2013年01月28日

百合だからコラム百本 第4回 姉妹こそ人類の理想

 姉妹という関係は、人類の理想を託すのに最適――そんな思想が、この世にはあるようです。
 この思想は、特に20世紀前半に盛んだったようです。たとえば、小杉天外『魔風恋風』。主人公の初野(女学生)は軽薄な陰謀家で、ほとんど誠実さを感じさせませんが、唯一、妹に対してだけは深い情愛を見せます。また、吉屋信子の家庭小説。姉妹の仲がいい、を通り越して、天国にしかありえないような理想的な人間関係として描かれている作品を散見します。
 戦前の女学校における「エス」関係では、しばしば年上の相手を「お姉様」と呼んだとされます。事実がどうだかは知るよしもありませんが、呼んだと「される」のには、それなりの理由があるはずです。
 姉妹という関係は、批判的な検討を免れる特権的な関係であり、姉と妹はまるで天使のような汚れのない無条件の愛を互いに抱く――そんな思想が、この世にはあるようです。
 この思想のことを、「姉妹天上愛思想」と仮に呼ぶことにします。

 
 まるで天使のような汚れのない無条件の愛。それはそれで百合的に素晴らしいのですが、この思想が大きな存在であるがゆえに失われるものもあります。
 具体的には、姉妹間の恋愛をメインに据えて傑作になったシリアスな作品を、私は見たことがありません。
 コメディなら『Candy boy』があり、恋愛でなければ『海の闇、月の影』があります。が、恋愛とシリアスの組み合わせは、どうも難しいようです。
 
 シリアスな恋愛物は、一種の聖杯探索物語です。主人公は愛という名の聖杯を求めてさまようわけです。
 日常生活のなかに「はいこれ聖杯。探索終わり」と聖杯を出したらコメディなので、聖杯を出せる特殊な空間を用意しなければなりません。たとえば、『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレは見事な解です。
 聖杯探索物語のクライマックスは、聖杯を出せる空間に入ることです。そこで聖杯を手にするか、あるいは失敗するかして、空間の外へと立ち去る――これがシリアスな恋愛物の大筋です。
 ところが、姉妹天上愛思想においては、この聖杯が日常生活のなかに「はいこれ聖杯」という勢いで存在します。姉妹という関係が「聖杯を出せる空間」になっている、とも言えます。
 姉妹天上愛思想を無視して書くことも、理論上は可能です。これほど大きなおいしいモチーフを外してまで書くべき「姉妹」があるのなら、ぜひ見てみたいものです。しかしとりあえずここでは、姉妹天上愛思想を取り入れるものとします。
 「はいこれ聖杯」というレベルで聖杯が現にあるのに、聖杯を探索するとは、どういうことか――姉妹間の恋愛をメインに据えるシリアスな作品は、この問題に解を与えなければなりません。
 
 姉妹の片方が「私は姉妹天上愛思想を信じない、その聖杯は偽物だ」と主張する、というのは一案かと思います。しかし、なにを根拠や動機にして「その聖杯は偽物だ」と主張するのかと考えると、なかなか難しいものがあります。
 もっとも安易に考えると、「性欲や性行為がないから偽物」となります。しかしこの主張をシリアスで押し通すのは、かなり難しいでしょう。
 「恋人と排他的ではないから偽物」「生涯添い遂げないから偽物」等々――全部まとめて、「ヘテロの恋愛結婚カップルがそんなに偉いのか?」の一言で退けられます。
 
 姉妹天上愛思想によれば、姉妹という関係は人類の理想そのものです。理想そのものであるがゆえに、そこからはなんの動きも生じない、と言えるでしょう。悟りの境地とは、こういうものかもしれません。
 次回のテーマは、「セクシュアリティ」です。なお『紅茶ボタン』『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 02:53 | Comments (0)

2013年01月25日

冬コミ新刊をKindleストアで発売しました

 西在家香織派の冬コミ新刊『食前酒・告白 百合小説掌編集』をKindleストアで発売しました。99円です。皆様のご愛顧をよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 20:47

2013年01月21日

百合だからコラム百本 第3回 字余りとしての男

 21世紀最大級の愚問を思いつきました。「百合に男性の登場人物は必要か?」。
 これではあまりにも愚問なので、もう少しマシな形にしましょう。「男性の登場人物を活躍させれば、百合は面白くなるか?」。
 多くの場合、その逆が正解です。よい作品の基礎となるのは、よい制限です。「字余りにすれば、短歌はよくなるか?」。答えは自明でしょう。
 しかし、字余りの傑作、字余りであるがゆえの傑作が存在することも事実です。
 この比喩でいえば、前回取り上げた『海の闇、月の影』は、自由律ということになるでしょう。百合と言われなければ百合とは思わないかもしれない、というわけです。
 今回は、いわば字余りとしての男について考えてみます。

 
 TVアニメ版『神無月の巫女』が傑作かというと、否です。が、なにかしら悪くないもの、捨てがたいもの、見るべきものがあります。野心作、という評価が妥当なところでしょう。なお野心作の常として、あらすじを紹介しても意味がないので、読者諸氏はすでにこの作品をご覧になっているものとします。
 なにがこの作品を野心作にしているのか。
 姫子の女受け最悪感と、ソウマの収まりの悪さ(まさに「字余り」)が主な要因である、と私は考えています。前者については後日に譲るとして、ソウマの収まりの悪さを詳しく見てゆきましょう。
 「姫子への愛」と「オロチとしての宿命」。この2つの行動原理が衝突する焦点がソウマである、と言えます。ベタでエンタメな作劇術なら、

