ママチャリで速く走るには、どうすればいいか。
とりあえず以下の機材を揃えよう。
・ママチャリ
軽量のものを選ぶ。15kgを切っていれば上出来だ。前カゴと変速機は必須だ。変速機は内装より外装のほうがいい。前カゴの横幅は狭いほうがいい。前カゴの用途はあとで述べる。前カゴが必要なので、MTBモドキを買ってはならない。前カゴを使えば、24段変速のMTBモドキなど、ママチャリの敵ではない。
・長いシートポスト
シートポストとは、サドルをフレームにつなぐパイプである。ママチャリに最初からついてくるシートポストは長さが足りない。自転車用品として売っている。
・油
機械油。これも自転車用品として売っている。
・空気入れ
空気圧を測るメーターがついているものを選ぶ。仏式バルブにも対応するものがベター。
・サイクルコンピュータ
いわゆる速度計だ。測定なくして改善なし。
自転車で速さを求める人の前には、3つのハードルがある。
1. サドルを高くする
2. 足をペダルに固定する
3. 10万円以上はたく
まずは第一のハードル、サドルを高くすることからクリアしよう。
サドルに座って両足を下ろしたとき、両方のつま先が同時には地面につかないくらい高くする。その高さを出すために、シートポストを長いものに交換する。
ペダルを踏む位置を、つま先に寄せる。土踏まずよりは前に、親指よりは後ろに、ペダルの軸を置く。
サドルを高くすると、膝の角度が浅くなり、ペダルを高速で回せるようになる。それだけではない。ハンドルが遠くなり、前傾姿勢になる。前傾姿勢は空気抵抗を減らし、速く走れるようにする。
チェーンの油は切らさない。錆を防ぐためだ。潤滑性能はあまり重要ではないので、チェーンをきれいにする必要はない。
タイヤの空気圧を適正に保つ。適正値はタイヤか空気入れに書いてある。
サイクルコンピュータは、ただ設置するだけでなく、タイヤ周長をちゃんと入力する。
機材の準備はできた。次は乗り方である。
ママチャリは柔な代物だ。ちょっと脚力を鍛えて、力いっぱい踏み込むと、簡単に壊れる。それに、そもそも力いっぱい踏み込むような乗り方は効率が悪い。トルクではなく回転数を上げるようにする。サドルを上げて膝が伸びたら、回転数を上げやすくなっているはずだ。最低でも60rpm(毎秒1回転)、目標100rpmでペダルを回す。サルのようにシャカリキに回すのだ。
上に述べたのは、人間の出力を高める乗り方である。空気抵抗を減らす乗り方を下に述べる。
空気抵抗を減らすには、前傾姿勢が有効だが、横幅が狭い姿勢もよく効く。前傾と同時に横幅を減らす姿勢、それが、前カゴポジションである。両手の指を前カゴの縁に乗せ、腕をハンドルに乗せる。これが前カゴポジションだ。
前カゴポジションではブレーキングが遅れるので、よほど自信のある場所でしかやってはならない。が、これは強烈に効く。時速5kmくらいの差が出る。
さらに速さを求めるなら、第二のハードルを超えて、足をペダルに固定するという手がある。これにはトゥークリップという道具を使う。ただしこれには、前カゴポジションのような強烈な効果はない。
まだ足りないというなら、第三のハードルを超えて、10万円以上はたく。ママチャリをやめて、ロードレーサーとDHバーを買うのだ。これは強烈に効く。気持ちよく長時間走れる。脚力をプロなみに高めれば、時速40kmオーバーで巡航できる。ママチャリではこの領域に達することはできない。
なお、100万円も出すのは金の無駄だ。10万円と100万円の自転車は、速度にして5パーセントも違わない。レースでは致命的な差だが、レース以外の場面では、速度計をずっと睨んでいなければわからない差だ。
やまじえびね原作のレズビアン映画である。現在、渋谷のシアターNにて公開中。
この映画の見どころ:
1. 役者
2. オサレ
3. 石田衣良(作家)
見てはいけないところ:
1. 図式的な思考回路
2. 凄味のないオヤジたち
3. 翻訳家と作家がオサレな商売という謎ドリーム
特に1は最悪だ。この映画(原作もだが)のセリフは、百合的なものから一番遠いところにある。
こういう図式的な思考回路のことを深く突っ込むと、百合の根底にかかわる大問題になるので、いままで意図的に論じないできたが、百合業界も安定してきたので、今日は突っ込んでみる。
人間は他人のことに関心がないので、他人事はすべて図式的な理解で済ませる。かくして人間社会はすべて図式的な理解にもとづいて構成される。
