2005年02月28日

党のないソ連

 ベンジャミン・フルフォードの『ヤクザ・リセッション』を読んだ。
 「ヤクザ」と題には書いてあるが、これはロシア式の「マフィア」の概念とほぼ同義だ。著者は、政財官の癒着を非難して、日本の長期不況の原因であるとしている。
 そんなことはわかりきっているが、こうして改めて最初から説明されると、日本が「党のないソ連」だということがよくわかる。
 「ソ連=党」という見方がいま通説になっているが、最近の私は、この見方に懐疑的になっている。誇大妄想的な自然改造事業や軍事力への偏愛は、たしかに党の影響によるものだろう。が、ソ連を自壊させたのは、こうした偏愛だろうか。
 私のみるところ、「コネ経済」の流動性のなさが、ソ連崩壊のより大きな原因だ。ソ連の社会主義経済は、労働市場ばかりか、市場一般の機能を極限まで排除した(ソ連では「投機家」という言葉は罵り言葉だ)。そのうえで「合理的」に計画経済をやろうとしたわけだが、そんな「合理的」がコネと賄賂に勝てるわけがない。さらに、ソ連では、賄賂にたいした力がない。ルーブルではろくなものが買えないし、ドルも使える相手がいない(モスクワのような大都市ならともかく)。だからソ連では、コネに勝る利益供与はない。
 ソ連は、経済の隅々までコネに支配され、石像のように硬直し、干乾びていった。その硬直したソ連に最後の一撃を加えたのが、いわゆる貨幣の過剰流動性問題だというのは、歴史の皮肉だろうか。
 この「コネ経済」に党が取り込まれていたのは、それほど長い期間ではない。
 スターリンは、粛清という極端な手段で、自分の権力を弱めそうなもの一切を刈り取った。そのなかにはコネ経済も含まれている。フルシチョフは、自分の目の前でコネ経済が広がりつつあるのに気づかず、最後にはその逆鱗に触れて書記長の座を追われた。ブレジネフはもちろん、ソ連を最終的にコネ経済に売り渡した張本人である。ゴルバチョフがペレストロイカを掲げるまでの22年間が、党とコネ経済の蜜月期間だった。
 この22年間をとらえて、コネ経済を党の性質とみることは、果たして妥当か。コネ経済は党の外にもあり、ソ連の全経済を支配していたのだ。さらにいえば、ゴルバチョフは書記長になってから突然改心してペレストロイカを始めたのではない。書記長就任までの仕事ぶりからいっても、彼がコネ経済と一戦やらかしそうなことはわかっていた。ペレストロイカは、少なくともそれが開始されたときには、党上層部の総意にもとづいていたといえる。
 党のないソ連には、ゴルバチョフも現れることなく、崩壊もない――どうやらこれが歴史の結論のようだ。

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2005年02月24日

雑誌『百合姉妹』休刊の報に触れて

http://www.moonphase.jp/miyabi/
 耳の早い読者諸氏はとっくにお聞き及びのことと思うが、雑誌『百合姉妹』が休刊するとのことである。
 死者に鞭打つようだが、言わざるをえない。『百合姉妹』は生まれたばかりの雑誌のはずなのに、試行錯誤を重ねて変化してゆく能力の乏しい、老いた雑誌だった。
 たとえば、ページデザイナーを最後まで変えなかった。あのデザインが素晴らしいと思う読者など、この世に一人もいなかったと思うが、しがらみに縛られて変えることができなかったのだろう。「老いた」というのは、そういうことだ。
 もし迷走の末の休刊なら、無鉄砲な若者の死のように悼むこともできる。しかし、こんな老いた雑誌では、「やれやれ、老害が取り除かれた」という思いをまぬがれない。

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映画『Air』を名作にする方法

 昨日の日記には、映画『Air』が頭にくるとは書いてあるが、その理由を書いていなかった。
 自分でもよくわからなかったので考えてみたところ、「晴子がヘテロくさくないのが悪い」という結論に達した。
 もし晴子が、猛烈にヘテロくさい女で、観鈴の愛を決して受け入れそうにないと思えたなら、観鈴の悲劇は必然になったのだ。ところが晴子はさっぱりヘテロくさくないので、単に観鈴がひとりで空回りしているだけに見えてしまう。
 というわけで、あらすじは同じでも、晴子のキャラを変えるだけで、『Air』は名作になりうる。