最初は矛盾するかに見えていた2つの行動原理が、実は矛盾せず、相補的なものであることを発見する。あるいは、そのようなものになる地点にたどり着く。

 という展開になります。具体的には、「オロチとして世界を破壊することが姫子を救う唯一の方法であることを発見する」わけです。
 が、「姫子を救うために世界を破壊する」という展開は千歌音に使われています。ではソウマはどうなったかというと皆様ご存じのとおり、「オロチとしての宿命」を完全に打ち負かす、という展開になりました。
 オロチとしての宿命を背負わされていない千歌音に「姫子を救うために世界を破壊する」という展開を与える一方で、ソウマのジレンマには「姫子への愛」の完全勝利というあまり釈然としない展開を与える――TVアニメ版『神無月の巫女』という作品の抱える根本的なねじれが、ここにあります。
 このねじれが、百合における男という「字余り」に、照応している。
 私がこの作品を野心作と呼ぶのは、かなりの部分、この照応関係のゆえです。そして、傑作ではなく野心作にとどまるのは、この照応関係がうまく機能していないからです。
 謎の機械を眺める心境、と言えば伝わるでしょうか。素性や目的のわからない、大きな複雑な、しかし明らかに動作しない機械を眺めて、「これが動いたら、どんなにすごいだろう」と空想する――そんな楽しみともどかしさを、TVアニメ版『神無月の巫女』は与えてくれます。
 
 どうすればこの照応関係が機能するのか。
 もし満足のいく答えが容易に見つかるものなら、私はTVアニメ版『神無月の巫女』をこれほど評価しません。
 
 ベタでエンタメな作劇術を忠実になぞるのでは、けっして見えてこない地平が、この世にはあります。五七五七七を厳守していては詠めない短歌があるのと同じです。その地平を拓くのには非常な困難を伴うということも、重ねて申し上げておきます。
 次回のテーマは、「姉妹」です。なお『紅茶ボタン』『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 01:35 | Comments (0)

2013年01月18日

紅茶ボタンKindle版

 紅茶ボタンKindle版の販売を開始しました。
 これまでのアプリよりも対応端末が増えました。といっても増えたのは、Kindle PaperwhiteとKindle Fireだけです。将来的にはPC版Kindleも日本で使えるようになると思います。たぶん。

Posted by hajime at 17:59 | Comments (0)

2013年01月13日

百合だからコラム百本 第2回 成長

 篠原千絵に『海の闇、月の影』という作品があります。あらすじを一行にまとめれば、「双子の姉妹が愛憎の超能力バトルを繰り広げるアクションサスペンス」。
 もう少し詳しく説明しましょう。

 非常に仲のいい双子の姉妹(主人公と敵役)が、同じ男(彼氏役)を好きになり、彼氏役は主人公を選ぶ。その直後、天変地異の影響で、姉妹はバトル系の超能力を得る。同時に敵役は性格が一変して、支配を好み殺人をためらわないようになる。主人公の性格は変わらなかったのに敵役だけがこうなったのは、敵役が彼氏役に選ばれなかったことが影響している。敵役は多くのものを支配しようとするが、とりわけ彼氏役に執着し、そのために主人公を殺そうとする。敵役を止められるのは主人公だけであり、主人公は超能力バトルで敵役の行動を阻む。しかし主人公は敵役を殺そうとはしない。敵役が天変地異の前に戻り、再び仲良くなれることを主人公は望んでいる。

 読者諸氏はこのあらすじから、どんな作品をご想像なさったでしょうか。
 実はこのあらすじには、作品の核心ともいうべき、あるモチーフが欠けています。それは、主人公と敵役のあいだの幼児的原初的一体感です。「生まれる前から一緒」「二人でひとり、一心同体」という、自他の境界線が曖昧な感覚です。
 この感覚は楽園体験として頻繁に回想されます。その際、二人の容姿が同じであることにより、絵としても強く明確なインパクトをもって打ち出されています。おそらく作者はこれが狙いで、主人公と敵役を双子に設定したのでしょう。
 このモチーフをあらすじに加えましょう。

 主人公と敵役のあいだの幼児的原初的一体感は、彼氏役の選択によって失われる。主人公と敵役は二人とも、この感覚を取り戻したいと願う。しかし敵役のほうは、取り戻したいと願いつつ、絶望している。なぜなら、自分は彼氏役に選ばれなかったから。敵役が彼氏役に執着するのはそのためである。敵役が主人公を超能力バトルに引きずり出すのも、失われた一体感を求めるがゆえのあがきである。

 どうやら百合らしくなってきました。
 あらすじの説明はこれくらいにして、ここで問題です。この『海の闇、月の影』という作品は、彼氏役が女性でも成立するでしょうか?
 私は、成立しないと思います。
 どうしてか。双子の姉妹の幼児的原初的一体感というモチーフが、読者の目に説得力をもって映るには、「彼氏ができる」という「成長」とのコントラストが欠かせない、と感じるからです。
 
 未分化の混沌から、整然とした分節化へ。
 言い換えると、無限定な「好き」から、「家族愛」「友情」「恋愛」へ。
 成長というモチーフは、このような動きを、どうしても含んでいるように思います。
 百合はこのような動きを、どう扱うでしょうか。CCさくらの有名なセリフ、「きっとさくらちゃんとは違う意味の『好き』ですけど」は、このあたりの機微をよく伝えるものです。無限定な「好き」にはとどまらないが、整然とした分節化、すなわち「お付き合い」へとまっすぐ進むこともできない――この宙吊り感は、百合の大きな魅力のひとつです。この宙吊り感を、「成長をめぐるサスペンス」と、仮に呼んでおきましょう。
 成長をめぐるサスペンスのなかでは、未分化の混沌も、厳しい吟味の目にさらされます。幼児的原初的一体感を、無邪気で純粋な楽園体験として描き出すことはできません。だから『海の闇、月の影』という作品は、彼氏役が女性では成立しない、と私は感じます。
 しかし、『海の闇、月の影』は、百合的に素晴らしい作品なのです。無邪気で純粋な楽園体験への強い思い入れ――これは、けっして忘れてはいけない百合の重要なモチーフです。
 
