2012年10月27日

無名作家の電子書籍小説でも一万くらいは売れる(ただし単位は円)

 死屍累々の電子書籍端末市場に世紀末救世主が現れたと評判の昨今、読者諸氏はいかがお過ごしでしょうか。
 アミバ級の企業
もう一度いう おれは天才だ!!
なら野心を抱くのは当然だし、ハート様程度
きみたちは大事な労働力なんだ
でも気持ちはわかる。が、登場から10コマ以内に「ひでぶ」するのが明白なザコ
汚物は消毒だ~~!!
でさえこの市場に乗り出してきて爆死するのは、いったいどういうわけなのか。
 それはさておき、無名作家の電子書籍小説でも一万くらいは売れる(ただし単位は円)。

 
 まずは私の無名ぶりについて。
Google Analytics
 上の画像はこのサイトのGoogle Analytics。ご覧のとおり、訪問者数は1日当たり200人程度
Twitter
 Twitterのフォロワーは210人
 まんが・随筆・イラスト・評論その他、つまり電子書籍を出せる人すべてを含めれば、いったい日本に何千人いるのかというレベルである。
 どうして「何千」であり「何万」ではないのかというと、こうした指標には順位規模の法則があてはまるからだ。1日当たりの訪問者数200人という数字が、もし上から数えて1万番目なら、頂点は毎日200万人ということになる。毎日200万人以上の訪問者を集める個人サイトは、たとえありうるとしても芸能人のものとしか思えず、電子書籍市場のプレイヤーではない。ありえそうな数字は最大でも20万人くらいだろう(たとえば小飼弾のブログは月間100万PV)。するとこのサイトは、日本のあらゆる文字・画像系個人サイトのなかで上から数えて1000番目くらいと推測できる。ただしこのサイトはオーガニック検索をよく集めるので、私自身の知名度は数段下がる。かくして私の知名度は、日本に何千人というレベルだとわかる。
 
 さて、そんな無名作家の電子書籍小説がどれくらい売れるのか。現在連載中の『完全人型』の数字をご紹介する。
Sales Trend
Payments
 iOS:1万円強
 
Android
 Android:3000円弱
 (本数と売上額が合わないのは、価格を順次上げているため)
 
 印税率は70%。印税相当額は合計約1万3千円。総売り上げは約1万9千円
 
 以上の数字から、なにがわかるのか。以下、順位規模の法則を頼りに、さまざまな命題を導いてみる。
 
もし電子書籍で歴史的大ヒットを飛ばせば、今現在の市場規模でも、最大で数千万円稼げる
 日本に何千人というレベルで1万3千円だとすると、頂点に位置する作家、つまり毎日20万人の訪問者を得ている人が電子書籍を出すと、いくら受け取れるのか。
 もし売り上げも順位規模の法則に従うとすれば、数千万円を受け取る計算になる。紙の出版の頂点は1億5千万円を超える(『ONE PIECE』)が、現在の電子書籍市場は小さく、しかし印税率は7倍。「頂点は数千万円」という計算の桁は合っているだろう。億に達することはなさそうだが、1千万円を切ることもない。
 
