どこの誰の言葉だったか、あいにく忘れてしまったのですが、百合作品における恋愛関係の魅力を、こう表現した文章を読んだことがあります――「融け合うような皮膚感覚」。ジェンダーという障壁のない世界でふたり融け合う、というイメージは、確かに百合の大きな魅力です。
この魅力を強く打ち出している作品として、慎結『バラ色の人魚』(『ROSE MEETS ROSE』所収)を挙げたいと思います。文字どおり皮膚の上に模様として二人の恋愛感情が現れる、という作品です。水泳というモチーフとあわせて、まさに「融け合うような」イメージが表現されています。作者はこの作品に限らず、「融け合うような皮膚感覚」をしばしば描いています。
少し話が飛びますが、『ROSE MEETS ROSE』の表紙をご覧ください。この二人は、収録作品の登場人物ではありません。前髪の長さ、瞳の色、制服、身長、おおよその髪型が同じです。まんがという表現形式においては、これは意図的なものです。
この連載の第2回で、『海の闇、月の影』の双子が、かつての幼児的原初的一体感を楽園体験として回想する、という話をしました。二人が懐かしむ一体感は、「融け合うような皮膚感覚」と同一線上にあるものです。『ROSE MEETS ROSE』の表紙は、こうした一体感を託したものだと考えていいでしょう。
さて、ここで少々考えてみてください。
慎結の作品のように、「融け合うような皮膚感覚」を現在進行形の出来事として描く作品が、どれだけあるか。
私には、ほとんど思いつけません。探し出すには蔵書をひっくり返す必要がある、と感じます。『バラ色の人魚』を読んで感じる「これぞ百合」な印象に比べると、驚くほど少ない、と感じます。
なぜなのか。第4回で姉妹について述べた、「理想そのものであるがゆえに、そこからはなんの動きも生じない」という問題が、ここにもあるからです。『海の闇、月の影』のように、この理想を楽園体験として回想するのでなければ描きようがない、というわけです。
ではなぜ慎結の作品ではそれができているのか。将棋の格言に、「手のないところに手を作るのが上手」というのがあります。どう見ても取っ掛かりのないものに取っ掛かりを見つけて引き寄せる、そんな技を使っているのです。
たとえば、『ROSE MEETS ROSE』94ページをご覧ください。「席 ちがうよ?」「誰もいないから いいじゃない」と選ぶ席が、相手の斜め後ろ。この距離感が、技です。光に溶けるような教室の描き方も、やはり技です。そして中段のやりとり。横にリズムを刻むコマ割りにご注目ください。
これらの技は無論、作者の発明ではないでしょう。どれも、別マ系の少女まんがを探せば、先行例がありそうです。が、技を見分けることと使うことのあいだの差は、観客と選手のあいだの差です。
この連載では今のところ、モチーフの話が多くなっています。百合のモチーフが少なすぎる、という危機感を私が抱いているからです。しかし技も作品の命です。ことに、距離感を描く技は、百合にとって肝要この上もないものです。
百合が描くべき距離感は、「融け合うような皮膚感覚」だけではありません。実作品の点数をみると、これがむしろ例外的なものであることは、すでに述べました。タカハシマコや袴田めらの作品に、それぞれ特異な距離感が見られることは、読者諸氏もご存知でしょう。
これらの距離感についてはまた別の機会に論じるとして、次回のテーマは「フェティシズム」です。なお(略)
固定ローラー台にホイールを固定して、ブレーキ面をばね秤で横に引っ張り、その際の変形量を測定してみた。
結論:
・Planet Xの激安20mmカーボンリムで組んだホイールの横剛性は約40N/mm
・Velocity A23 O/C 32Hは約70N/mm
・WH-6600 フロントは約55N/mm
比較対象:
・OpenPro 32Hは約70N/mm
感想:
・横剛性はヒルクラ時の「進む感じ」に直結している
・OpenProからVelocity A23 O/Cに組み替えたのは、あまり意味がなかった
・現在のトップグレードの完組の横剛性はOpenPro 32Hにやや劣ることが多い(比較対象)