 成長をめぐるサスペンスは、百合の大きな魅力のひとつです。が、必須ではありません。
 双子の姉妹がかつての幼児的原初的一体感を回想し、取り戻したいと願う姿は、間違いなく百合の大きな魅力を放っています。しかしこの魅力は、成長をめぐるサスペンスとは両立しません。「彼氏ができる」という「成長」によって楽園を追放されたがゆえに、回想のなかの楽園が楽園として光り輝く、という仕組みになっているのです。
 
 百合はしばしば、成長をめぐるサスペンスを展開します。しかし、型にはまった成長(=彼氏ができる)も、退けるべきではありません。それを使わずには描けないような百合の魅力もあるからです。もちろん、型にはまった成長を型どおりに寿ぐような作品は論外ですが。
 「主人公に彼氏ができる百合」の話をしたところで、次回のテーマは「男」です。なお『紅茶ボタン』『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 23:43 | Comments (0)

2013年01月06日

百合だからコラム百本 第1回 はじめに

 百合が流行ったり廃れたりする今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしでしょうか。ずっと廃れっぱなしの日々が長かった身としては、流行り廃りも悪くないものです。
 私は最近、きらら系四コマの隆盛を追いかけるべく、きらら系まんが誌を全部読むという挑戦をしています。挑戦です。「間違ってさえいない」というのは疑似科学に対する批判ですが、この伝で言えば、「駄作でさえない」作品があまりにも多いように思えます。私が根本的にわかっていないのではないかという恐れが強いので、こまごまとした感想などはまだ言えません。
 そんな私が今日から始めるのが、この連載コラムです。『百合だからコラム百本』。毎週日曜日、百合のあれこれについて考察します。二年ほどかけて百本書く予定ですが、ネタ切れの際にはなにとぞご容赦ください。

 
 社会性。
 「そういう感情は一過性のもので大人になれば」というあのお馴染みのセリフ。
 「家庭を持って子供を育てて」というあのお馴染みのプレッシャーを感じる主人公。
 障害克服展開には必ずといっていいほど出てくる、これらのセリフやプレッシャーは、社会性がその根源にあります。「異性愛強制社会」とその筋では言います。
 しかし、社会をよくする・批判するというのは、百合の興味ではありません。
 そもそも、「フィクションにおけるこういう言説は異性愛強制を維持・強化している」という見方だって成り立ちます。「『子供のときは社会のプレッシャーに弱かったから、異性愛強制社会を翼賛していた』という反省のセリフこそお馴染みになるべきだ」と言われたら、それは政治的には正しいでしょう。
 しかし、政治的に正義であることは、百合の役割ではありません。
 「天使を描いた絵はよい。悪魔を描いた絵は悪い」という世界には、百合の居場所はありません。利害や善悪は、百合を計る物差しではありません。
 (「天使を描いた絵はよい。悪魔を描いた絵は悪い」という価値観はお伽噺の世界のように思えるかもしれませんが、「悪魔」を「悪徳」に置き換えれば、現在の日本でもこの価値観は生きています。たとえば都条例の「不健全図書」)
 では百合は、すべてをモチーフとして、ネタとして、絵の具として使うだけなのか。
 もし百合が、モチーフを自ら探し出そうとせず、「ありもの」ばかりで済ませるとしたら、答えは「そのとおり」となるでしょう。もちろん、市販の絵の具だけで描かれた絵にも傑作はいくらでもあります。しかしそうした作品は、百合の可能性を百パーセント感じさせるものではありません。
 この世には、百合だけがモチーフとして、ネタとして、絵の具として使えるものが、たくさんあります。百合という眼鏡を通して見るのでなければ、その存在に気づくことさえできないものです。そういうものを、どこから探し出すのか――社会性です。
 (間違っても「社会」から探そうとしてはいけません。社会はありものの寄せ集めです。最大のありものは貨幣である、と言えばわかるでしょうか)
 というわけで、『百合だからコラム百本』の第一のテーマは、「社会性」です。
 
 美。
 人が日常生活を送る、いやそれどころか「立派な人」と認められるには、利害と善悪を扱えれば足ります。そしてもちろん百合は、「立派な人」が関わるべきものではありません。しかし百合は存在します。
 なぜ全人類は年中無休で二十四時間、「立派な人」を目指さないのか。「立派な人」だけの世界がディストピアとしか思えないのは、なぜなのか。
 この世には、百合が存在すべき理由があります。仮にここではそれを「美」と呼んでおきます。『百合だからコラム百本』の第二のテーマは、こういう「美」です。
 
 次回のテーマは、「成長」です。『紅茶ボタン』『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。

Posted by hajime at 19:13 | Comments (0)

2013年01月04日

今月の俺Twitter

ウォルト・ディズニーって不幸そうな顔してる。



このブログって、エントリを消してもエントリ自体のページは消えない仕組みだと今初めて気づいた。こんなんアリか!


図書館のカウンターにゆりーと(東京スポーツ祭なるもののキャラ)のぬいぐるみがあった。「コバトン」と書いた札を首にかけてやりたい。


「バチカン市国で、クレジットカードを使った電子決済が出来なくなった」 http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20130104-567-OYT1T00782.html テロ支援国家指定がだんだん冗談でなくなってきた。



食洗機の洗剤を毎日毎日毎日毎日買い忘れる件について。もう ネットで 買うしか ない


ゆりーと(東京スポーツ祭とやらのキャラ)で思い出した。きっと『百合男子』あたりでとっくの昔に言われてると思いますが、念のため言っておきます。「ゆりーと」って名前なのに百合と無関係ってどういうことだ!