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2005年02月23日

映画『Air』

 私はゲームの『Air』をやったことがない。長すぎるゲームはそれだけで無視していいと私は信じている。

 しかし、映画版は90分なので、それだけで試してみたくなる。というわけで試してみた。

 結論:短いこと以外に取り得がない

 たぶん、どう考えても、ゲームはこの映画よりはるかに面白いのだろう。が、事実はひとつ――私は映画は見たが、ゲームはやらない。

 さて、この映画をみるかぎり、『Air』というのは、以下のような話らしい:

 主人公は高校生・神尾観鈴。自分を育ててくれた女(晴子)を愛しているが、どういうわけかホモフォビアなので、自分の晴子への愛を認めることができない。「娘として好き」ということにするために親子ごっこをしたり、切迫した恋愛感情をごまかすために病気になったりする。また、「私はレズじゃない」ということにしようとして、男と心中した前世を妄想したり、あとくされのなさそうな男(国崎)をひっかけたりする。主人公は最後までホモフォビアのままで、「娘として好き」という態度のまま死んでしまう。

 もしこんな話だとしたら、『Air』をやらないで正解だった。 あまりのことにCD-ROMを叩き割っていただろう。

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2005年02月20日

SFから現実へ

 計算機科学の世界には、たくさんのSFめいた夢がある。
 いわゆる「第五世代コンピュータ」は20年前の研究だが、現在でもSFのままだ。第五世代コンピュータが実用化されない理由は数多くあるが、つまるところ、「C言語との相性が悪いから」というのが最大の理由だ。
 C言語とUNIXは、計算機科学の多くの分野を、応用科学からSFへと変えた。この悪影響がどれほど甚大かは、Linuxをみれば明白だ。
 しかし、C言語とUNIXの壁にもめげることなく、進歩を追求する人々がいる。そして進歩はあったのだ。たとえば、C++のように。
 というわけで、『C++の設計と進化』を読んだ。
 今日では、Javaに汚染されていない目でC++を見るのは、非常に難しい。それはなにもJavaの宣伝のせいだけではない。たとえば、今日に至るまでC++の標準には、実用的な文字列ライブラリが欠けている。これはC++の歴史上最大の弱点として、永久に尾を引くだろうと思える(もし同意できなければ、ぜひXerces-C++を使ってみていただきたい)。だがこの見方は、Javaが実用的な文字列ライブラリを備えているがゆえに生じるものだ。
 本書の初版は1994年に書かれた。Javaに汚染される前の目でC++を見ているという点で、本書はむしろ現在のほうが新鮮かもしれない。
 もし、本書のもっとも印象的な章をひとつ選ぶなら、第18章「Cのプリプロセッサ」である。これはもっとも重要な章ではないし、もっとも深みのある章でもない。だが私のみるところ、C++の運命をもっともよく暗示している章だ。「Cppが廃止される日をこの目で見たい」と著者は書いている。おそらく、人類が滅びるほうが先だろう。

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2005年02月13日

おにいちゃん

 NEETの兄は「おNEETゃん」。
 発案者:山本豪志氏

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2005年02月09日

存在が意識を規定する

 フィガロの設定やキャラは、「嫌がらせ」を念頭に置いて作られている。
 といっても、いたずら電話のような単純な嫌がらせではない。「嫌だ」と自覚することさえ難しいような、人間性の深いところにかかわる嫌がらせを目指している。
 たとえば、「在日米軍マフィア」という設定がそうだ。日本人を不愉快にするうえで、在日米軍はまたとないネタである。なぜなら、在日米軍は、根本的に解決不可能な問題だからだ。
 「根本的に解決不可能」というのは、問題を抱えている当の本人がその問題によって作り出されている、という意味だ。
 世界が平和でないことは大問題だし、人間が人間であるかぎり解決できそうにないが、これは解決困難でこそあれ、「根本的に解決不可能」ではない。もし世界が平和になれば、私は嬉しいが、それだけだ。ほとんどの日本人も同様だろう。
 もし在日米軍が日本から撤退すれば、嬉しいだけではすまない。日本人は、それまでの日本人ではない、別の存在になる。ほとんど一夜にして、それまでとは違う価値観や世界観が発生するだろう。存在が意識を規定する、というわけだ。
 自分の意識を規定しているような存在は、それが有害かどうかを考えることさえ難しい。「うちの子にかぎって」意識、とでも言おうか。
 日本人にとっての在日米軍は、まさに「うちの子にかぎって」意識を刺激するネタである。だから、「在日米軍マフィア」という概念は、日本人をほとんど例外なく不愉快にさせる。これこそ私の狙いだ。
 なぜ嫌がらせをするのか? 後日につづく。

