強盗の計画を佐賀県警に通報したところ、主犯格を逮捕する捜査のため犯行に加担させられたうえに強盗予備容疑で逮捕され、実名を発表され名誉を傷つけられた
これで賠償額が33万円。タレコミは損だ。
ちなみに警察の身内ならこんな目にはあわない。例:戸高公徳
『ハーバード白熱授業』のおかげで倫理学が盛りあがっているらしい。
倫理学には詳しくないが、というより詳しくないせいで、前から気になっていることがひとつある。
人間が因果関係や事実を認識するときには、価値判断がその前提にある。言い換えれば、価値判断と無関係な因果関係や事実がたとえあるとしても、それは人間には認識できない。「大人は質問に答えない」だ。
このことの極端な例は、犯罪事件の報道で使われる紋切り型のひとつ、「犯人はわけのわからないことを言っている」だ。犯人が意図してわけのわからない(わからせない)言葉を発しているケースは稀だろう。多くのケースでは、発語した瞬間の当人にとっては、まったき必然性に満ちた真剣な言葉だろう。ただその必然性が、報道という行為の前提にある社会的な関心や価値の外にあるにすぎない。薬物が見せる幻覚についての一般論ならまだしも、個々の患者が見た個々の幻覚の詳細になど、誰も構ってはいられない。幻覚を見ている真っ最中の患者本人だけが例外だ。
さて本題。
こちらでサンデルの著書が一部無料公開されている。そのなかに、倫理学の思考実験が紹介されている(トロッコ問題)。こうすればああなる、という因果関係だけでは人間の行動は割り切れず、因果関係以外の状況に左右されることを示している。
しかし、そもそも因果関係の認識が価値判断を前提とするのなら、因果関係の認識が天下り式に与えられた状態での行動に、一体どれだけの意味があるのか?
事実や因果関係が認識され組織化され単純化される前の混沌とした世界に、倫理学はアプローチできるのか?
哲学者は問題を解くのではなく作るのが仕事なので、私と同じ問題を作った人はすでにいるにちがいない。この問題は業界ではどんな名前で呼ばれていて、どんな議論があるのだろう。
ピリオダイゼーションの1期間を終えたので、現状を記録しておく。この期間は、
・32日間
・レジスタンストレーニング中心
だった。ワークアウトの量は、
・レジスタンストレーニング:5回
・5MPターゲット:6回
・60MPターゲット:2回
・ロングライド:2回
・TSS:1530
現在のベンチマーク:
・5MP 271W (PB・前期 271W)
・60MP 193W (PB 207W、前期 188W)
5MPはもう少し出せる気がする。60MPは気温が下がらないとどうしようもない。なにしろエアコンを16度に設定しても室温が28度までしか下がらない。
暑いときに60MPをやると、後半は放熱が律速になる。もっと短い時間で似た効果を得られないものかと考え、新しいワークアウトを定義した。4分間5MPに続けて20分間60MP、名付けて短縮60MPターゲット。これでも心拍数をみると、本物の後半より低くなるが、やらないよりはマシだろう。筋グリコーゲンの消費が少ないので毎日できるというメリットもある。
次の期間は短縮60MPターゲット中心。目標はベンチマークの現状維持。
『君が僕を』というタイトルの元ネタは、マルセル・デュシャンの大駄作、Tu m'です。
まがりなりにも美術作品のはずなのに、作品を見る必要はない、話を聞くだけで事足りる、むしろ話のほうが本体で作品自体はオマケ――そんな悪しき現代美術の嚆矢として悪名高いデュシャンですが、『話のほうが本体』という手口が相変わらず幅を利かせている以上、名前を挙げるだけの値打ちはあると言わなければなりません。
『話のほうが本体』という手口は、出オチ同然の一発芸に見えるのに、それがいまだに廃れないのは、なぜなのか。
「見ればわかる絵」というのが嘘だからです。正確に言えば、ごく狭い範囲にしか通じないものだからです。
神奈川県の溝ノ口という土地を知らなければ、『天体戦士サンレッド』は十分にはわかりません。ほとんどの絵画も同じようなものです。たとえば私は、モローの描くサロメに首をかしげたことがあります。どうしてあれが新約聖書のサロメなのか、さっぱりわかりませんでした。あれは新約聖書ではなくロマン派のサロメで、鶴屋さんとちゅるやさんのように別物だと知ったのは、ずっと後のことです。
絵よりも話のほうが広い範囲に通じる――だから『話のほうが本体』という手口が今でも通じるわけです。
そのことを当時誰よりもよく知っていたであろうデュシャンなのに、なぜ絵を描いて大失敗したのか。
恩のある画商に頼み込まれて断れなかったからです。