解放令反対一揆が印象的だったので、『解放令の明治維新』を読んだ。「世界には原初的・先験的・神話的秩序があるべきだ」という感覚って、人間の原罪やね。アプリオリな総合的判断なんか存在しないっての。


そういや最近のアキバでは怪しい募金活動を見ない http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130105560.html 法輪功らしき宗教も消えた。エウリアンはどうだったか。


NHKの大本教の番組を見た。やっぱり出口王仁三郎って好きになれない。ファッドに振り回されつつ自分もファッドを再生産した人としか思えない。こういうのを「時代を体現した人」みたいに言うのは私の趣味ではない。


昔の和装を調べていると、どうして明治維新が洋装を猛プッシュしたのかよーくわかる。昔の和装はあまりにも身分と結びつきすぎてる。身分をリセットするには洋装にするしかなかった。今でも皇族が和装をしないのは明治維新の名残らしい。


「ツールドフランス 立ちション」は確かにきてる>イクシオンサーガDT


ラブライブよさげ。


聖闘士星矢Ωがアップを始めました http://wired.jp/2013/01/07/below-absolute-zero/


Kindleストアで同人誌を買って読んだら、ナビゲーション関係のメタデータが皆無でえらく不便だった。ちゃんとePubを研究しないとなー。


「スマート家電」って10年以上前から言われてるけど、いまだにスマート植木鉢を見かけない。土の水分状態をモニタリングしてWiFi経由でメール通知。電源は太陽電池。24時間動く必要はないから夜間は止まるだけ。簡単でしょ。


子育て経験者枠を設けるのがいいと思うよ http://www.j-cast.com/2013/01/07160408.html あと公務員と企業もね。少子化が困るというのなら、子供を増やすのに貢献した人を優遇するのは当然でしょ。


ノロウイルスっぽいのにやられた。こんなに激しい病気とは知らなかった。


最近のアニメは学校がつぶれる話が多いね。TARI TARIにラブライブ。震災も使えばいいのに。


宝くじ売り場のクソ野郎 http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-130109X580.html 参考:http://blog.livedoor.jp/torontonianclub/archives/50573321.html


Velocity A23 O/C出荷 http://store.velocityusa.com/p/a23-o-c-700c-msw 日本には送ってくれない。


DT RR 440なんてリムも出たのか http://www.dtswiss.com/Components/Rims-Road/RR-440-asymmetric 出荷はまだっぽい。


ノロウイルスから復活。だいぶ人心地ついてきた。


BB30が淘汰されない自転車業界を見てると、「僕もここにいていいんだ」という気持ちになれる。ありがとうイタリア人(自転車業界の人間は世界中どこの誰でもイタリア人)。でもBB30のフレームは絶対に買わないけどな!


オートバイが「バイク」って言われるようになったのはいつからなんだろう。「オトキチ」という言葉ができたころにはまだ「オートバイ」だったはず。


国会図書館の検索によれば1953年のこと。1952年までは「バイク」はなく「オートバイ」のみ。そして1953年当時には「バイク」と「オートバイ」と「スクーター」がそれぞれ別のカテゴリーだったらしい http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000913757-00 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000917414-00 そして1960年までには「バイク」と「オートバイ」はイコールになったっぽい。


「スクーター」の初出は1949年。「バイク」より古い言葉なのか。


どうしてモノコックのスクーターって消えたんだろう。整備性かねえ。ラクと綺麗は両立しない。


「壊れちまった人がまた出てきて、こんなんやらかしましたよ」って報道するのはいいけれど、「壊れちまった人ってこんなんですよ」っていじくりまわすのはやめてほしい>テレビ iPS捏造の人とか、遠隔操作予告の人とか。宮崎勤事件のときからずっと同じ。マスコミの「心の闇」体質。


マスコミが「犯人像」をぐだぐだ言ってるのを見ると、酒鬼薔薇事件を思い出す。犯行声明文(だっけ?)の筆跡を見たら一目で十代ってわかるのに、警察は筆跡を出さずに文面だけ出してて、マスコミは「30代」とか抜かしてた。捜査協力?


50~100年前の工業製品をオーバーテクノロジー度で採点する、っていう遊びがあってもいいと思う。1940年代ではベスパ98は相当高い。同時代の類似品と比べて一番現代のフォルムに近い。


ベスパ125で二人乗りして急坂の途中でアクセルを開けたらひっくり返りそうな気がする。出力がないから大丈夫?


ベスパって、イタリアンな「綺麗>>>>ラク」がたまたま現在のスクーターの状況と近いだけ、という気もしてきた。工業製品って「ラク>>>>綺麗」なのもののほうが多い。日本でもスーパーカブの時代が長かった。東南アジアには現在まさにスーパーカブ時代のところが多い。


個人には心があって「心の闇」もあるけれど、企業や国家のような組織には心がないから「心の闇」もない、という枠組みは嘘だと思う。「人間は不滅であり、その救済は、いつの日か、あの世にある。しかし、国家は不滅ではなく、その救済は、今、この世にしかない」(キッシンジャー)ってのは嘘だよ。個人を擬人化するなら、組織も同じように擬人化しなければならない。前述のダブスタは、組織を個人にとっての神にしている。会社社会主義国の国教にぴったりだわ。


「社会通念上、読者に不愉快な思いを抱かせ、問題があると判断した」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130111-00000589-yom-ent 「自社広告が不愉快だから」って理由でここまでするとは驚愕。


