真の護身が完成すると、危険に気づくまでもなく、危険に近づくことができなくなる、という(『グラップラー刃牙』)。
プログラマも護身する。
護身ができているプログラマは、危険なツールや規格やフレームワークを、その存在に気づくまでもなく回避する。
過去の例を挙げよう。RDBMSにMySQLを採用して、4.1の文字化け問題を踏んでしまったプログラマは、護身ができていなかった。護身ができていれば当然PostgreSQLを使っていただろう。
また、現在の例を挙げれば、PHPを使うプログラマは護身ができていない。護身ができていれば当然PythonかRubyを使うだろう。
これらの護身は、なにも超能力ではなく、事実にもとづく総合的な判断だ。
たとえば、日本人の開発者はMySQLには少なく(おそらく存在しなかった)、PostgreSQLには多い。となるとMySQLがいずれ日本語関係で問題を起こすかもしれないと予想できる。また、MySQLのパフォーマンス特性も、素人向けマーケティングの臭みが鼻について食えたものではなかった。「トランザクションなしで参照だけ速い」というパフォーマンス特性がなにを意味するか、わからない人は素人だ。
こうした判断を正確に下すには、時間的・分野的に広範な知識が要る。そして、その判断の中身を詳しく説明するのは、ほとんど不可能だ。
MySQLのように、普及したあとで明白にコケて災厄を引き起こした場合は、その理由を説明できる。しかし、このような華々しい災厄は例外に属するし、その説明も遡及的なものになる。たいていはXLinkやRELAX NGのように、単に普及せず、なにも起こらない。この場合は説明が難しい。
さて本題である。
XQuery 1.0が勧告になった。2001年のワーキングドラフトから5年1ヶ月、やっと勧告にたどりついた。
というわけで読者諸氏にご忠告する。XQuery 1.0には近づかないほうがいい。
上記のとおり理由を説明するのは難しいが、ひとつだけ挙げるなら、XQuery 1.0はいろいろな点でXLink 1.0に似ている。XMLの専門家からは長らく期待されながら、なかなか勧告にたどりつけなかった点。勧告にたどりついた時にも、利益を産むソフトウェアに使われている気配がない点。
2012年にこのエントリをご覧の読者諸氏は、いかがお思いだろうか。
いわゆる「萌え不可能性論」について。
エロゲー等によくあるパターンに、「姉と妹に同時に手を出す」というものがある。いわゆる姉妹どんぶりだ。親族関係は姉妹間にだけあればよく、主人公は他人でいい。ここでは他人として話を進める。
このパターンを百合的に読み替えれば、「姉妹間の性愛が禁じられているので、主人公を媒介に使っている」となる。姉と妹がお互いに主人公を奪い合う、あるいは共有することを通じて、禁じられた感情が形を変えて表出している、と解釈するわけだ。もちろん姉と妹はどちらも、自分自身の禁じられた感情を自覚しないまま、その感情に振り回されている。
この百合的な読み替えに従えば、物語の最後には、禁じられた感情がなんらかの形で表面化することになる。たとえば、「禁じられた感情を自覚して性愛にたどりつく」というオチだ。短絡的だがインパクトはある。
しかし私の趣味としては、もう少し上品にいきたい。「願望は実現すればOK」というのでは、エロゲーの存在意義そのものが否定されてしまう。というわけで私は昔、以下のようなオチを考えた。
主人公を奪い合った結果、姉と妹の関係は決定的に破綻する。片方が死亡するなどの、もう二度と会えないくらいの破綻である。主人公を得た姉(または妹)は、妹(または姉)を完全に失ったあとで、自分自身の禁じられた感情を自覚する。というのも、その願望はもはや実現できないので、自覚しても安全だからだ。姉は妹を犯すことを妄想するようになり、主人公にその妄想を話して聞かせるようになる。
このオチでは、禁じられた感情の禁止のメカニズムが、内的な抑制から外的な不可能へと変化する。また主人公による媒介のメカニズムも変化する。それでいて、「姉妹間の性愛が禁じられているので、主人公を媒介に使っている」という構図は保存される。
実現できないので安全――これは萌え不可能性論と重なり合っている。だが、上記のオチには、「萌え」ではすまない何かがある。不可能性は萌えより広いのだ。
「願望は実現すればOK」を否定したついでに、もうひとつ。「あえて実現しない」ことにも、生活の知恵以上のものがある。
たとえば上記のパターンとオチで、もし妹が最初から自分自身の感情を自覚していたとしたら、どうか。姉への性欲を自覚したうえで、主人公を媒介に使い、最後には姉と決別したのだとしたら。この筋書きは、妹が単純に姉を口説くなり犯すなりするよりも、面白い。
願望を、その目指す対象だけで認識するのは、視野狭窄だ。願望は、世界を秩序づける法則のひとつとして認識しよう。その法則はきっと世界を面白くするのに役立つ。
役立てる方法がわからない? ではまずその方法を考えよう。きっと面白い問題のはずだ。