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2005年02月07日

悲観につける薬

 悲観的な気分に陥ったときには、悲観的な話を読むといい。
 システムソフトウェア研究は見当違いのほうを向いている
 「ハードウェアは劇的に変わってきた」というのは納得できない。CPUは相変わらずノイマン型が一個だし、メモリのアドレッシングや転送の仕組みは変化していない。UIにしても、マウス・モニター・キーボードのままだ。1990年と今を比べて、本質的に新しいのは、GPUだけだ。
 とはいえ、全体として、この文章には説得力がある。
 だが私はどういうわけか、この文章を読むたびに、未来を信じることができる。
 いつの日か、おそらくIPv6が普及した頃には、Windowsドメインはドメインコントローラなしに構成できるようになるだろう。ドメイン上のすべてのマシンがファイルサーバになり、ドメイン全体で冗長性を保持するようになるだろう。RAIDのような間抜けな仕組み(HDDより先にRAIDコントローラが壊れたという話はよく聞く)は時代遅れになるだろう。
 言語は、マルチコアに対応して、実行順序の入れ替えや並列化をいっそう強力にサポートするようになるだろう。ブレークポイントのあるデバッガが普及したように、逆ステップ実行が普及するだろう。まったく新しい発想の言語(かつてHTMLがそうであったように)が登場するだろう。
 ただ、それには少し時間がかかるのだ。

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2005年02月06日

TVアニメ『GIRLSブラボー second season』第2話

 1990年代のエロまんがには、劇的なイノベーションがあった。ポルノの分野で、これに匹敵しうる規模のイノベーションは、おそらく世界的にみても、1980年代日本のアダルトビデオだけだ。
 1970年代のエロ劇画やポルノ映画には、表現としては見るべきものがあったが、ポルノとしてのイノベーションは乏しかった。これは単純に頭数の差を反映している。1970年代、エロ劇画家やポルノ映画監督の絶対数は、現代のエロまんが家やAV監督とは比較にならないほど少なかった。
 1990年代、劇的なイノベーションが進行するなかで、エロレズは停滞していた。今日では、旧態依然たるエロレズ作品は商業誌から姿を消し、ごく少数の突出した作品だけが誌面に現れることができる(へっぽこくんSOFTCHARMなど)。
 香織派は、エロレズの停滞を不可避とみて、百合を非ポルノと定義した。この判断は基本的には正しかった。しかし今日、エロレズは少ないながらも優れた才能を集めつつあるように見える。これらの人々は、エロレズに未来を見ることのできる先駆者であり、その後ろには多くの人々が続いている。これから10年以内に、エロレズに劇的なイノベーションが訪れる可能性は、かなり高い。
 さて、TVアニメ『GIRLSブラボー second season』第2話である。これは、残念ながら、イノベーションがあるとは言いがたい代物だった。
 古いエロレズの発想には、男女間の非対称性・異質性の裏返しとして、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるものが多い。双子レズなどはその典型だ。エロレズとしてのキャットファイトは、対称性・同質性という点で、古いエロレズの発想そのものである。
 (エロレズにおいて、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるのは間違っている。人類の遺伝子の多様性は、チンパンジーなどに比べてはるかに小さいのに、人種や民族のような差異で分断されており、人類の同質性を感じるのは難しい。これと同じ理屈で、女性しか出てこない世界では、女性の同質性を描くことはできない)
 対称性・同質性を求めるのをやめて、エロレズはなにを描くべきか。
 へっぽこくんやSOFTCHARMが見るべき試みを行っているので、まずはそちらを読んでいただきたい。私としては、以下のようなモチーフに未来を感じる。
・なりきりとコスプレ
 つまり、イメクラである。劇中劇になるのでやりにくい面もあるが、二次創作ならさほど難しくない。
・DID(Damsels in Distress)とストックホルム症候群
 「監禁されてハッピーエンド」――私の正義には反するが、おそらく十分に成立する発想だ。
 世界は進歩している。10年前と違って、いまならエロレズに賭けるのも、そう悪くないだろう。

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