他社が金払って出稿した広告だったらどうするの? 出稿者「あの広告はまずかったわー。損害分は払うから、次号の発行を止めてよ」出版社「じゃあ今から止めてくる」なんて話になる? ならないと思うなー。「出したら犯罪」ってレベルならともかく。


ガンダムのキシリアって名前を今の今までずーっと「キリシア」だと思ってた。ちなみに設定では24歳らしい。19世紀以前ならあんな24歳でも納得感が… たぶんあったような気が。


「なぜ私はビビッドレッド・オペレーションが好きになれないのか」について小一時間語りたくなったが、「なぜ私はストパンやビビッドレッドが嫌いなのにリリカルなのはが好きになれるのか」のほうが面白いような気がした。


「キャラ vs キャラじゃないバトルはつまらん」の一言で済むような気がしてきた。あと「戦争物とバトル物って違うよ!」か。リリカルなのはもStSはこの2つの理由でダメ。


戦争物の面白さは、「弾は前から来るとは限らないぞ」ってところにある。最近はそういう面白さを備えた作品が少ない。『ワイルド7』とか最高なのに。自軍はもちろん敵軍も、後ろから撃たれるのを恐れてる。


『ワイルド7』の時代は戦記物ブームの影響が残ってたので、そういう面白さが広く深く理解されてたんだと思う。あと、「萌えキャラ」とピカレスクの相性の悪さか。フィクションの戦争物ってピカレスクになるほかない。


萌えキャラのピカレスクって誰かやればいいと思うよ。あ、『靴ずれ戦線』がわりと近いか。


リスクに上限なし http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-130113X218.html ゴト対策を真面目に考えたら、めったなところにスロットマシンなんて置けないねえ。上限額を筐体に大きく刻印すればセーフ、とか決めてもらわんと。


人間とそれ以外の動物すべてとのあいだを分ける唯一の決定的な違いはない、という話を前に聞いたことがあるけれど、「Gメン歩きをする習性がある」というのを考えてみた。4頭以上でGメン歩きをする動物って、人間以外に見た記憶がない。


国会図書館デジタル化資料のシステムに痺れる。PDFをサーバサイドで動的生成ってアンタ。1冊1ファイルにしてCDNに置いたほうがどう考えても楽で安くて便利。なにをどうするとこうなったのか。


和裁の腕のレベル感を伝える資料がなかなかない。たとえば、クソ高い友禅を仕立てるのは普通それなりの職人だと思うけど、自分でやってしまう剛の者はどれくらいの勇者だと思われてたのか。縫うのはともかく裁つのはガッツがいる。


20世紀前半って年平均気温がガンガン上昇してた時代なので、戦前の人は基本的に気温より暑苦しい格好をしてたと思う。上昇してたといっても、もちろん今の東京からは想像がつかないほど涼しい。


銘仙って戦前の少女小説のド定番だったけど滅びたなーと思ってたら、戦後になってウールにやられたらしい。そのウールも洋装にやられた、と。


戦前の色彩感覚を知るのは難しい。大正~戦前のプチブル少女のモードは化学染料の原色な色だったんではないか、と推測してるけれど、どうか。そもそも二十歳過ぎたらマダムな世界って、今ではちょっと想像がつかない。


1930年のプチブル少女(15歳)の衣装箪笥を見てみたい。街着は新調が2つ、古着が2つくらい? 季節感的に微妙か。でもこのラインを超えないプチブル少女のほうが多かった、と予想。4・6あたりが実用の上限かねえ。季節ごとに2着以上。これを超えても箪笥の肥やしになったと思う。


銘仙は10年1億反 http://www.1101.com/edo/2003-10-10.html 1930年の内地人口が6000万人だから、銘仙を着られる年頃の女性は最大2000万人くらい(当時は今より圧倒的に若年層が多い)。うち半数はガチの貧乏プロレタリアートなので、市場人口は1000万人。とすると、年に2反買ってるプチブル少女ってざらにいたのか。プチブル少女の半数くらいが4・6艦隊を建造したのか。リッチだねプチブル少女。


銘仙1反は2~5万円。4・6艦隊級の装備の総取得価格ってどれくらいだろう。60万円くらいかねえ。これを4年で買い揃えるとなると、単純にストックを取得するだけで年に15万円。実際にはフローもあるから18万円くらい。確かに建造可能だけど、今、被服代に年18万円使ってる少女って、「プチ」のつかないブルジョアが大半な気が。


最近の統計では、家計支出に占める被服の割合は約4%。当時の家族構成(核家族じゃない)、若い娘に金がかかること等々を勘案して、世帯の総被服支出を72万円と仮定。すると世帯の可処分所得は1800万円。やっぱり「プチ」が外れそう。戦前はプチブル世帯の家計支出に占める被服の割合が今よりずっと多かった、と見るべきか。


昭和10年の富農の調査を見たら、被服費が10%を超えてる。やはりね。戦前は今よりはるかに被服に金を出した。


映画のコクリコ坂を見た。テレビなら別にいいけど、映画館で空気アニメを見るのは、どんな気持ちのするものだろう。


Velocity A23 O/Cを買った。eBayで送料込122ドル。ハズレが来たら泣ける。もし今ゼロベースで機材を揃えるならPower2maxと中古のPowerTapを買うけれど、リアエンド幅が変わるまではリセットはできない。


『じこまん』で「一生モノ」というネタが出てくるけれど、私の知るかぎり一生モノは工具しかない。たとえば私の使ってるチェーン切りは20年以上前に買った。ドライバーは30年、モンキーレンチは40年。対して、同じフレームに10年以上乗るのは難しい。