「レズビアン」と言挙げする人々は、この図式的な理解を相手取って言挙げしている。だから「レズビアン」と言挙げする表現は、図式的な思考回路へと引きずられやすい。
また、「レズビアン」と言挙げすることのなかには、正当性の主張が必然的に含まれる。正当性とは社会的なものであり、すなわち図式的なものだ。このような正当性を主張するためにも、図式的な思考回路へと引きずられやすい。
百合は、こうした図式的な思考回路を排する。百合は作品であり、他人事ではない。図式的な思考回路へと引きずられる理由はないし、引きずられるべきでもない。
この問題の厄介なところは、「図式的な思考回路にもとづく表現はすべてダメ」とは言えない、という点にある。
人間は他人事を図式的にしか理解しない。社会は他人事で構成される。となると、社会に対してアプローチするには、図式的な思考回路にもとづく表現が必要になる。「図式的な思考回路にもとづく表現はすべてダメ」というのでは、既存の社会を無条件に肯定することになる。
というわけで百合は、レズビアンの立場からの表現と、なんらかの折り合いをつける必要がある。香織派の百合の定義では、そこのところを「非レズビアンの立場」という表現にしている。
これくらいでよせばいいのに、さらに事を荒立ててみる。
「社会に対してアプローチするには、図式的な思考回路にもとづく表現が必要になる」と上で書いたばかりだが、図式的な思考回路にもとづく表現は、その革新的な意図を裏切って、保守的なものになりやすい。体制の左足、とでも言うべきか。既存の社会を構成する既存の図式を疑うことなく鵜呑みにして、その図式の中で正当性を主張するような真似に陥りやすい。たとえば「レズビアンは自然」というような言い方だ。
「レズビアンは自然」まで行くとわかりやすい。だが、「レズビアン」だけでもすでに、体制の左足の匂いがする。穏やかに生きたい下駄履きの生活者にとっては、それは望むところかもしれない。
百合は違う。百合は、読者の頭のなかにある図式的な思考回路を破壊して、もう二度と無邪気に図式的であることができなくなるような、危険なものを目指す。
百合は生活ではなく作品だ。危険でない作品など、せいぜい国民的ベストセラーにしか値しない。
ふろくがブーブークッションだった。
どう反応すればいいのか、思いつかない。呆然としている。
さてふろくは棚に上げて、新年第2号のレビューにいこう。
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第33回
あらすじ:昂が逞を挑発。
昂がらみの含みを捌きにきた。同時に頼を前面に押し出すつもりだろう。
少コミの連載はめったに10巻を超えない。ここから先に照がらみの含みを捌くなら、おそらく逞の死を描くことになるので、そこに1巻以上は要る。いま6巻なので、昂と頼の使いどころは3巻未満しかない。だいぶ忙しいはずだ。さてどうなるか。
採点:★★★☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第10回
あらすじ:試合中にいちゃつく主人公(翠)と彼氏役(司)。ハーフタイムに司が翠を押し倒す。
相変わらず絵がサッカーでないのはいいとしよう。連載全体としてどんな話なのか、さっぱりわからなくなってきた。要するに恋の障害はなんなのか。
採点:★☆☆☆☆
・伊吹楓『感じるすぺしゃるオーダー』新連載第1回
あらすじ:惚れた男をお目当てに、ホストクラブもどきの喫茶店でのバイトに挑戦。
因果関係や感情の流れが、猛烈にギクシャクしている。たとえば、彼氏役の固有性を描くうえで、7ページ目のような手はない。「フィクションにない手」とはこのことだ。
そもそも、彼氏役の固有性を説明すること自体、フィクションにない手だ。
アンジェリーク型の美形並列をやると、彼氏役の固有性が気になるのは確かだ。が、そこは話の展開で解決するところであって、説明するところではない。たとえば、彼氏役はもともと別の喫茶店でバイトしていたが、あるとき引き抜かれて新しい店に行ってしまい、主人公はそれを追いかけてきた、という話にすればいい。
採点:★☆☆☆☆
・新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第21回
