハッピーエンド」のことだ。エロゲーにおいても同様にある一定のパターンが抽出できるはずだが、面倒なのでここではやらない。(そもそも「デウス・エクス・マキーナ」という言葉自体、ギリシャ悲劇からある一定のパターンを抽出して作られたものだ)
 復権したデウス・エクス・マキーナは、まさかその名のとおりに大道具で神を表現するわけではない。だいたい神からしてあまり流行らない。いまや神にかわって万能なのは、愛である。
 愛がかつての神の座にあることは、どの分野でも同じだが、エロゲーとBLのデウス・エクス・マキーナのあいだには、決定的な違いがある。
 エロゲーは、絶望を完結させるために、つまり「泣き」を表現するために、デウス・エクス・マキーナを使う。対してBLは、愛を愛として存在させるために、つまり救済を表現するために「強姦されてハッピーエンド」を使う。エロゲーはカタルシスを志向し、BLは信仰を志向する、と言ってもいいだろう。
 『天空のシンフォニア』のミルフィールートがすっきりしないのは、「泣き」のはずのところで救済に引きずられているからだ。
 デウス・エクス・マキーナには、物語の行き詰まりが必要だ。アリストテレスは「行き詰まりを打開するためにデウス・エクス・マキーナが登場する」というが、まったく逆である。デウス・エクス・マキーナを必然にするために、行き詰まりを作り出すのだ。
 が、ミルフィールートでまさにデウス・エクス・マキーナが登場するとき、主人公はまったく行き詰っていない。主人公の主観的にはなんら不条理ではないので、救済としても読めない。「強姦されてハッピーエンド」は不条理だからこそ救済たりえるのだ。ミルフィールートはそこの区別がついていない。
 ギャルゲーは少女まんがの影響下にあるため、こうした引きずられ現象がしばしば見られる。自戒をこめて注意を促したい。

Posted by hajime at 05:55 | Comments (0)