そして消耗品に金をかけるほうが幸せになれるんだよねえ… タイヤとか服とか。


詐欺容疑:女装して婚約 現金だまし取る 33歳の男逮捕 http://mainichi.jp/select/news/20130116k0000m040123000c.html 被害者がかわいそうを通り越して、かける言葉もみつからない。


アマゾン本体はセロハンテープの品揃えが悪い。


経済状況が悪い人81% http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1301/16/news092.html いつ暴動が起きてもおかしくない。


1930~1940年の若い女性の凝った髪型で、今見ても大丈夫なのはほとんどない。夜会巻きは名前だけは残ってるけど、当時の夜会巻きは逮捕時の阿部定。今のAKBがしてる髪型も、10年過ぎたらその後は半永久的に「あちゃー」になるんだろうなーと予想。


私の知るかぎり、アイテムには時効があるけれど、凝った髪型には時効がない。なんでだろう。


諏訪根自子の若いときの、横分けじゃないほうの髪型はなんて言うんだろう。あれは凝ってるけれど今でも大丈夫。ヨーロッパで仕入れてきたのかね。


諏訪根自子の若いときの、横分けじゃないほうの髪型は、戦後のものらしい。そう、昔の凝った髪型が全部「あちゃー」かというと全然そんなことはない。特定の時代の流行だけが半永久的に「あちゃー」になる。やはり1930年代は暗黒時代だったのではないか。ちなみに私の見るところでは、1980年代後半も暗黒時代。


李香蘭の髪型もセーフ。1940年ぐらいに暗黒時代を抜けた。パーマのおかげ? 束髪が根本的にあかんかった? 考えてみると、束髪で済むんなら江戸時代に髪油なんかやめてるはず。


「凝った髪型には時効がない」という現象は考えさせられる。


「洋装はNGだったのに束髪はOKだった」というのも考えさせられる。衛生観念?


20世紀前半は平均身長がガツンと伸びた時代なので、和装の美意識では小さい人が有利だったはず、と予想。思えば諏訪根自子の和装写真って見たことない。令嬢&バイオリニストだからだと思ってたけど、身長の関係もあるかも。


和服のMサイズ相当って今でも身長152cmらしい。新成人女性の平均が152cmだったのは1930年代… その1930年代当時のMサイズは148cmくらいかね。でも平均を押し下げてたのはガチの貧乏プロレタリアートだから、市場の平均はもっと高かった?


和装が経済的には狂気の沙汰だってことは大正のころから言われてた http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/48995/1/10_123-134.pdf もちろん江戸時代の和装は1930年の和装とは全然違う。明治に作られた狂気。どういうわけでこうなったのか知りたい。


主婦之友と婦人公論をデジタル化してくれないかね国会図書館。少女倶楽部はだいぶデジタル化されてるけど、館内閲覧のみってそりゃないよセニョリータ。


ランス・アームストロングはUCIとの関係をどうしゃべってるんだろう。UCIがランスを助けられない現状では、USADAに協力するしかなさそうだけど。


「自分はUCIとはグルじゃない」か。ウィーゼルとフェルブリュッヘンがグルだけど自分の知ったこっちゃないんですね、わかります。


近所のサッポロ飲料の自販機の中身がポッカに変わっていた。オイ!


ランス・アームストロングのインタビューはつまらなかった。ランディスのほうが百倍ためになる http://yajiumadeg.tumblr.com/post/9202193713/1


映画の『火垂るの墓』を録画しといたのを見たら、実写版だった。ぐぬぬ。


最近PowerAgentからStravaへのUploadがBad Requestになる。なんで?


リケンラップはかなり出来がいい。クレ・サランより上。しかも安い。


30分238Wがかなり楽勝だった。60分250Wいけるで。固定ローラーでもグローブは重要。


アルジェリアの事件が激しい。あんな自殺作戦にあれだけの人数を動かせるって大変な連中だわ。


Velocity A23 O/C到着。32Hの黒で440g。噂通り穴は左右に振ってない。ニップルワッシャーって効くのかねえ。


15分248W。5MPとの比でいくと20分255Wくらいまでいけるはず。


BB30でもエアロでも1-1/4コラムでもコンフォート系でもないフレームってこの先出るんだろうかと不安になる今日このごろ。CANYONは1-1/4コラムに行きそうだし、SCOTTはエアロに走ってるし、TREKはボッタクリだし。リアエンド幅が135mmになるときに残ってないと困る。


そうだまだANCHORがあった。


エアロなのはフォークとハンドルだけで十分。特にハンドル! 31.8mmとかぶっ殺すぞ! 夢はintegrated。


integratedなステム・ハンドルバーでC-C 38cmでドロップの深い丸ハンって出ないかねえ。マーケティング的に最悪の組み合わせですかそうですか。


「スクロールしたりクリックしたりしている人が何人かいたけれど、ほとんどはただ画面を見ているだけ。あの人たちはまるで人形」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130121-00000118-jij-kr 「平壌の路上で水彩画を描いてる人をよく見たら、筆に絵具がついてなかった」という話を思い出した。


「日本でデザイナーズブランドビジネスを確立させることは無理ではないかと絶望的な気持ちになる」 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130121/242533/?P=1 デフレの世の中、地主ビジネスをしたい人ばかりだもの。「販路」&「コミュニケーションツール」。


再放送のグレンラガンを見てたら、ヨーコがやたらに気になる声で誰かと思ったら井上麻里奈だった。私が見てないアニメにばかり出てる人だ。全部見たのはまりほりくらい。


「自分が見てないアニメにばかり出てる人」現象って、すでに名前がついてそうな気がする。


「iPhoneと性能を比べて」 http://news.goo.ne.jp/article/mycom/trend/mycom_746443.html 性能の比較に意味がある=iPhoneのパクリ、と。典型的な地主ビジネス。軽量端末を出せよ! 80g切る奴!