・WH-6600 フロントでも、「OpenProのほうが進む感じがする」とはっきり感じる。激安20mmカーボンリムは言うに及ばず。60N/mm以下の横剛性のホイールは使いたくない。特にフロント。
以下、測定の詳細について。
まず難問がひとつ。
・明らかに固定ローラー台は十分に剛直ではない
これは実験前から予想されていたが、結果を見てもそのとおりだった。固定ローラー台の変形量を推定する必要がある。そのため、手持ちのホイールの測定値と、同じホイールを使った余所での測定値を突き合わせる。
突き合わせるのに使えるホイールは2種類・3つ。
・WH-6600 フロント
・OpenPro 32H スポーク2.0-1.8mm 前後
余所での測定値は2種類。
ソース1・Wheel Deflection Test
ソース2・Great Wheel Test 2008
ところが、上記のホイールとまったく同じものは測定されていない。かといって手がかりはゼロではない。まず、OpenPro 32H スポーク2.0mm フロントは測定されている。これは2.0-1.8mmとどれだけ違うか。A typical 32 spoke wheel built with 2.0mm spokes is about 11% stiffer than a similar wheel built with 2.0-1.45mm swaged spokes.との情報によれば、10%以下の差と推測できる。そこで約5%として計算してみた。
この値を採用すると、WH-6600フロントの横剛性が 55N/mm となる。ソース2のWH-R561などと比較してリーズナブルな値なので、まあよかろう、と考える。
権威ありげなお堅い雑誌で「思想」として取り上げられている主張のなかには、「言ってみただけ」という種類のものが多く含まれています。「まあ、そう言って言えなくはないか」というリアクション以外のものを最初から期待していない主張です。ただしこれは周囲の受け取り方の話で、言っている本人は大マジで体を張っていることもあるので、ご注意ください。
これからご紹介する「思想」も、そういう種類のものです。
「現在の社会のもとでは、すべての男女間の性行為は強姦であり、すべての結婚は売買春である」。理屈はこうです。
1. 男性全体が社会制度のありかたを自分に都合よく仕切っている
2. 性行為や結婚は制度的なものである
3. よって、性行為や結婚には、男性全体からの押し付けが多く含まれている
「まあ、そう言って言えなくはないか」くらいに受け取っておくのがいいでしょう。あそこが雑だ、ここも雑だ、と言い始めると、きりがありません。「自分はどう考えても『男性全体』の最下層カーストだ」と反論したい殿方も、ここは鷹揚にうなずいておくと、きっとカーストが上がります。
この主張の前提のひとつに注目してみましょう。「売買春は、性行為や結婚と同じく、制度的なものである」。
こう書いてみると、ずいぶんとわかりきった話のように聞こえます。百合が売買春というモチーフを扱いかねているのは、おそらくは、これが「わかりきった話」であるがゆえです。
売買春をモチーフにした百合作品は、少なくとも私の見聞のかぎりの印象では、BLに比べて少なく感じます。ヘテロよりは多い、とも感じますが。
最近の『百合姫』から探したところ、井村瑛『リバーサル』(2011年3月号、『最低女神』所収)と、ちさこ『欲望パレード』(2012年11月号)が見つかりました。後者は制度的な売買春には触れていません。前者も、本編ではかなり狭い範囲でしか、売買春の制度を使っていません。ただ、扉絵には、なにか由々しいものがあります。
読者諸氏も、ぜひ本棚から『百合姫』2011年3月号あるいは『最低女神』を取り出して、件の扉絵をもう一度ご覧ください。(広義の)売買春の現場でチラシなどに使う写真の様式を、真似て描かれたものだと思います。男性週刊誌用語で言うところの「過激」なところは一切ないこの絵が、なぜこうも由々しい印象を与えるのか。まずは、こういう見事なモチーフを見つけてきた作者に拍手を送ってから、この由々しさについて考えてみます。
子供に歴史を教えなければならない、というのは不幸な話です。近世の春画を見れば、歴史の面白さが一目でわかります。
