母親とともにドライブインで男娼として働くトランスジェンダーの少年を描いた小説、『サラ』が出版されたのは2000年のこと。作者はJ.T.リロイと名乗る、10代の男娼とされていた。だが、実際にこの小説を書いたのはブルックリン出身、サンフランシスコ在住の子持ちの女性、ローラ・アルバート被告(41)。
BLを自伝と偽ってはいけません、というのは当然として、この問題の周辺をあれこれと考えてみる。なお私はローラ・アルバートの作品を読んでいない。あしからず。
笙野頼子『徹底抗戦! 文士の森』(河出書房新社)には、「自己省察こそ文学なり」という主張が強く押し出されている。作品を評価する際には作者の素性(年齢など)を気にかけ、それが作品の価値を大きく左右すると笙野は信じている。
もっともな主張とは思うが、なにか釈然としないところも残る。
東峰夫という作家がいる。『オキナワの少年』で芥川賞を受賞し、これは映画化までされたが、その後文壇から消えた。文学史的にみれば一発屋だ。私は東の作品を一文字も読んでおらず、文芸批評的な新聞記事をひとつ読んだことがあるだけだが、その新聞記事が印象的だった。その記事いわく、東は「賞を獲るなんて簡単だ、沖縄方言を書けばいい」と長らく信じていて、それを『オキナワの少年』で実行したら狙いどおり芥川賞、東は「やっぱりだ」と号泣したという。そして『オキナワの少年』のあと、東は二度と沖縄方言を書かず、そのため文芸誌から干されたという。もちろん東はウチナンチュ(沖縄人)だ。
『オキナワの少年』の正反対には、『リトル・トリー』がある。
『リトル・トリー』の作者フォレスト・カーターは人種差別活動家だった。白人至上主義テロ組織KKKの活動的メンバーであり、白人至上主義雑誌(The Southener)を編集・執筆していた。フォレストという筆名も、初期KKKの指導者ネイサン・フォレストから採ったものだという。そのカーターが、チェロキーの祖父母に育てられた経験(捏造)を騙ったのが『リトル・トリー』だ。素朴で、神秘的で、ファンタスティックで、癒しと安らぎを与えてくれる「高貴な野蛮人」を描いているという。なお私はこれも読んでいない。あしからず。
「自己省察こそ文学なり」という主張がどこか釈然としないのは、東やカーターのような作家が存在するからだ。文学という制度に支えられた「自己省察」には、辺境(チェロキー、ウチナンチュ)から中央(白人、ヤマトンチュ)に輸出して利ざやを稼ぐ行為が、不可避的に含まれている。こういう行為には、「商業主義」という言葉が完全にぴったりとあてはまる。東は商業主義を1回かぎりで拒絶し、そのため文学という制度から放り出された。カーターは偽物を売ったが、辺境のエキゾチックな産物を求める(そして期待にそぐわない産物は無視する)中央の消費者を棚に上げてカーターだけを非難するなら、それは商道徳でしかない。
とはいえ、「自己省察こそ文学なり」という主張には、説得力がある。
自己言及は、ただそれだけで、魅力的な記述を生み出すことができる。自己言及に神業をみせる純文学作家は数多く、笙野もそのひとりだ。文学の価値をどう測るにせよ、記述の魅力だけは外せない。
自己省察は、尽きせぬネタの源泉でもある。どんなに中身の乏しい人間でも、百冊の本を優に満たせるだろう。ただしその百冊を、文学という制度に乗せるには、記述に神業をみせるか、商業主義と消費者に従うかする必要がある。たいていの作家はその両方を併せ持つ。
自己省察は文学を生み出す。文学の主流、王道だ。しかし文学の必要条件だろうか。
自己言及を使うとパラドックスを作れる。「この文は偽である」のたぐいだ。矛盾した文には文学的な香りが漂う。「悠々として急げ」のたぐいだ。この二つを組み合わせれば、(いわゆる文学的に)書けないことなどないような気さえする。
では、自己言及できない自己は?