Kindleストアのアフィリエイトの料率が10%だと気づいた。紅茶ボタンを売ると1回70円入るわけです。ただしKindleの普及率がまだアレなので、あまりお勧めできない。Kindle For PCもCloud Readerも日本語化されてないし。3年後に期待。それまでに弾丸を10発並べたい。


女性芸能人とかの「同性に受けたい」という欲求は百合的に重要なテーマだと思う http://www.rbbtoday.com/article/2013/01/21/101509.html なんなのかねアレ。


なんで電通とかが昔はセカンドライフ、今はLINEを煽ってるのかというと、「地主ビジネスだから」だと気づいた。「地主ビジネスはじめるよー」と言えばジャパンマネーが食いついてくる、と。「画期的な新エネルギー」では底抜けのアホしか食いつかないけど、地主ビジネスなら電通が食いつく、と。


ジャパンマネーの地主ビジネスに対する異常な執着って、過去の成功体験なんだろうなーと思う。土地神話。


映画のトランスフォーマーを見た。お前、絵コンテから脚本を書いただろ! そういうやりかたは大好きです。とはいえその脚本が無茶苦茶&好きになれない。


最近の葉物野菜の値段には震える。


高価なふりかけは安いのよりも明らかにおいしい。


方言なんてやめときゃよかったと後悔中。セグメントが地域×時代なので難しすぎる。「ぶち~」とか聞いたことないし。


ほとんどカルト http://news.goo.ne.jp/article/sankei/nation/snk20130119559.html 人間の根源的な欲求として「カルト欲」というのがあると思う。


なぜTVアニメ版『神無月の巫女』のソウマのストーリーが釈然としないのかについて。


たとえ話。まず、新聞掲載の4コマまんがを想定。「食いたい vs 痩せたい」というネタ。1コマ目:主人公はパーティーの残り物の大きなローストチキンに目を輝かせる。2コマ目:あとで体重計に乗ったときの恐怖を思い描く。さて、続きは?


作例A。3コマ目:頭を抱えて悩みまくりながら、ローストチキンを飼い犬に与える。4コマ目:ローストチキンを退けて心安らかな主人公。


作例B。3コマ目:飼い犬が不意にローストチキンに食らいついて、人間の食べられるものではなくなる。4コマ目:こんなことなら食べときゃよかった、いや食べられなくなってよかった、と相変わらず悩む主人公。「まだ悩んでるの?」とあきれる脇役。


作例AとB、どちらが新聞掲載の4コマまんがとして形が整っているか。「食いたい vs 痩せたい」のようなジレンマが提示されて、片方が勝って片方が退けられる筋書きは、釈然としない。


ソウマの「姫子への愛 vs オロチとしての運命」は、作例Aの3コマ目をあれこれ頑張って演出していたけれど、やはり作例A。片方が勝って片方が退けられる筋書き。


うまい筋書きを最初から放棄してる作品、というのも世の中には多いし、そういう作品でも大ヒットしたり傑作だったりする。映画の『トランスフォーマー』の筋書きは心底ひどいけど、アメリカでは大ヒットした。原作者の作家性はかなりそっち系だと思うし、そういう読みをされるのもしょうがないとは思う。


が、TVアニメ版『神無月の巫女』には、うまい筋書きの可能性がある。いいところを突いてる。ソウマのジレンマが作例Aをたどることに対して、なにかうまい照応関係が与えられそうな気がする。


このへんに素晴らしい解を与えて、世界設定と姫子・千歌音・ソウマ・乙羽のキャラだけ残して、90分の劇場版アニメにしてリメイクしたら、傑作になると思う。


乙羽が活躍しないのも欠点だな、TVアニメ版『神無月の巫女』。


ソウマがいなくて、姫子・千歌音・乙羽で輪廻三角関係する話だったら、それこそ今『百合姫』に連載されててもおかしくない。あふれるイカニモ感。


このイカニモ感に対してどう構えるか、というのが、あらゆるジャンル作品にとっての課題なのです。イカニモ感というのは、デュシャンのいうところの「趣味」だから。


「ジレンマが提示されて、片方が勝って片方が退けられる筋書きは、釈然としない」というのもやはり、デュシャンのいうところの「趣味」。古代ギリシャから現在に至るまで、ここ3000年くらいの西洋文明の流行りにすぎない。「趣味」を無反省になぞっても、大ヒット作は生まれるだろうけれど、傑作は生まれない。


そこで「趣味」を避ける(=ジャンルを避ける)というスタイルをやってしまったのがデュシャン。デュシャンが後半生、ほとんど作品を制作しなかったのも、そういうスタイルだから。作品は、モチーフや「趣味」を貪欲に取り込んで使うことで生まれる。


百合的なイカニモ感にとっての異物(=字余り)であるソウマに、イカニモ感のない釈然としない筋書きが与えられている、という照応関係。ここには必ず傑作の可能性がある。


……と、後日のコラムの内容を少し先取りしてみた。


この世には底抜けのアホがいる http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130124-00000002-rnijugo-sci しかも2000人。露出の実数は500万人くらい? 2500人に一人…… まあそんなもんか。


フィンリーの『オデュッセウスの世界』ってなんかおかしいと思ったわ http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/11271/1/16520438.pdf


「だれでも知っているように、ホメロスはトロイアの包囲攻撃を十年作戦に引き延ばしたが」 http://kaoriha.org/nikki/archives/000489.html 考古学って全体に微妙な世界ではあるけれど、トルコ(アナトリア半島)が絡むとひどくなる印象。