電子書籍は2年以内に、クリエイターの受け取る報酬総額を4~8%増やす
この4~8%という数字は、10年後には20%に達するかもしれない
 紙の商業出版では、1冊あたりの総売り上げが500万円を切ると採算が難しい。千円で売る本なら5千部、というわけだ。これを切ると、どうやっても編集・流通のコストで赤字になる。
 安定して売れる本としては、『ONE PIECE』の1巻当たり15億円が頂点と思われる。もし順位規模の法則があてはまるとすると、紙の出版で安定して黒字になる著者は300人という計算になる。紙の出版業界はこの300人の定常的な黒字と、偶発的に生じる大小のベストセラーでもって、売れない1000人分くらいの赤字を埋め合わせているわけだ。この計算も桁は合っているだろう。安定して黒字になる著者が1000人以上もいるとは思えない。
 繰り返すが、紙の商業出版では、1冊あたりの総売り上げが500万円を切ると採算が難しい。ところが、『完全人型』は総売り上げが2万円を切っていても、誰も赤字を出していない。
 印税相当額が1万3千円ではわざわざ売りに出す手間に見合わない、という著者も多いだろうが、現在の電子書籍市場はまだ小さい。市場規模が紙の商業出版を追い越すのは10年は先としても、KindleとApp Storeのある今、2年以内には1/7に達するだろう。すると印税相当額では同等になる。つまり、知名度300位の著者が電子書籍を出せば、1冊あたり50万円の印税相当額を受け取れるようになる。
 売りに出す手間に見合うラインを、仮に10万円と設定する。1500位までの著者が本を出すことになるわけだ。知名度1~300位までの1冊あたりの印税相当額総額と、301~1500位のそれを比較してみる。
・1~300位:9億4千万円
・301~1500位:2億4千万円
 もし出版ペースが同じだとすれば、ざっと25%ほどの増収になる計算だ。現実には、1~300位には専業作家が多いので、10%といったところか。単行本の印税ばかりが報酬ではないし、計算全体も誤差が大きいことを勘案すると、クリエイターの受け取る報酬総額は4~8%増える、という結論に至る。
 そして、電子書籍市場はさらに拡大してゆく。印税相当額で同等どころか2~3倍の差をつけるようになり、300位以内の著者も電子書籍で出すようになるだろう。
 とはいえこれは概算なので、仮に単純に300位で分けて、1~300位は紙の商業出版、301~1500位は電子書籍とする。また、電子書籍市場が現在の紙の商業出版の半分の規模に達したとする。すると4~8%という数字は14~28%に拡大する。10年後に20%、というあたりが現実的な数字だろう。
 
私がこれから2年間頑張って、もう少し知名度を稼げば、1冊あたりの印税相当額は15万円くらいに達する
 ここまで見てきたように、順位規模の法則をあてはめての計算は、桁を外しているようには思えない。
 とすると、もし2年後までに私の知名度を、上から数えて1000番目くらいまで押し上げることができれば、私の1冊あたりの印税相当額は15万円くらいに達する計算になる。
 2位・3位から1位になるのは途方もなく難しい。20位から10位になるのも相当難しい。が、100位以下では、桁が同じならどんぐりの背比べだ。数千位から1000位になる程度、大した手間ではないはずだ。
 (なぜ目標が1000位・15万円なのかというと、500位を切ればおそらく紙の商業出版で出せる)
 
 私は1位になりたい。1位になることを熱望している。
 だが私の欲しい1位は、知名度などという空しいシロモノではない。作品における1位、作品を読めば自明であるような1位、作品を読むまではなにひとつわからないような1位だ。もしそういう1位を達成した暁には、なにもかもが変わるだろう。数百位や数千位の作品でも、愛されはするし、傑作でもありうるし、運がよければ私を儲けさせてくれる。が、私は1位が欲しい。1位をあきらめるのなら、小説など書かない(もし私が西村京太郎のような地位にあるのなら話は別だが)。1位でない作品は、どれほど愛される作品でも、ある意味で、失敗作と言わざるをえない。もっとも最悪の失敗とは、失敗を恐れて書かないことであり、それに次ぐ失敗は完結しないことだが。
 とはいえ、人はパンのみにて生くるにあらず。挑戦のたびに15万円儲かるのなら、挑戦する気力も高まる。これから2年間頑張って知名度を稼いでみたい。その第一歩が、この記事というわけだ。
 というわけで、私をお引き立てくださる皆様におかれましては、どうか各種のステルス・マーケティングやハイビジ・マーケティング(今作った言葉)へのご協力をお願い申し上げます。

Posted by hajime at 12:11 | Comments (0)

2012年10月19日

十行でわかる仏教

原始仏教:
・人生は永遠に続くゴールのないマラソン。死んでも輪廻してマラソンは続く。
・ゴータマ(釈迦)は「こうすればゴールできる」とコーチする。
・理屈は置いといて、とにかくゴールする。カリスマコーチのゴータマを信じろ!
 