あらすじ:新年会で馬鹿。
連載回数の「21th」――いつかやるだろうと思っていたが、やはりだ。
採点:★★☆☆☆
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第13回
あらすじ:旅行先で、彼氏役(大輝)の旧友(理恵)に出会う。理恵の連れが主人公に迫る。
彼氏役・彼女役の非固有性は、少女まんがの永遠のテーマだ。主人公の彼氏役は、別のときには別の女を彼女役にしているだろう――このテーゼは、それこそ彼氏役を殺さないかぎり、常に正しい。
これは正面きって扱うには非常に手ごわいテーマで、納得のいく話を見た記憶がない。しかし作者はこういうところで腕が立つので、なにか面白いものが見られるかもしれない。
採点:★★☆☆☆
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第6回
あらすじ:主人公(水結)と彼氏役(蒼以)が結ばれる。それを知ってしまった当て馬(夏壱)に乃亜が近づく。
乃亜をこう使うということは、かなり先まで乃亜でひっぱるつもりか。
採点:★★★☆☆
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第10回
あらすじ:借金をネタに彼氏役(はじめ)に迫る女が登場。
発明品(読者応募のもの)のスケールが手ごろで、使い方も小気味よい。オチも楽しい。ようやく調子が出てきたか。
採点:★★★★☆
・水瀬藍『神様の恋愛定理』読み切り
あらすじ:主人公と彼氏役がお試しでつきあう。
ツカミなどで細かく頭を使っているが、全体として印象が弱い。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第12回
あらすじ:クリスマスイブのイベント。敬士がアピール。
ここ何回か、ただいちゃいちゃしているだけなので、そろそろ飽きてきた。
採点:★★☆☆☆
・みつき海湖『終わらない恋を囁いて』読み切り
あらすじ:主人公がノートに書いていた恋愛小説を教師に見られ、体験指導される。
ヘテロで非エロの恋愛小説は、作者自身との当たりが厳しいので、小娘が書こうとする代物ではない。エロかBLのほうが説得力がある。この点、すぎ恵美子『♂と♀の方程式』はさすがだった。すぎ恵美子の読みの深さは、こういうところにも表れている。
体験と創作がうんぬん、という話を書く作家自身は、どういう意識でいるのだろう。
採点:★☆☆☆☆
・小田切渚『君とセカンドラブ』読み切り
あらすじ:振られたばかりの主人公が、別の男と仲良くなる。
11ページ目、…水上バイク…? メカ描けないってレベルじゃねーぞ!
あまりのことに哀れを催したので、採点はしない。
・悠妃りゅう『恋するふたりの蜜なやりかた』最終回
あらすじ:彼氏役の一家が遠くに転勤することになり、別れを惜しむ二人。
ごくごく無難にまとめてきた。
採点:★★☆☆☆
第16回に続く
帯に百合と書いてあるので読んだが、お話にならない。百合は脇筋のうえ魅力なし、作品としても体をなしていない。これを読むくらいなら、『ピクシーゲイル』の続きを妄想するほうが気が利いている。この顔を見たら即スルー、と覚えておいてほしい。
常人の主人公(女子高校生)が、物の怪らしき幼女に愛される話である。
造作は凝っているが、根本的なことがなにも起こらない。
「ホモ」や「ゲイ」の同義語として「やおい」や「BL」という言葉を使うBLを、私は知らない。百合はBLに相当する言葉なので、登場人物が「百合」という言葉を使うべきではない。ナラティブやフィクションに関する意識において、男性文化は女性文化より30年は遅れている。7andy
人間には先のことはわからないので、「もっと後の時代に生まれていれば」と思うことはあまりない。しかし、単位系に関してだけは、「もっと後の時代に生まれていれば」と思う。SI単位系に統一された世界は今よりだいぶ面白いはずだ。
単位系の統一は、ゆっくりとだが着実に進んでおり、きわめて稀にしか後退しない。もっとも手ごわい抵抗勢力はヤード・ポンド法だが、あと300年もすれば駆逐されているはずだ。
単位系が統一されると、どう面白いか。
たとえば、仕事率(電力)と仕事(熱量・エネルギー・電力量)には、以下のような単位が主に使われている。
・馬力(仕事率)
・ワット(仕事率・電力)