現代の目で春画を見ると、なにがどう「エロい」のやら、まるで理解不能です。「エロい」とは、制度的なものであり、同じ制度のなかに生きていない人間には通用しません。研究によって、ある程度までは理解できるようになるでしょう。が、それではたして「エロい」と感じられるかどうか。私は否定的です。今はない制度のなかに生きていた人々を見つめることで、自分自身もやはり束の間の寿命しかない制度のなかに生きていることがわかる――これが歴史の面白さのひとつです。
件の扉絵も、おそらくは300年後には、その由々しさを失っているでしょう。おそらくは人工知能の歴史家が、好事家の読者に「この絵はこういう絵です」と解説することでしょう。
春画は制度の要請に従って描かれましたが、売買春の制度は、件の扉絵のような由々しさを要請するものではありません。作品という制度、まんがという制度、百合という制度が、ああいう由々しさを要請し、可能にしました。件の扉絵において売買春の制度は、作品を描かせるのではなく、作品のモチーフとして、使われているのです。
とはいえ、制度をモチーフとして使うのは、なにも珍しいことではありません。世の百合作品の1割くらいは、結婚という制度をモチーフにしているように思えます。それが売買春になると、なぜ由々しさが生じるのか。
……などと問いを立てておいてなんですが、その答えは「思想」に任せておきます。「このモチーフは難しいが、大きな可能性がある」と読者諸氏に感じていただければ、私としては十分です。
売買春の制度的な姿を見つめ(モチーフを使うにあたっては、まずは観察です)、その要請に従うのではなく、モチーフとして使うこと。
ヘテロの恋愛ものやBLでは届かない、「まさに百合」と言うべき可能性がここにはある、と私は感じています。
次回のテーマは「距離感」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』も(略)。
「年の差カップル」というとき、ここでは仮に、中学生以下と18歳以上ということにします。
皆様のお手元にある、志村貴子『青い花』(太田出版)1巻38、39、65ページをご覧ください。「でも どのみち 無理なんだもんね」(39ページ)、「ふみちゃん 私じゃ いや? こわい?」(65ページ)。
またこれも皆様のお手元にある、玄鉄絢『星川銀座四丁目』第3話をご覧ください(どうしたことか私は今、本棚から単行本を探し出せないので、『つぼみ』を見ています)。「…乙女がよくて 私がよくても この国の法律が 許さないの…」。
百合における年の差カップルはしばしば、こういう「不自由」をモチーフにします。
まんがを読む目でなく、ニュースを読む目で眺めれば、先に掲げた2つの人間関係は「性的虐待」という単語を呼び起こします。
作品というのは日常生活と違って便利なものなので、両者の合意の深さや十全さ、支配・強制がないことを描けます。しかし日常生活では、そんなことを確かめるすべはありません。他人同士の関係はもちろんのこと、たとえ自分自身が当事者であっても、怪しいものです。
この怪しさは、法律や、社会の同性愛への理解や、性的虐待に対する社会的許容度などよりも、はるかに根源的で動かしがたいものです。
作品の便利さを使って、こういう根源的なものを操作する作品には、いかがわしさがつきまとう――と表現すると語弊がありますが、少なくとも、読者はこうした操作に自覚的であるべきでしょう。
根源的で動かしがたいものを取り除いておきながら、社会通念ごときの不自由をモチーフとして残す――百合の年の差カップル一般に対して私が感じる違和感は、ここにあります。
もちろん、これは一個の一般論にすぎません。個別の作品を一個の一般論によって裁断することはできません。上で例として掲げた作品は、どちらも優れたものです。
それでも、百合はBLなどに比べて年の差カップルが少ない、と感じるのは、私の気のせいでしょうか。「BLなどに比べると、中高生同士以外のカップルに人気がないから」で済む問題でしょうか。
百合以外のジャンルに目を向ければ、前述の怪しさをモチーフとして用いる作品は多数あります。きづきあきら『モン・スール』(ぺんぎん書房)は、表現のありかたが百合に近い作品なので、わかりやすいでしょう(『エビスさんとホテイさん』と同じ作者です)。