これは論理学上の遊びではない。BLを読んでいると、作品全体の出来にくらべて女性登場人物(特に端役)があまりにもひどい、というケースにときどき出くわす。ひどいというのは、
・一面的な理想化が著しい
・不条理なほど愚かだったり、精神疾患のような異様な印象を与えたりする
・登場人物としての機能から大きく逸脱した、あるいは矛盾した、過剰な記述を奢られている
要するに、批判的なフィルターを通さない生の状態で、作者が抱いている自己像・女性像の歪みを見せられているような気がする。
書くことは常に批判である。たとえ読むのが作者ただひとりであっても、批判として働く。自分の顔を鏡で見るようなものだ。ただし、顔は批判を受けてもそうそう変化しないが、自己像は変化する。自己言及は、批判に耐える自己、批判を経た自己しか書けない。
批判に耐える自己、批判を経た自己――まさに氷山の一角だ。文学の水面下には、膨大な質と量の、無批判な自己が沈んでいる。
だがもちろん、無批判な自己を垂れ流せばよいわけではない。BLの女性登場人物がひどい、という例は垂れ流しにすぎない。まともな作者なら、垂れ流しを中心に据えた作品など書かないし書けない。この例も、中心ではなく端役なので、時間に追われるなどしてうっかり垂れ流しをやってしまう、というだけだ。
無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること。
この作業はおそらく、自己省察と自己言及では行えない。
自分自身とはかけ離れた架空の人物の自己省察を模倣する――『この私、クラウディウス』『ハドリアヌス帝の回想』など正統な作例も豊富な手法でもある。ただしこれらは、ローマ時代という原作の二次創作であり、人物造形や記述は厳しく制約されている。そこに取っ付きやすさと妙味もあるが、「無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること」という目的にはあまり適さない。
カーターは原作としてチェロキーを選び、架空の人物(主人公とその祖父母)を好き勝手に造形した(『リトル・トリー』の内容はチェロキーの伝統をろくに反映していない)。それをさらに「自伝」と偽ったのだから悪質だ。だがこれは、「無批判な自己を、垂れ流しに堕さずに、文学の水面上に引き上げること」という目的には理想的な状況といえる。
人種差別活動家としてのカーターは、公民権運動に敗れた。それでも白人至上主義にしがみつく彼の自己像は、およそ批判に耐えられないものだっただろう。酒びたりだったとの証言もある。彼が主人公をチェロキーに設定したのも、「自伝」と偽ったのも、商売上の狙いもあっただろうが、深いところでは、自己省察と自己言及のもたらす批判を避けるためだったのではないか。
その結果が糞なら、そもそも私がこんな話を書くこともなかった。だがどうやら、カルト御用達と片付けるのはためらわれる程度の一般性は備えているらしい。
カーターの例は極端でわかりやすい。公民権運動に敗れた人種差別活動家が、批判に耐える自己像を持てないことなど、当然と思える。黒人を否定した報いというわけだ。
だが、そういったわかりやすい経歴のない平凡な女性が、批判に耐える自己像を持てない、と言ったら?
自分自身とはかけ離れた架空の人物の自己省察を模倣する――『サラ』、そして一部の文学的なBLにも、これはあてはまる。
今日の日本ではBLは、自伝と偽る必要もなく流通している。辺境から中央に輸出して利ざやを稼ぐ商業主義のいかがわしさもない。そこで流通する作品の多くは、火力主義の恋愛物で、自己省察とは縁がなさそうに見える。一部の文学的なBLはともかく、BLの主流は、批判に耐える自己像うんぬんとは無関係に見える。享楽で片付けられるように見える。
すべてが平和に見える――作品全体の出来にくらべて女性登場人物(特に端役)があまりにもひどい、というケースに出くわすまでは。
遠くを回りまわって、やはり「自己省察こそ文学なり」という主張は正しい、という結論に私は達しつつある。主人公を自分自身から遠ざけ、自伝と偽り、あるいはジャンルの壁を築き、ありとあらゆる手段で自己省察を避けてやっと可能になる、そんな自己省察もあるのだ。この遠くにある文学を、文学として読み、自己省察を見出すには、超人的な視力が必要だ。視力というより妄想力かもしれない。この一文全体が妄想力の発露でもある。なにしろ私は『サラ』も『オキナワの少年』も『リトル・トリー』も読まずに語っている。