・ワット時(電力量)
・カロリー(熱量)
・ジュール(仕事・熱量・エネルギー・電力量)
・TNT火薬トン(エネルギー)
これがSI単位系では、ワットとジュールに統一される。そして1ワット秒が1ジュールだ。じつにわかりやすい。
スポーツジムなどに置いてあるエアロバイクには、現在の負荷(=人間の出力)をワットで表示するものがある。そして最近の乗用車のカタログは、最大エンジン出力をワットで表記する(単位系の統一は着実に進んでいる)。エアロバイクの負荷は全力でも数百ワット、乗用車の最大エンジン出力は数百キロワット。1000倍違うものだということが、意識に染み込む。「馬力」がはびこる世の中では、こうはいかない。
食品の熱量表記がジュールになれば、エアロバイクの負荷と食品の熱量を、簡単に比べられるようになる。茶碗一杯分の白米は約1メガジュール。エアロバイクを100ワットで回すと1万秒かかる熱量だ(もちろん人体が消費する熱量は、エアロバイクの負荷の数倍になるはずだが)。
乾電池の電力量を、食品の熱量と比較できるようになるのも面白い。高性能な単三乾電池に詰まっているエネルギーは約9キロジュール。充電式の人型ロボットを実現するには、かなり頑張る必要がありそうだ。
核兵器の威力表記ももちろんジュールだ。現在の戦略核の弾頭1個が約1ペタジュール。ご飯10億杯分のエネルギーだ。エアロバイクなら10兆秒(30万年)。中国人全員が3時間ばかりエアロバイクを回せば、戦略核弾頭1個相当のエネルギーになる。
あと300年もすれば、こういう比較が当たり前の世界がくるだろう。こればかりは後世の人々がうらやましい限りである。
まずはこちらの第36回をお聞きいただきたい。
女性声優同士がいちゃいちゃするのを聞いていると、楽しいことは楽しい。しかし同時に、受動的になっている自分自身を感じて、辛くもある。「私ならもっと強烈ないちゃいちゃを空想できるね!」と言いたいところなのに、声優の生身の存在感を前にすると、なかなかそういう強気が出てこなくなってしまう。
もしあなたが坂のない街に住んでいるのなら、街をゆくママチャリ(主婦らしき人が乗っているものに限る)を観察してみてほしい。おそらく90%以上の割合で、サドルが一番下にセットされているはずだ。
なぜなのか。空想はいくらでもできる。
・共用説
サドルが高すぎるとペダルに足が届かないが、低すぎても一応は乗れてしまう(ただし坂があると乗れない。サドルが低すぎると、座ったままでは踏み込む力が出ないため)。そこで、子供が乗るためにサドルを低くしたあと、誰もわざわざ高くしようとはしないので、一番低いままになる。
共用説への反論:
街をゆくママチャリのなかには、子供が成長する前や成長したあとに買ったママチャリも、10%以上は混じっているはずだ。しかしサドルの位置が一番下でないママチャリは10%未満である。
・足つき説
自転車に乗りたてのときには、サドルに座ったままで両足が地面につかないと怖い。両足がつくことの安心感は、完全に気分だけのものであり、実際には危険なのだが、その気分から抜け出せないままでいる人がほとんどである。
足つき説への反論:
ママチャリのサドルの一番下の高さは、非常に背の低い人に合わせてある。ほとんどの人は、サドルが一番下でなくても、両足が地面につく。
(低すぎるサドルが危険である理由:
いったん動き出したあとには、両足が地面についても意味がない。もし時速10kmで走行中に、両足を地面に踏ん張ったら、転倒する。
重心が低いため、障害物を踏むなどして左右のバランスを崩した際に、より転倒しやすい)
・販売時説
自転車屋がママチャリを客に引き渡すとき、サドルを一番下にしているのではないか。
サドルが高すぎると、引渡し時に「下げてくれ」と言われる場合があり、余計な手間がかかる。しかし一番下なら、それ以上は下げようがないことが客にも明白であり、余計な手間はかからない。
販売時説への反論:
面倒くさがりの零細自営業者はすぐに潰れる。実際にはむしろ、執拗なまでにおせっかいに「サドルは高く」と指導する自転車屋のほうが多い。
・調整時説
共用説で述べたとおり、坂がない街では、サドルを上げようとすることはない。サドルの高さを調整するとすれば、それは下げるに決まっている。
サドルを下げるとき、ちょうどいい高さを出すのが面倒なので、一番下にしてしまう。
調整時説への反論:
ママチャリを購入した主婦は、購入からかなり短期間のうちに、サドルの高さを調整していることになる。この仮定を満たすには、販売時説とは正反対に、両足のつかない高さで引き渡されていると考えなければならない。両足がつかないことを恐れる購入者が、そんな自転車を受け取るとは考えられない。
以上、私の思いつくかぎりでは、決定的と思える仮説はない。
では、調べてみればいいのでは? ――だがここで、科学の方法論は無力さをさらけだす。
1. アンケート
本人たちに話をきけばわかる――もし本人たちが知っていることなら。
しかし、ママチャリのサドルの高さを意識して暮らしている主婦は皆無である。もしサドルの高さを意識する人であれば、サドルの高さを適正に保つはずであり、それは例外の10%に入る。
2. 追跡調査
ママチャリの販売時にサンプルを無作為抽出する。サンプルとなった主婦は、サドルの高さを調整するときに、聞き取り調査に応じる。聞き取り調査を漏れなく行うために、サンプルの自転車には、サドルの高さが調整された際そのことを自動的に通報する仕組みが組み込まれる。
しかし、この調査のサンプルとなった主婦は、サドルの高さを意識するようになる。これは現実のママチャリの利用状況とはあまりにも異なる。
3. 定点カメラ
街頭に定点カメラを設置し、ママチャリに関するデータを長期間にわたって収集する。画像認識を用いて、ママチャリを個体識別し、各個体のサドルの高さの経時変化を追跡することで、一部の仮説を退けるようなデータが得られる可能性がある。
しかし、一部の仮説を退けたとしても、残った仮説のうちどれがどの程度寄与しているかはわからない。
ほかにこれといって思わしい方法は思いつかない。
人間の社会は、当事者たちがほとんど意識しないところで、多くの非合理的な振る舞いをみせる。簡単に説明がつく振る舞いも多いが、ママチャリのサドルの高さは、説明が難しい振る舞いだ。
当事者たちがほとんど意識しない非合理性の理由を、調査などによって探り出すのは難しい。調査は当事者たちの意識を招くためだ。
とはいえ、アンケートくらいは、試しにやってみてもいい気がする。子供の夏休みの自由研究にいかがだろうか。その際には、坂のある街とない街の比較も、ぜひやっていただきたい。
追記:
今日、よくよく観察したら、そこまで一律に一番下ではなかった。
おたよりをいただいている。
「このあいだ初めて少コミを読もうとしたら、読めませんでした。まんがが読めない人の気持ちが初めてわかりました」(東京都・TきもりRうさん)。
おそらく育ちの問題です。私は講談社系の少女まんがが読めません。
では2007年第1号のレビューにいこう。
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第9回
あらすじ:作りすぎた発明品を売りさばくために主人公がアイドル活動。
絵がごちゃごちゃしてわかりにくい、などと繰り返すのも飽きたが一応書いておく。
彼氏役(はじめ)の場当たり的な攻撃性が、どうにも魅力的でない。連載第7回でも、彼氏役が後手後手に回ることのダメさを咎めたが、繰り返して出現するところをみると、あれは単純ミスではなかったらしい。
場当たり的だからといって即ダメとはいえない。彼氏役が馬鹿なら別にそれでいい。が、この彼氏役は馬鹿としては描かれていない。
そもそも、彼氏役の魅力として攻撃性を描くこと自体、ほとんど賛成できない。
「馬鹿な子ほどかわいい」式の欠点として攻撃性が描かれるならいい。このパターンでは、彼氏役の攻撃性は空回りしたり逆効果になったりして、それを主人公がかわいいと思う、という展開になる。
採点:★☆☆☆☆
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第12回
あらすじ:彼氏役(大輝)の家に同棲する二人。そこへ彼氏役の姉が襲来。
保護者兼ライバル(和也)を、別の女にくっつけて片付けてしまった。つまり波乱展開の材料を捨てたということだ。結婚がどうのと言い始めたところをみると、さっさとこの連載を切り上げて次に行くつもりだろうか。
採点:★★☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第32回
あらすじ:逞が頼の事情を察する。逞が校内放送で繭への愛をしゃべってしまう。