デュシャンにまつわる数々の話のなかで、私はこの話が一番好きです。というわけで私にとってデュシャンの代表作はTu m'であり、『君が僕を』もあんな話になりました。
(万一に備えて言っておきますが、『頼み込まれて断れなかった』などといううらやましい事件が私の身に降ってきたわけではありません。どうか誤解なきよう)
『君が僕を』完結編、『君が僕を4 将来なにになりたい?』(ガガガ文庫)、発売中です。
AK-PCAP1を買った。
結論から言うと、ゴミだ。買ってはいけない。
致命的な問題がキーボードにある。下の写真の変換キーは、正しくは無変換キーであるべきだ。動作が無変換キーなら単なる印刷の問題だが、変換キーとして動作する。Windows CEのIMEは馬鹿なうえに、Ctrl+IやF7でのカタカナ変換ができないので、無変換キーが使えないと、ほとんどカタカナが入力できない。
致命的な問題はこれ1件しか見つからなかったが、どう見ても致命的だ。返品を試みる。
以下は致命的でない問題などについて。
・Googleで検索しようとすると、IMEが勝手にひらがな入力に切り替わる。つまりアルファベットを入力できない。
・ワットチェッカーでの測定によれば消費電力は、アイドル時で6W、スタンバイ時で5W。
・省電力設定がまったく存在しない。ディスプレイ電源オフまでの時間を調整できない。
致命的な問題があって返品を試みるとはいえ、このマシンを買ったこと自体は後悔していない。Windows CEの日本語版でクラムシェル型のマシンは、もう二度と現れないかもしれない。その最後の輝きに触れることができて幸せだった。
『東日流外三郡史』をはじめとする和田家文書は、他愛のない偽書だ。世にはかわいげのない偽書がいくつもある。シオンなんたらの議定書だの、コンスタンティヌスの寄進状だの。それに比べて和田家文書は、偽物が当たり前の古物売買で細々と生計を立てる詐欺師が作った、ちゃちな小道具にすぎない。政治的・組織的な工作ではないし、手の込んだことはやっていないし(筆ペンで書いてあるという)、詐欺以外の意図はない。作られた状況や出来のよしあしからいえば、嘘の家系図よりは多少珍しい程度の、一山いくらのありきたりな偽書だ。
作者には詐欺以外の意図はない――おそらくは。しかしもしかすると、これは好意的に過ぎる見方かもしれない。
和田家文書を一山いくらのありきたりな偽書から区別するのは、信者、古田武彦の存在である。宗教は信者なしでも存在しうるし、宗教なしでも信者は存在しうる。後者の印象的な例が古田だ。
病的な科学研究というものがこの世にはある。たとえば、フライシュマン・ポンスの常温核融合を、いまだに研究(?)している人々がいる。N線なるものもあった。精神分析を科学だと考えた人もいた(今でもいるかもしれない)。古田の信者ぶりは、この系列に連なる。
通常の科学研究では、見込みのないテーマをつかんでしまった研究者は、どこか適当なところで見切りをつける。フライシュマン・ポンスの常温核融合なら、最初の報告(および追試成功を主張した少数の報告)の結論が間違っていたのだろう、と見切りをつけ、そして別のことを始める。この見切りが真実とどれだけ一致するかは神のみぞ知るだが、それはともかく、研究者は別のことを始める。
病的な科学研究では、研究者は別のことを始めない。人が見切りをつけたテーマで大穴狙いというわけでもなく、ただ同じことを続ける。そこには傍目には明らかに、惰性、行きがかり、しがらみがある。自分が惰性で動いていることをごまかすかのように、ドラマチックな演出、低俗な筋書き、熱意を装う大仰なパフォーマンスが現れる。信者の誕生である。
古田が惰性、行きがかり、しがらみにとらわれて信者と化す過程に、和田本人は無関係だったのか? 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物往来社)を読んだ今も私には、この疑問が残っている。和田と古田の関係からは、信者という現象を理解するうえでの見るべきケーススタディーが掘り起こせるかもしれない。
たしか2008年の冬コミだったと思います。ほとんどのサークル参加者と同じく、私は自分のスペースにいて、自分の本が売れないのを眺めていました。
と同時に、新作の構想を練っていました。なにしろ小売業を実践中だったので、商売の話はどうか、くらいのことを考えました。しかし商売といっても、実務を描いたらサラリーマンBLですし、因果を説いたら松下幸之助です。どちらも関心が持てません。
売上金の入った箱を見て、私は考えました。なぜ商売はみな金を稼ぐのだろう? 金を稼がない商売はないのか?