南伝仏教(スリランカ、タイ、ミャンマー):
・ゴータマの教えに従ってゴールしろ!
・といってもゴータマは二千年以上も昔の人なので、実際どのくらい従っているかは不明。
 
北伝仏教(中国→日本):
・自分がゴールするだけでいいのか? カリスマコーチを目指せ!
・ただし、今の文献学によればゴータマは、カリスマコーチを目指せとは言ってないらしい。

Posted by hajime at 02:21 | Comments (0)

2012年10月15日

『リリカルなのは』のバトル化、『まどマギ』のオサレ&ファンシー化、次はキャラ化だ

 『魔法少女まどか☆マギカ』のことを、「悲劇なのに、破滅する人々をあまり尊敬できない」と前回書いたが、そういえばラシーヌ『アンドロマック』もそうだった、と思い出した(参考)。

 
 「尊い行いのゆえに破滅するからこそ泣ける」というのは、たとえばオスカー・ワイルド『幸福の王子』を思い出していただきたい。ツバメは、生き延びることよりも、尊い行いのほうを優先させたがゆえに死んだ。尊いことをしたが、それを現世での栄光と両立させるには致命的に何かが欠けていた――そんな人々こそ悲劇の主人公である。
 生き延びつつ尊いこともする、そんなよくできたツバメは、食あたりのような不運以外ではなかなか死にそうにないし、よくできたツバメが食あたりで死ぬ話はなにをどうやっても泣けそうにない。そういうよくできたツバメが失われるほうが、この世にとっては大きな損失のはずなのだが、人が泣くのは損失の大きさのゆえではない。
 また、もしツバメが、共感はできるが尊敬には値しない形で出来の悪い奴だったら、どうか。たとえば、救貧ではなく吝嗇のために死んだのなら? 悲劇ではなく笑い話だ。ところが、『アンドロマック』は、これに類することをやって、なおかつ悲劇で通っているらしい。
 『アンドロマック』に登場する、熱狂的で破滅的な恋に焦がれる人々はいったい、吝嗇なツバメに比べて、どれほど尊敬できるというのか。吝嗇のために死ぬと笑い話になり、熱狂的で破滅的な恋のために死ぬと悲劇になるのは、いったいどういうわけなのか。
 
 さて話は『まどマギ』に戻る。
 『アンドロマック』の奇怪な謎に比べれば、『まどマギ』は多くの面ではるかに納得感が高い。
 たとえば『アンドロマック』の脇役たちは、誰も主人公たちにツッコミも入れずスルーもせず、熱狂的で破滅的な恋を相対化するきっかけさえ提示されない。主人公たちが王や王妃であることを考えると、作為が強引だと感じる。それに比べて『まどマギ』の魔法少女たちは、巴マミとほむほむが示したとおり孤独であり、相対化のきっかけはうまく排除されている(ゾンビ化の件ではあまりうまくなかったが)。
 が、「悲劇として通すために作中での相対化を避ける」という同一の手法を用いている点では、『アンドロマック』と『まどマギ』は共通している。
 
 作中での相対化さえ避ければ、それでいいのか――これが今日のテーマである。破滅する人々を尊敬できなくても、作中でそのことを露わにしなければ、悲劇として通るのか。
 通らない、と私は感じる。少なくとも、今では通らない。
 トンデモ妄想になることを承知で言えば――
 近世から近代にかけて、フィクションの登場人物を一種の理想像、超越的存在として読むことが流行った。坪内逍遥が『南総里見八犬伝』の八犬士に「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と言い掛かりをつけたのは、この文脈で理解されるべきだ。八犬伝を今読めば、(少なくとも前半の)八犬士は、坪内の言い掛かりを跳ねつける。作品としては、島田清次郎『地上』や小杉天外『魔風恋風』に強く感じる。こうした作品が大ヒットした事実に、当時の読者の態度を見て取ることができる。
 中世ヨーロッパの宇宙観では、天と地は別の法則で動いていた。超越的存在としての登場人物は、あたかも中世ヨーロッパの天のように、日常生活を営む読者とは別の法則で動く。熱狂的で破滅的な恋のために死ぬと悲劇になるのは、それが当時の天上の法則だったからではないか。
 現在では、こうした読み方は流行らなくなった。フィクションの登場人物は、天上の超越的存在として読まれることをやめ、「キャラ」になった。「キャラ」とは、この地上のどこかに生活していそうな人々であり、もし熱狂的で破滅的な恋にのめり込んでいたら「どうかしてる」と苦言を呈したくなる相手であり、仲間意識を覚える隣人である。
 日常生活を送る人々がそうであるように、「キャラ」にとって相対化は、日常茶飯事として当然起こる。起こるというより、相対化を通じて人々は互いに認識しあっている、と言える。相対化のきっかけを持たない人とは、それこそ『まどマギ』の魔法少女のように孤独な人だ。そうした孤独もなんらかの真実を含むが、「キャラ」の世界からは見えない真実だ。
 超越的存在としての登場人物は、フィクションの読み方として歪なものではなかったか。『アンドロマック』を悲劇として通すには、天上の法則についての暗黙の前提が必要であり、それ抜きでは不可解でしかない(私の推測も、まるごと的外れのトンデモかもしれない)。
 どんな作品もリアルタイムでは、なんらかの暗黙の前提のもとに読まれるが、その前提を失っても、輝きを失うどころかいっそう増すように思える作品もある。たとえば『ドン・キホーテ』は当時流行の騎士道物語を前提としているが、今の読者はその騎士道物語にほとんど触れるすべもなく、それでも『ドン・キホーテ』は十分どころではなく面白い。これは『ドン・キホーテ』の登場人物が「キャラ」として読めることと大いに関係しているだろう。
 