自己省察を避けることで可能になる自己省察としての文学を、審美的に評価するならば、正面きっての文学よりも一段劣ると言わざるをえない。だがそれでも、それはこの世に欠かすべからざるものだと私は信じている。それは人間の強くも美しくもない面に寄り添っている。公民権運動に敗れた酒びたりの人種差別活動家を、人間として抱きしめる文学が、この地上には必要だ。
というわけで、「自己省察こそ文学なり」という主張は正しい。それは書くときの態度であるとともに、読むときの態度でもある。
しかし笙野が、作者の素性を作品評価に結びつけるときのやりかたは、少々単純すぎる。
もし『リトル・トリー』のテキストが、捏造としてではなく真正なものとして、つまりチェロキーと白人の混血である作者の手で体験の想起によって書かれていたなら、それはよくある記憶の捏造ということになり、思い出まで白人化・ニューエイジ化されてしまった作者の悲劇を証言したテキストということになる。もちろん自伝と偽るよりはマシだが、文学を読み取るべき作品といえるかどうか。
もし真正な作者が、チェロキーの伝統を正しく反映した作品を、ただし「素朴で、神秘的で、ファンタスティックで、癒しと安らぎを与えてくれる「高貴な野蛮人」」を書いたのだったら、今度は『オキナワの少年』の商業主義と同じ問題を抱える。
私は読者を無限に信頼している。その超人的な視力、妄想力を信頼している。作者の素性くらい、妄想力を駆使して、やすやすとデッチあげてくれるはずだと信じている。「この作品は自伝的だ」と妄想してくれると信じている。だから私が偽るまでもないはずだと。
ナイーブな信頼だろうか。そうかもしれない。だが大人になってみたところで、『サラ』や『リトル・トリー』を書けるような気はまったくしないのだ。
前回の続き。
少コミがつまらない理由の第一は、ファンタジーとしての恋愛を徹底できていないことだ。取りうる対策は以下の3通り。
1. ファンタジーとしての恋愛をやめ、誇張・風刺・メロドラマにする
2. BL中心にする
3. 馬鹿な読者をきっぱり無視して、ファンタジーを徹底する
1は、昔ながらの路線に立ち戻ることを意味する。たとえば『♂(あだむ)と♀(いぶ)の方程式』の主人公は、読者の誇張であり風刺だ。現在でも『僕の初恋をキミに捧ぐ』はメロドラマだ(出来は悪いが)。
2は私見ではもっとも現実的な選択だ。1や3は作品の内容を考える必要があるが、2ならその必要がない。
3は一番面白いものがでてくるはずだが、まったく現実的ではない。アンケート等に頼らない場合でも、少数の読み巧者は必要であり、今の少コミにはそれがない。
(参考:馬鹿な読者について)
この話題は次回に続く。
・しがの夷織『はなしてなんてあげないよ』新連載第1回
あらすじ:過保護の兄2人を持つ主人公。彼氏役は軽薄そうに近づいてきたが、障害(兄)にめげずに口説きつづける。
相変わらず彼氏役が同じパターンなのが辛い。彼氏役として許容される範囲があまりにも狭いのか、それとも作者にやる気がないのか。
採点:★★☆☆☆
・咲坂芽亜『姫系・ドール』 連載第5回
あらすじ:敵役(鉄汰)と彼氏役(蓮二)が衝突。
話は典型的なのに、展開が微妙にぎこちない。たとえば、店を紹介するところで切って、次回につなぐほうがよさそうだ。
採点:★★★☆☆
・市川ショウ『おうちへ帰ろう。』連載第2回
あらすじ:主人公と彼氏役がそれぞれ弟妹を連れて海辺でデート。彼氏役がいいところを見せるが、恋は進展せず。
魅力について。
「魅力がない」と言ったところで、何も言ったことにならない。私が技術的な問題ばかり書くのは、つまるところそのせいだ。技術的な問題なら、読者はその当否や問題設定について考えることができる。しかし「魅力がない」では、なんのきっかけにもならない。
だが時には、そう言わざるをえない場合もある。技術的には欠陥が見当たらず、減点法では高い点数が出るのに、「面白いか?」と聞かれれば否と言わざるをえない、そんな作品がある。これだ。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第21回
あらすじ:主人公(翠)をきっかけに、彼氏役(司)のサッカーがレベルアップ。
最後のページに「次号、衝撃の急展開」とある。たしか番外編が1本あるので、全23回で完結か?