答えは簡単です。商売とは、金の動きの影のことです。金が動いているのを見て初めて人は、そこに商売があると認識します。金を稼がない商売なんてものがもしあるとしたら、それは商売として認識できません。よって、金を稼がない商売はありません。
……嘘です。
というのは嘘で、やっぱり金を稼がない商売はなさそうです。これを書いている現在、Googleで"金を稼がない商売"はものの見事に0件ヒットです。しかしそれでも嘘ということにしたかったので、『恵まれさん』の設定が生まれました。
『君が僕を』完結編、『君が僕を4 将来なにになりたい?』(ガガガ文庫)の予約を受付中です。
アナトーリー・S・チェルニャーエフ『ゴルバチョフと運命をともにした2000日』(潮出版社)を読んでいる。著者はゴルバチョフと直接やりとりのあった下僚のひとりで、当時の会話や印象を、自分の日記や党の内部文書から拾っている。
まだ3分の1ほど読んだだけだが、本筋のゴルバチョフには目新しいものは見当たらない。いつでもどこでもゴルバチョフはゴルバチョフだった、と確認できるだけだ。「どこでも」はいいとして、「いつでも」はもしかするとゴルバチョフの致命的な弱点だったかもしれない。君子は豹変する。ゴルバチョフはしなかった。
他では見ない資料でありながら見る意義のあまりなさそうな本書のなかで、アレクサンドル・ヤコブレフの人物批評にはなるほどと膝を打った。以下は142~143ページから。リガチョフとヤコブレフの対立について触れてから、著者はこう述べている。
もう一人(ヤコブレフ)は、ゴルバチョフを完全に「御する」能力がないことにますます絶望し、また、彼に対して腹を立て(「政治局でも、新聞の中傷に対しても自分を守ってくれない」)、自分自身の政治的「イメージ」をつくることを決意した。最初はゴルバチョフとの友情を利用しながら、しかし意図的に情報を「リーク」しながら――ペレストロイカの真の作者はこの私なのだ、その主要な構想は私が考えたのだ、ゴルバチョフは「伝声管」にすぎないのだ、と。後に、グラスノスチがほかならぬゴルバチョフ自身に襲いかかったとき、彼は反対派の立場をとり、これ見よがしに自分の不同意を示した。いわばみんなにこう言って聞かせるかように――ゴルバチョフが「私の言う通りに」に行動していれば、万事うまくいっただろうに。そして結局、クーデター後は、「寛大さを発揮した」ふりをし(どこへも行き場がなかったのに)、再びゴルバチョフの側に立った。今は、自分自身についての神話を強化するために「ゴルバチョフ・フォンド(基金)」を広く利用している。
陳腐な表現だが、政治は汚れた仕事である。そして世界がそうであるあいだは、そこへ身を置く者は、誠実な政治家でさえも、利口に立ち回ったり、立場を、さらには見解までも変えたりしないで済ませることは無理だろう。これはアレクサンドル・ニコラエビチ(ヤコブレフ)にも許すことができる。率直に言って、功名心のない人間にとっては何もすることのない政治の世界において目立ち、自分をひとかどの人間に見せたいという気持ちは許すことができる……。もし彼が高い道徳のチャンピオンの役を演じたり、これについて内や外向けにみんなにお説教をしたり(書いたり)しなかったならば、許すことができる。
われわれは長年、友人だった。そしてペレストロイカや「新思考」の主要な問題では私は彼(ヤコブレフ)と九五%意見が一致する。以前もいまも。しかし、私との付き合いで彼は自己陶酔と自己過信におぼれて「警戒心」を失った。そのおかげで、私は彼の性格のこういう特徴ものぞき見ることができた。だから私にとって、彼の自分のことしか考えない手やずるい行動は決して思いがけないことにはならなかったのである。
アレクサンドル・ヤコブレフについては、あまり人物像がつかめずにいた。リガチョフ(まるでスターリン主義者のカリカチュア)、エリツィン(原始のボリシェヴィキ)、シェワルナゼ(彼の短い回想録はスキャンダラスなまでに無内容で、かえって彼が何者であるかを雄弁に語っている)、ゴルバチョフ(いつでもどこでもゴルバチョフ)、誰もがかなりはっきりと焦点を結んでいる。しかしヤコブレフは? 回想録を読んでも、老人らしく愚痴っぽいだけで主張や内容に乏しいという感想しか持てなかった。しかし、『高い道徳のチャンピオンの役』――そうか、なるほど。