が、百合ではこの手はあまりうまくない、と私は考えます。男が年上のヘテロカップルに比べて、性行為の侵襲性などの派手さを欠くからです。
百合は、年の差カップルについて、まだ十分な答えを出せていません。私自身もいずれ自分の作品でこの問題に取り組みたい、と考えています。
次回のテーマは、「売買春」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』も(略)。
2007年、アメリカでのことです。保守派の(=非常にゲイに優しくない)上院議員(男性)が、空港のトイレでおとり捜査中の警察官(もちろん男性)を性的に誘ったとして現行犯逮捕され有罪を認めた、という事件がありました。
事件そのものは、見てのとおりのものであり、私から言いたいことはなにもありません。私がここで問題にしたいのは、この事件に対してどんな態度を取るか、です。
「自分自身もゲイでありながら、政治家になるために保守派に媚びた」とその議員を批判するのは、よくある態度であり、立派な態度でさえありうるでしょう。が、作品を読む・書く態度ではありません。
もうひとつの例を見ましょう。
1980年代のHIVパニックが収まってから現在に至るまで、欧米におけるゲイの権利運動というと、同性婚がもっとも注目されています。外野から見ると、ゲイの権利運動イコール同性婚、とさえ見えるかもしれません。
欧米におけるゲイの権利運動は1990年に始まったわけではありません。70年代、60年代、50年代にもあり、当時の運動の担い手の多くは現在も生きています。そんな人々のひとりが、同性婚の争点化について、こんな感慨(大意)を述べていました――「どうしてゲイの権利運動は、恋愛結婚のヘテロカップルの真似事に熱中するようになってしまったんだろう。私たちの時代はこんな風ではなかった。恋愛結婚のヘテロカップルの真似事でない、ゲイらしい人間関係とライフスタイルを目指していたのに」。
以上の2つの話を並べられて、さて、読者諸氏はどんな態度を取りたくなったでしょうか。あくまでも、作品を読む・書く態度として、です。
私の模範解答――「もしかすると例の上院議員は自分なりに、『ゲイらしい人間関係とライフスタイル』を実践していたのかもしれない」。
これはどう見ても、立派な態度ではありません。「この非国民め!」と罵られても仕方なさそうです。が、作品を読む・書く態度とは、こうしたものであるべきだと私は考えます。
「セクシュアリティ」という言葉が使われる世界では、立派な態度が求められます。立派な態度とはたとえば、「恋愛結婚のヘテロカップルの真似事>>>>公衆トイレで行きずりの男を漁るゲイヘイトの政治家」というヒエラルキーを受け入れることです。
このヒエラルキーは、善悪でいえば圧倒的に正しいのです。しかし作品とは、善に奉仕するものではありません。
善に奉仕し、立派な態度を人に求める――そんな世界の概念を、そのまま作品を読む・書くときに持ち込めば、「窃盗犯が罰されないから『ルパン三世』はダメ」ということになります。
読むときであれば、まだ害は少なくてすみます。前記のダメ論を心の底から奉じながら『ルパン三世』を楽しく読む、という二重思考をする人は、おそらく、たくさんいます。しかし書くときにこの二重思考をするのは、ずいぶんな離れ業でしょう。
では、立派な態度が求められる世界の概念は、作品を読む・書くときにはすべてシャットアウトしなければならないのか? まさか。ダメなのは、そのまま持ち込むことです。持ち込むときには、ある魔法をかけてやらなければなりません。
多くの既成ジャンルでは、作者が自分でこの魔法をかける必要はありません。すでに先人がかけてくれているからです。しかし百合ではまだ当分、作者が魔法を使えるべきです。
その魔法とは、どんなものか。それは、今後の連載を通じて解き明かしてゆきたいと思います。
次回のテーマは「年の差」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。
タイヤはいままでずっとパナのデュロとミシュランのPRO2・PRO3だったので、たまには気分を変えてビットリアのルビノプロスリックにしてみた。3年もののPRO3よりは圧倒的にいいねえ…<当たり前