 徹底的に「キャラ」であるような登場人物の多い昨今のアニメのなかでは相対的に、『まどマギ』の登場人物はあまり「キャラ」ではない。『まどマギ』のファングッズがいささか発想・ビジュアルの両面で単調に思えるのは、そのためではないか。
 
 作中での相対化を避ければ、その登場人物は「キャラ」としての可能性を失う。
 「キャラ」が流行中だからそれはビジネス的にまずい、とビジネスマンなら思うだろうが、私は別にどうでもいい。ただ、読み方の可能性を損なう選択は、一般論としては、よい選択ではないだろう。
 もちろん、一般論は必ずしも個別の作品の良し悪しを決めない。私は『まどマギ』を大いに楽しんだ。それと同じく、個別の作品に楽しいものがあるからといって、一般論として優れた手法だとは限らない。
 
 作中での相対化を避ける――この手法は、『魔法少女リリカルなのは』にもよく見られる。
 作中において、なのはの正義や立場の相対化は徹底的に避けられている。たとえば時空管理局の理念と運営は、現実の暴力機関に向けられるような疑いを免れるのか? 作中ではこの疑いは徹底的に避けられている。なのフェイはセックスレスのほうが萌えるのではないかなどと私が思うのは、作中におけるなのはの無謬性のゆえだ。
 魔法少女は『リリカルなのは』によってバトル化し、『まどマギ』によってオサレ&ファンシー化した。次の一歩はキャラ化だ、と私は予想する。
 (蛇足になるが、『リリカルなのは』にはもうひとつ、百合化という重要な功績がある。この功績をバトル化より高く評価される読者諸氏におかれましては、完全人型をどうかお引き立てください)

Posted by hajime at 19:30 | Comments (0)

2012年10月11日

映画『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』

 まずはTV版の『まどマギ』について。
 私は本放送をリアルタイムで見た。最終回以外はゲタゲタ笑って楽しんだ。ゲタゲタ笑って楽しむ、という以上のものではないし、以下でもない。ためつすがめつして眺め回したり、唖然としたり、「あれがああだったら、これがこうだったら」と益体もない妄想にふけったり、といった楽しみを引き出せる作品ではない(最終回以外は)。ただ、ゲタゲタ笑えることは間違いない。
 ゲタゲタ笑えるとは、どういうことか。一発ネタ、というのに近い。さらに言い換えれば、「お前それは無理すぎるだろ!」と突っ込んだら負け、というのに近い。「お前それは無理すぎるだろ!」と思っても突っ込むのは野暮、「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑って続きを楽しむ、というスタンスを視聴者に求める作品が『まどマギ』である。
 『まどマギ』における無理は、もっとも端的には、ほむほむの沈黙という形で表れている。「話しても信じてくれなかった」といっても先に話しておけば後で信用を得られるだろうに、というのはまさに「突っ込んだら負け」であり、ゲタゲタ笑って楽しむことをお勧めする。
 個々の無理の例をいちいち挙げていくときりがないので、一番大きいところだけ指摘する。悲劇なのに、破滅する人々をあまり尊敬できない。尊敬に値する人々が、その尊い行いゆえに破滅するからこそ、悲劇は泣ける。『まどマギ』の破滅した魔法少女たちのなかで、尊い行いをしていると多少なりとも感じられるのは巴マミだけだ。もっとも、尊敬に値する女子中学生ばかりがたくさん登場する話もそれはそれでグロテスクだから、小手先ではどうにもならない無理の表れと見るべきだろう。
 こういう無理があるので、「部分に全体が宿り、全体に部分が宿る」というような一貫性を『まどマギ』は備えていない。が、それゆえに開かれる可能性もある。たとえば、『まどマギ』の日常空間は異様な近未来オサレセレブだが、ああいう異様さと見事に一貫した作品を作るのは、あまりにも難しい。あの異様な近未来オサレセレブ日常空間と蒼樹うめキャラデザの取り合わせを眺める楽しみは、『まどマギ』が一発ネタだからこそ可能になった。
 こういう偉そうなことを並べ立てる奴はどんな大層なものを作るのか、とお思いの向きは完全人型をどうぞ。要iOS / Androidです。