逞が親族について調べようとしたときの本がレヴィ・ストロース(文化人類学)というところに、21世紀を感じる。これが30年前ならフロイト(精神分析)だった。30年後には社会学の本になるだろう。知の構造変化は文化の全領域に及んでいる。
話は普通に進んでいる。毎回毎回うまく手をつなぐものだと感心させられる。
採点:★★★☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第11回
あらすじ:主人公の誕生日。彼氏役(芯)と祝いたいが、父親も誕生パーティーを楽しみにしている。
敬士のポジションが乙女ゲーを思わせる。少コミ的な少女まんがではほとんど見かけないポジションだ。
このポジションに美男をずらりと並べると、藤本ひとみのマリナ・シリーズになる。少コミでは長期連載が難しいので実現は難しいとは思うが。
逆に、ギャルゲー等でこのポジションに美女をずらりと並べたケースは思い出せない。未来のギャルゲーか。
採点:★★★☆☆
・天音佑湖『雪の輪舞曲』読み切り
あらすじ:両親をなくして天涯孤独になったかと思われた主人公。しかし大金持ちの祖父がいて引き取られる。その祖父のほかの親族は、思わぬ相続人の出現を喜ばない。主人公を助ける執事が彼氏役。
衣装まんがである。華やかなドレスがしっかりと描いてあって、目に気持ちいい。
衣装といえば、少コミではいまウィングカラーのシャツが大人気らしい。いったい何号連続で見たかわからない。
あと、どうでもいいが、保護対象を拳銃の射線上に置かないでほしい(2ページ目)。
採点:★★★★☆
・新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第20回
あらすじ:馬鹿話。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第9回
あらすじ:彼氏役(司)をアピールする回想。司の学校のチームとの練習試合を開始。
体の動きがサッカーになってない、と書くのも飽きたが書く。あと、23ページ目の主人公(翠)のプレーは一発退場ものだ。
採点:★☆☆☆☆
・悠妃りゅう『恋するふたりの蜜なやりかた』連載第4回
あらすじ:彼氏役と初詣。
少コミでは彼氏役はなんらかの権力者であることが多いが、この作品の彼氏役はかなりロースペックな部類に属する。なのに話の作り方はハイスペック権力者とあまり変わらないので、全体にギクシャクしている。
採点:★☆☆☆☆
・美桜せりな『源氏ものがたり』読み切り
あらすじ:宇治十帖の浮舟。大君も強姦も抜きで、身投げの前で終わり。
強姦はともかく大君を抜きにしてしまうのは、さすがにどうか。60ページもあるのに、大君の件が入らないとは思えない。薫の重さが出るところを抜かしては、薫がただの退屈な男になってしまう。
採点:★★☆☆☆
・車谷晴子『アイドル様の夜のお顔』最終回
あらすじ:アイドルの彼氏役とデート、ファンに見つかりそうになる。
これといった波乱もなく、いちゃついているまま終わった。
『めちゃモテ・ハニィ』といい、最近の少コミは波乱の展開を嫌うのだろうか。それなら癒し系の彼氏役がもっと増えてもよさそうなものだが。
採点:★☆☆☆☆
何度も読み返している。
どれくらい百合になるかは、まだわからない。が、猛烈に百合的だ。7andy
わけあってグリム童話を読んでいる。訳は金田鬼一。
『千びき皮』(KHM 65)が面白い。あらすじは以下のとおり。
あるところに王様がいた。王様の后は、黄金色の髪をした絶世の美女だった。后は若くして病に倒れ、今わの際に、王様に要求する。「もし私が死んだあと誰かと再婚するなら、それは私と同じくらいの美女で、しかも黄金色の髪をした人に限ると約束してください」。王様は約束し、后は死んだ。
その後、この条件にあてはまる女を求めて、王様の家来は世界中を探し回ったが見つからなかった。ところで后には娘がいた。母と同じ黄金色の髪をしており、また日に日に美しく育って、母そっくりの美女になった。それを見た王様は、娘を恋しく思ったあげく、娘と結婚することに決めた。