HRR 54なのに250Wを10分間も耐えられなかった。250Wあたりに壁がある。


10分251W。壁を感じる。


久々の一日2回パンク。トレッドに刺さった異物を発見できずにチューブ交換→パンク、のパターン。わかっちゃいるけれど、外でパンク箇所を見つけるのは難しすぎる。いっそタイヤも携行するかねえ。


「俺は一攫千金した」と自称する人がカッコ悪いのは、深刻な害悪だと思う。せっかく猛烈に分の悪い賭けに勝ったのにこれかよ! ってな姿を見せつけられたら、心ある人は誰も一攫千金なんかしようと思わなくなるよ。ジョブズは無理でも、ゲイツか孫くらいになれない? それも無理なら、北の三代目の今現在くらいでもいいよ?(このあいだ見たら前よりだいぶマシになってた)


Joule GPSのバッテリ管理が怪しい。満充電から10時間でLOW BATTERYが出た。継ぎ足し充電すると問題があるのかも。


C#にimmutable修飾詞を http://www.infoq.com/jp/news/2013/01/Immutable-CSharp 最初から入れといてよ!


「私には国際化は必要ありません。これは検索を非常に難しくします」 http://www.infoq.com/jp/news/2013/01/vs-2012-language-packs まさしく。


Open Proの評判は最悪 http://fairwheelbikes.com/cycling-blog/products/2013-rim-roundup.html そして確かにVelocity A23(O/Cだけど)って持った感触が柔らかいんだよねえ… 激安カーボンチューブラーリムのほうが硬い感じがする。乗ってどうかは知らないけど。


HRストラップが壊れた。心拍1回を2度カウントする。きゅう。


と思ったら翌日には直ってた。ぐぬぬ。


「Deda Alanera RHM 110mm, 40cm intergrated」 http://www.bikeradar.com/road/gear/article/pro-bike-rochelle-gilmores-colnago-c59--36281/ 40cmってWebカタログにはないねえ。誤植? integratedな38cmが現れるのはいつの日か。誰か大物スプリンターが38cmを使えば…


やはりHRの数字がおかしい。グラフにすると変な挙動が多々。


戦前の資生堂のPR誌を読んだら、この世におしゃれな街は銀座・パリ・上海しかないかのようだった。昭和に入っても日本髪(油でかちかちに固める奴)がけっこういたのは意外。銀座だから? 省線の車内だったらどうか。


髪型はひたすら断髪の話ばかり。洋装メインだからしょうがないか。当時の和装の意識はなにを見ればわかるのか。


やはりというか体格向上の話もあった。体格向上が和装・洋装のパワーバランスを変えた説を展開していた。


いや憲兵は敵兵力と戦わないから! 民間警備員も! http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20130130-567-OYT1T00062.html 拳銃でテクニカルと戦うのは映画の中だけ。軍があの規模の兵力を想定してなかった、というのがすべて。そりゃ想定せんわ。重武装の鉄砲玉40人が用意万端で奇襲しても耐えられる警備って、バグダッドのアメリカ大使館レベルだよ。


git pullのデフォルトをff-only、mergeのデフォルトをno-ffにしたいのにできない。mergeのデフォルトがpullにも効く&pullのデフォルトが指定できない。


pullするマシンではmergeせず、mergeするマシンではpullしないからまあいいか…


日本の体育会系スポーツって事実上の組織宗教なので、指導上の私刑を続けたい人は信教の自由を主張したらいいんじゃないかと思う。「指導上の私刑を禁止するのなら、ムスリムの赤ん坊の割礼はどうなるのか」とか、問題をいくらでも大きくできる。


芸術が組織宗教っぽくなるのはよくある話。茶道とか。


体育会系スポーツって、天才と運の比重が大きくて、工学的アプローチがあまり効かないものが多い。野球とか。


天才と運というノイズが大きすぎると、指導方法・環境の良し悪しがわからなくなる。そういうスポーツの指導方法・環境は、「道」と化し、組織宗教と化す。


運の比重が一番少ないスポーツってなんだろう。ラグビーとバスケあたりかねえ。高校ラグビーとバスケはいつも同じ高校ばかり勝ってるので、運の要素が少ないことがわかる。天才を集める組織力・ブランド力の影響が大きいかもしれないので、天才については不明。


とはいえ、「少しでも強いチームがほぼ常に勝つスポーツ」に人気が集まる市場って、おそらく世界中で北米だけ。サッカーが見向きもされない市場って北米しかない。野球の人気も下がってるし。なぜ北米だけが特別なのか。謎。

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2013年01月01日

あけましておめでとうございます

 グレゴリオ暦で新年を祝われる皆様、あけましておめでとうございます。
 本年も西在家香織派と中里一をよろしくお引き立てください。

次回作のご案内

鄙(ひな)の姫、宮処(みやこ)の巫女、余所者の嫁

 「お前は器量よしじゃきに、官人の嫁にしてつかぁす」。めったに会えない父は、まれに会うたびに娘にそう言った。家にいなかったのではない。訛りが伝染らないよう、遠ざけられていた。
 「戦が終わったら、こういうオートバイが道にあふれるのよ」。白衣(びゃくえ)と緋袴をまとい、奇妙な小さな自動二輪車を乗り回す彼女は、宮処からきた。
 「地付きの平公卿の姫が、王女(きみのめ)様に逆らえるもんかえ」。姫は、常に恐れ、怒り、悲しんでいたけれど、人を見下すことはけっしてない。
 近代ファンタジー小説『鄙の姫、宮処の巫女、余所者の嫁』は、2013年2月中の配信開始を予定しています。『紅茶ボタン』『完全人型』と同様、iOS / Androidアプリとしてご購入いただけます。

Posted by hajime at 15:53 | Comments (0)