 
 さて、劇場版について。
 今回見たのは前編であり、TV版の総集編(さやか魔女化まで)という位置づけなので、私の場合、TV版をもう一度見るのに近い体験となった。それよりはずっと時間の節約になったが、得るものはそれだけだった。まだ『まどマギ』をご覧でなく、無理なものを見て「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑う度量をお持ちのかたには、お勧めする。
 一発ネタを繰り返し見るのは、駄洒落の解説を聞くのに似ている。「ああそうだね」とわかるだけで、楽しくない。劇場版ということで、TV版にない楽しみが追加されているのではないかと思ったが、少なかった。
 
 追加・変更されたもの:
OPでほむまどがいちゃいちゃしている。といっても全部で10秒くらい。
ホスト同士の会話の演技。TV版では、「これはいったいどういう作品解釈なのか」と唖然としたが、劇場版では違和感がない。
 
 追加・変更してほしかったもの:
音響のダイナミックレンジ。TV版と同じ音作りに聞こえた。映画館の静かさや音響設備を生かせていない。
奇怪な構図。近未来オサレセレブ日常空間、イヌカレー空間、蒼樹うめキャラデザ、という素材をさらに生かす奇怪な構図の画面がもっと欲しかった。
 
 一発ネタを繰り返し見れば、アラが目立つのは仕方ない。今回気づいたアラは以下のとおり。
携帯の番号を交換するのを二度続けて忘れるまどか。「どんだけ無理だよ!」とゲタゲタ笑うには少々厳しい。
杏子が自身の「ゾンビ化」をどう思っているのか、よくわからない。さやかの絶望を相対化する要素を持ち込みたくない、というのはわかるが、これもやはりゲタゲタ笑えない。
 
 そして一番気になったアラは、
巴マミのティーセット。あの近未来オサレセレブな部屋に、あの30年前に田舎のスーパーで買ったようなティーセット! あれをリテイクせずに通したのはどこの木偶の坊か。BDではまともになっていることを期待する。私のお勧めはロイヤルコペンハーゲンのグリーンフルーテッド。
 
 今回あらためてその良さに感じ入った要素もある。
ほむほむのアオリ構図。アオリ構図の完成形、と呼びたいくらい完成度が高い。
イヌカレー空間。映画館で見ると一層いい。
全体にオサレ&ファンシーな画面。おかげで客層に女性が加わる。リリカルなのは劇場版とは大違いだ。
 
 後編では、ほむまど大盛りを期待する。TV版は百合的には消化不良の感があった。

Posted by hajime at 23:57 | Comments (0)

2012年10月02日

もてぎエンデューロ7時間ソロ

 またのタイトルを、『ダンロップ坂 〜私、自転車、向いてない〜』

 
 私は夏のあいだ外をまったく走らないので(春秋冬もほとんど走らないが)、長距離に耐える能力が弱まる。弱まった能力に活を入れるべく、もてぎエンデューロ(正式名称:『第2回ランアンドバイク イン もてぎ 7時間エンデューロ 開業15周年記念大会 powered by ウイダーinゼリー』)に参加した。ソロで。
 