王様の相談役は反対した。「父親が自分の娘をめとるのは、神が禁じていること。罪を犯して幸せになることはない。この国も巻き添えをくって滅びるだろう」。しかし王様の決意は変わらない。相談役以上に恐れおののいたのは娘である。父を翻意させるため、無理難題をふっかけることにした。「三かさねの衣装をください。陽の光を放つもの、月の光を放つもの、星の光を放つもの。また、千種類の毛皮を集めて縫い合わせた外套をください。すべて揃ったら、お父様の望むとおりにします」。しかし王様はこれを成し遂げてしまう。
婚礼の前日、娘は逃げ出す。持ち物は、黄金の指輪、糸くり車、糸巻き、そして例の三かさねの衣装。例の外套を着て、顔と両手を煤で汚して変装し、娘はいったん森に隠れる。その森で娘は、王様の狩人に拾われて「毛皮こぞう」と呼ばれ、王様の城に下働きとして入り込む。
ある日、城で祝い事があったとき、娘は変装を解いて、陽の光を放つ衣装をまとい、どこかの国の王女のようなふりをして王様の前に現れる。王様はこれが自分の娘とは思わず、「こんな美女は見たことがない」と思いながらダンスの相手をする。そして娘は、誰にも気づかれずに姿を消し、また毛皮こぞうに変装して下働きに戻る。
ある日、娘は王様にスープを給仕することになる。娘はスープの中に黄金の指輪を入れる。王様がそのスープを飲むと、とてもおいしかった上に、黄金の指輪が出てきた。王様が事の次第を追及すると、毛皮こぞうにつきあたった。王様は毛皮こぞうに直接、「あの指輪はどこから手に入れたのか」と尋ねるが、毛皮こぞう(娘)は「指輪など知りません」ととぼける。
娘は同じことを三度繰り返した。三度目に王様のダンスの相手をした直後、変装をするときに指を煤で汚すのを忘れ、そのままスープを給仕しに行く。その指には、ダンスのときに王様が渡した指輪まであった。それを見た王様は、毛皮こぞうが謎の美女であることを悟り、その姿を暴く。だが王様は、それが自分の娘とは気づかない。そのまま王様は娘と結婚する。その後、二人はなに不自由なく楽しく暮らした。
異様な話である。
まず、『オイディプス王』に喧嘩を売っているかのような近親相姦タブー観が面白い。『オイディプス王』では母子ともに善意(近親相姦とは知らない)なのにタブーを犯したことにより罰せられる。しかしこの『千びき皮』では、娘が悪意(近親相姦と知っている)のうえ積極的に父を誘惑しているのに、罰せられない。
また、王様が自分の娘を見分けられないのが面白い。娘が魔法で容姿を変えた、というような記述はない。この不条理は、なんの説明もなく起こっている。
これらの異様さは、きわめてエロまんが的だ。
ポルノのストーリーには、「主人公(男)が罪を犯し、罪に耽溺する」という定型が普遍的にみられる。罪の善意・悪意は問わない。この定型に以下のような特徴が加わると、ポルノ全般とはいえなくなり、エロまんがの匂いが漂ってくる。
1. 男は罪に善意だが、女は悪意
2. 男が悪意なら罰せられることが明らかだが、男が善意なら罰せられない
3. 女が積極的で、男は受動的
4. 男の善意・悪意に直接結びつくところで異様な不条理がある
なかでも4が重要だ。1から3までは、男の責任回避とタナボタ待ちとして機能するが、4だけは違う。
『千びき皮』のストーリーで、娘の容姿を変えることには、なんの困難もない。「王様に追っ手をかけられているから」とでも言い訳すればいい。だがそれをしていない。逆に、娘であることを示唆する数々のアイテム(衣装、外套、黄金の指輪など)を持たせて、父が娘を見分けられないことの不条理さを際立たせているように思える。
この不条理さは、なんらかの機能を果たすべく配置されている。それはどんな機能なのか?
「こんなとき自分ならどうする?」という問いを封じ込めること――それが4の機能だ。
これは、BLにおける「強姦されてハッピーエンド」に似ている。女の主人公が「強姦されてハッピーエンド」を演じるストーリーを女性読者が読めば、「強姦されたとき自分ならどうする?」という問いに突き当たらざるをえない。この問いは、読むという行為に大きく影響する。だが主人公が男であれば、「強姦されたとき自分ならどうする?」という問いを封じ込めることができる。
『千びき皮』に戻ろう。4は、「娘に誘惑されたとき、自分ならどうする?」という問いを封じ込めている。
このような封じ込めは、いわゆる「文学」に期待されているものの対極にあるためか、ほとんど意識されていない。だがこれは、グリム童話にもみられる手法なのだ。「強姦されてハッピーエンド」のキャッチフレーズのもと、この封じ込め手法の存在を広くアピールしてゆきたい。