ずっと昔、こんな文章を読んだ。「歳をとると、誰もが誰かに似て見えるようになる」。そのときは、理屈ではわかったが、なんの実感もなかった。
後年、クンデラ『不滅』を読んだとき、同じような描写に出くわした。今度は実感がわき――そして前述の文章を思い出したというのは、なんの皮肉だろう。人間にそっくりさんがいるのだから、文章はなおさらだ。
だが私はいま、もう一歩先のことに気づいた。
観察に頼るほど、人間は類型的に見える。
考察を重ねるほど、人間はそれぞれ違って見える。
観察の絶対量に比例して類型性を強く感じるようになる、のではない。観察に比して考察が足りないとき、類型性を強く感じるようになるのだ。
観察によって新たに得られた経験はまず、既存の枠組みに照らし合わせて理解される。このとき、もし深く理解したなら、既存の枠組みはなんらかの発展を迫られるはずだ。だが、深く理解する労力(考察)を惜しむと、既存の枠組みに押し込めただけで終わる。こうなると人間が類型的に見えてくる。
これだけなら、「もっと考察しよう」で済む話だ。
しかし、ある種の経験には、なにかしら考察を抑制するような作用がある。「考察が足りない」と頭ではわかっているのに、既存の枠組みへと、類型性へと引きずられる、そういう経験がある。
このエントリは、引きずられつつある私が、引きずる力に抵抗しようとしている真っ最中に、書かれている。
引きずる力の中身は、ごく簡単に言い表せる。
物事を楽しめていないときに、その楽しめない状態から短絡的に逃れようとしているとき、人は引きずられる。
物事を楽しめないのは、そこから逃れる方法がよくわからないからだ。「ピンチから巧みに逃れる主人公」として自分自身を思い描けるなら、それだけでもう楽しい。
逃れる方法がよくわからないのは、たいていの場合、既存の枠組みがヘナチョコだからだ。なにをなすべきかを示せないような枠組みは、論理的にはどんなに完璧でも、ヘナチョコだ。
ではヘナチョコな枠組みを叩き直そう――というところまでゆきつければ、なにをなすべきかは明瞭だ。しかし、そこまでゆきつく気持ちの余裕がないとき、人は短絡的になる。
つまり、気持ちの余裕がないとき、誰もが誰かに似て見えるようになる。
ここから脱出するには、どうすればいいか。
1. 「この世には、しなければならないことなど何もないのだよ、関口君」と唱える。
2. 忘却力を発動して、あらゆる義務を忘却する。
3. 自分が楽しくなるようにすることだけを考える。つまり、遊ぶ。
今もう一度、かすかな記憶を呼び起こしてみる。「歳をとると、誰もが誰かに似て見えるようになる」という文章と、クンデラ『不滅』の例のくだりを。
確かに、同じことを書いている。でも、その筆づかいは、ずいぶん違うではないか。
筆づかいを思い出す余裕がなかった自分自身を恥じ――はしないが、思い出すことのできた今の自分のほうが、ずっといい。
政治家の妄言にいちいちマジレスするほど暇な人は、世界中のどこにもいない。麻生太郎外相が北方領土の面積分割をつぶやいたときには、世界中の誰もが見事にスルーした。日米安保体制が続くかぎり、北方領土問題の解決は有害無益だ。
ホワイトカラー・エグゼンプションとやらも正気を疑う妄言だが、ずいぶんしつこく続いているのでマジレスしてみる。
なんの予備知識もない新人が現場に放り込まれたその瞬間から、生産性のある仕事ができる業務など、この世にそうそうあるものではない。よほどの単純作業でも、少なくとも1時間は、作業の説明と慣熟が要る。これを仮に教育費用と呼ぶことにしよう。
教育費用は労働者の頭数だけかかる。もし時給が一定なら、多数の労働者を短時間働かせるより、少数の労働者を長時間働かせるほうが、同じ作業量を安あがりにこなせる。
ブルーカラーよりもホワイトカラーのほうが教育費用は大きい。また、コミュニケーションのコストを減らせるという点でも、少数の労働者を長時間働かせるほうが安くあがる。
少数の労働者を長時間働かせるほうが安くあがる――この法則を裏付けるのが、ベンチャー企業の労働状況だ。
人手が余っていて残業ゼロでしかも儲かっているベンチャー企業など、めったにない。ほとんどのベンチャー企業が人手不足で長時間労働なのは、そうでなければ生き残れないからだ。もし残業ゼロで高い生産性をあげられるのが普通なら、残業ゼロを掲げて実践するベンチャー企業が、それこそ掃いて捨てるほどあるはずだ。
というわけで、ホワイトカラー・エグゼンプションとやらがもたらすのは、長時間労働に苦しむ労働者の増加、失業者の増加、そして景気の減速である。妄言というほかない。
今年最初の日記が少コミである。来年はなんとか避けたい。
では第3・4号(合併号)のレビューにいこう。
・車谷晴子『極上男子と暮らしてます。』新連載第1回
あらすじ:主人公は少女まんが好きの妄想族。ある日、自宅が美形限定の下宿に。
増刊での扱いや、短期連載をどんどん載せていることから察するに、作者はかなり編集部にプッシュされているらしい。が、私のみるところ、そんなプッシュに値するような才能とは思えない。
理由は2つある。
1. 彼氏役の魅力が形式的。
2. 話がすっきりと落ちない。