 どうせならスタート直後の何十秒かは先頭集団に食いついて愛三工業の走りを間近で拝んでやろうと思ったが、会場到着が遅れたため、スタート前の位置取りに出遅れ、すると当然のごとく一周目半ばにして集団から脱落し、あとは一人旅となった。ゆっくり一人旅をしても(時間的に)最後まで走れるのがエンデューロのいいところだ。
 なぜ会場到着が遅れたのか。深い訳がある。
 話は前日に遡る。私は茂木のホテルに泊まった。チェックインの際フロントに、朝食は何時かと訊くと、7時と言われた。これでは間に合わないので「いらない」と言うと、相手は「6時45分でどうですか」。一応、朝食つきで予約してあったので、朝食代相当の500円が惜しくて「それでいい」と返事してしまった。
 教訓:スケジュールを守る
 一人旅になってみると、イベント直前に泥縄式に長距離ばかり走ってきたせいか、足の筋肉が痛い。即発性筋肉痛である。高強度をしないと覿面に筋膜の痛覚が過敏になる。少なくとも前日は高強度をすべきだった。ヒルクライムなら前日の試走なりで必ず高強度を入れるところだが、エンデューロと思って油断した。
 教訓:前日に高強度を入れる
 補給食は主におにぎりとバナナの組み合わせを予定していたが、前日のスケジュールの乱れによりバナナの調達に失敗した。おにぎりは「サトウのごはん」から作ったが、これが底抜けにまずい。飯というより糊に近い。
 教訓:スケジュールを守る
 教訓:「サトウのごはん」は使えない
 サブの補給食として、水あめを高濃度に入れたボトルも使った。これはいい感触を得たが、ロングボトル1本は少々多すぎて、飲みきらずに終わった。次はマルトデキストリンを試したい。
 教訓:水あめは使える
 即発性筋肉痛のため、気力も出力も驚異の低空飛行になったが、高空飛行しても得るものがあるわけでもない。LSDと思えばこれはこれでいいトレーニングではある。ときどき列車にタダ乗りし、一度は先頭集団にも乗ってみた。ただしこれは、優勝を争っている人がトイレで降りたのを待ってスローダウンしていた瞬間にたまたま居合わせたから乗れただけで、半周と持たずに脱落した。
 
 6時間(台風接近のため予定より1時間短縮)も走っていると、いろいろなものを見かける。
 1周目か2周目で、落車後の様子を目撃した。しばらくして救急車がコースに入っていた。
 整備不良の自転車を何台も見た。変速位置が合っていなくてガチャガチャ鳴っている自転車は特に耳障りで、後ろにつくのが辛い。
 集団内でハスったかどうかして、罵声が飛ぶのを見かけた。集団は先頭付近で回っていないとストレスフルらしいと聞くが、なるほどと思う。
 ディスクホイールに絵を貼った痛チャリを数台見かけたが、登り以外では絵が判別できない。痛ジャージこそ本道だと改めて感じる。さらに言えば、ジャージではなくエアロワンピースのほうが痛さが激しいのではないか。
 教訓:痛ディスクホイールより痛ジャージ
 世の人々の、登り始めの速さと下りの遅さには驚く。毎周回、ダンロップ坂にさしかかると、いったいどこから湧いてきたのかと思うような大群が私を追い抜いてゆく。張り合ってもなにもいいことはないので、LSDペースで登ってゆくと、途中から逆に私が追い抜き始める。下りはいったいなんのつもりなのかと思うほど遅い。私は別に下りが速いわけではない。前にヤビツの下りでイナーメ信濃山形の2人に追い抜かれたことがあるが、唖然とするほど速かった。
 
 最後に、もてぎツインリンクに輪行される皆様に耳寄りな情報を。
 ツインリンクから宇都宮駅までタクシーを使うと、渋滞が一切なくても、1時間と1万2千円かかる。某タクシー会社のサイトには1万円と書いてあるが、どう考えても嘘だ。2時間のトレーニングとタダか、1時間の着席と1万2千円か、お好きなほうをどうぞ。荒天だったり、台風が接近していて1分を争っていたりすれば、後者の価値はあるかもしれない。

Posted by hajime at 17:45 | Comments (0)