特に1は致命的だ。この作者の作品で、彼氏役の魅力を、納得のゆくように説得されたことが一度もない。
天野まろんや新條まゆの描く俺様男は、形式に則ってはいるが、なにかしら生き生きしたものを感じさせる。この俺様男に心の底から魅力を感じる人間が、この世に確かに存在するのだと思える。しかし車谷晴子の描く俺様男は、そうではない。
なにが違うのか。
原因か結果かはわからないが、少なくとも関係がありそうなのは――人物の振る舞いに必然性が薄い。
必然性の有無ではなく、厚さの問題だ。Aという結果をもたらす原因がB、C、Dであったとすると、このB、C、Dのあいだに関連性がない。関連性のない寄せ集めから生じたAは、偶発的で無意味なものと思える。
この薄さは2にも関係している。関連性と因果関係の厚みを作り出せなければ、話がすっきりと落ちることもない。
そして、関連性と因果関係の厚みを作り出す能力は、生得的な部分が大きいように思える。名刺の裏に書ける程度のプロットを作るには、普通の人であればいい。しかし、31ページの原稿に関連性と因果関係を張り巡らせることは、普通の人にはできない。なにか特殊な才能が必要だ。作者にはそれがない。
採点:☆☆☆☆☆
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第7回
あらすじ:乃亜が当て馬(夏壱)を操って、主人公(水結)を押し倒させる。
乃亜と彼氏役(蒼以)の対決はまだ当分先らしい。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第11回
あらすじ:主人公(翠)と彼氏役(司)がいちゃついているところに踏み込んでしまった振られ役(カズマ)が、翠をかっさらって告白。
話をサッカーに引き戻しにかかったが、サッカーが絵に描けていない現状では、成り立たない構想だ。
採点:★★☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第34回
あらすじ:昂の誕生日に昂とデートする繭。その最中に交通事故(おそらく死傷事故)が起こる。
あっさり繭が死んで、逞と昂と頼が野郎ばかり三人でうじうじと繭と照のことを回想する、という展開を妄想してみた。
実際の展開はおそらく、繭が車椅子にでもなって、昂が繭の面倒をみる義務を主張し、逞の恋に新たな障害発生、といったところか。
採点:★★★☆☆
・伊吹楓『感じるすぺしゃるオーダー』連載第2回
あらすじ:喫茶店のパトロネスが、主人公の恋にケチをつける。喫茶店のオーナーが主人公に迫る。
話の前半と後半がどう関係しているのか、わからない。
採点:★☆☆☆☆
・咲坂芽亜『姫系・ドール』新連載第1回
あらすじ:憧れの高校生デザイナー(蓮二)と同じ学校に入学した主人公。蓮二に気に入られたくて、必死に服飾を学ぶ。
話はシンプルで、人物は魅力がある。
採点:★★★☆☆
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第11回
あらすじ:主人公(しずか)が発明品でミニサイズに変身して、彼氏役(はじめ)の日常生活に潜入しようと試みる。
ひところに比べてネームが格段にわかりやすくなっている。
採点:★★★★☆
・藤中千聖『恋MAJINAI』読み切り
あらすじ:主人公と彼氏役は犬猿の仲だが、実は主人公は彼氏役のことが好き。あるとき催眠術の実演で、恋人同士になる術をかけられ、かりそめの両思いになる。が、実は彼氏役も主人公のことが好きだった。
あらすじを見てもわかるとおり、かなり複雑な話だ。ネームがわかりにくいが、無理もない。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第13回
あらすじ:彼氏役(芯)の友達(純)は、他人の女を奪うのが趣味。その純に、主人公と芯の関係を知られる。
いちゃいちゃ続きでダレていたところに、波乱の展開をもってきた。
採点:★★★☆☆
・紫海早希『君のそばに忘れもの』読み切り
あらすじ:幼い頃、彼氏役を別の女に取られてから、会話を交わすこともなくなった主人公。取られる前に作ったタイムカプセルをきっかけにして結ばれる。
作者の工夫と努力がいろいろ感じ取れて、嫌いになれない。が、なにかしら筋の悪い話のような気がする。
採点:★★★☆☆
・新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第22回
あらすじ:秋羅が男とデート。
前回に引き続き、連載回数が「22th」だった。
採点:★★☆☆☆
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第14回
あらすじ:主人公に迫った男を排除して、あとは適当にいちゃいちゃ。
前回のネタ振りをすべて乱暴にスルーしてきた。この連載、もう終わっていいような気がする。
採点:★☆☆☆☆
第17回に続く
グレゴリオ暦で生活なさっている皆様、あけましておめでとうございます。本年も香織派をよろしくお引き立てください。