何度同じようなことを書いたかわからないが、サッカーの腕のすごさを、美形演出やネームで表現されても困る。
採点:★★☆☆☆
・車谷晴子『極上男子と暮らしてます。』連載第11回、次回最終回
あらすじ:主人公の母親が帰宅し、娘(主人公)と共にイタリアに移住すると宣言。
無難に最終回ネタを振っている。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第23回
あらすじ:彼氏役(芯)を引き戻すべく、付属科から生徒会長(女)がやってきた。生徒会長は、付属科のパーティーの様子を主人公(彩華)に見せる。それは生徒会長の罠だったが、芯の活躍で窮地を逃れる。しかしそのとき、「恋愛禁止」の校則違反の証拠をつかまれていた。
ようやく連載回数が「23rd」に直った。
話の密度が高い。それでいて忙しいわけではなく、きっちりと噛み合っている。絵的にも見どころ(盛装)があって楽しい。堪能した。
採点:★★★★☆
・麻見雅『燃え萌えダーリン』連載第4回
あらすじ:主人公と彼氏役(使い魔)が結ばれる。
絡みだけで1回全部を費やすとは、話を引き伸ばしにかかっている人気連載のつもりか。
採点:☆☆☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第44回
あらすじ:逞が弓道部に入部して繭と青春する。
次回いよいよ昂が倒れるか。
採点:★★★☆☆
・白石ユキ『極秘彼氏にヤキモキ彼女』読み切り
あらすじ:彼氏役にほかの女が? と思ったら母親だった。
ごちゃごちゃしていて、話が頭に入らない。
採点:★☆☆☆☆
・蜜樹みこ『白雪王子に林檎姫』読み切り
あらすじ:幼い日の彼氏役の発言がトラウマになり、赤面するのを恐れて厚化粧をする主人公。彼氏役に告白されてトラウマが治って終わり。
私はトラウマ物が嫌いなので、反感を持って読んだ。トラウマ物の胡散臭さは、なにか倫理的に問題のあるものだ。
まずトラウマについて。
「一人の人間と世界との関係を修復不可能なまでに破壊し、永遠にunheimlichな場所に変えるような体験がある、ということをウィルソンは理解できない――或いはあえて理解しようとはしない(こちらの方が正確でしょう)」(佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)235ページ)。なおunheimlichとは「不気味」。
この破壊は、まったく物語的でない不条理な、まさにカフカ的なものだ。トラウマ物は、カフカ的な体験を暗黙のうちに排除したところに成り立っている。
トラウマを克服してめでたしめでたし、という話はなにも悪くない。難病の克服と同じことだ。ガンで死ぬ人が多いからといって、ガンから生還する話はなにも悪くない。しかし、「ガンは必ず克服できる」「トラウマは必ず克服できる」というのは、カルトの宣伝だ。
問題はここからだ――ガンが治ったかどうか(つまり死ぬかどうか)は客観的に検証できる。そしてカルトの宣伝は嘘だとバレる。だが、トラウマが治ったかどうか客観的には検証できず、カルトの宣伝が嘘だと証明されることもない。反証可能性がない、という奴だ。ここには重要な倫理的問題が横たわっている。
トラウマ物にありがちな問題は、もうひとつある。トラウマの克服が他人まかせだという点だ。
ガン生還話とトラウマ物を比較すれば、よくわかる。ガン治療の実際の過程は、大部分が医者まかせなのに、主役はあくまで患者だ。患者がガンを克服しようとする意志を中心に描く。しかしトラウマ物で、主人公がトラウマを克服しようとする意思を中心に描くものは、めったにお目にかかれない。克服しようとする意志さえろくに持たないまま他人に治してもらうのが、トラウマ物の定型だ。ここにも倫理的問題がある。
以前の連載のオチをみても、作者には、倫理的なセンスが欠けているように思える。
採点:★☆☆☆☆
・水波風南『狂想ヘヴン』最終回
あらすじ:遠距離恋愛の期間はたった2ヶ月だった。大きな大会で主人公(水結)が優勝して終わり。
普通に盛り上げて終わった。
採点:★★☆☆☆
・千葉コズエ『夜の学校へおいでよ!』最終回
あらすじ:学校ハウスを守って終わり。
「次回にちゃんと予告どおり取り壊したら、作者の3回連載のなかでは初めてまともな作品になるだろう」と前回書いたとき、もちろん私は予想していた――続編に未練のある作者(と編集者)は絶対に取り壊さないだろう、と。
学校ハウスは取り壊されないし、僕キミの逞も死なない、そういう結構(反語)な世界なのだ少コミは。
採点:★☆☆☆☆
第27回につづく
取調官を監視するために取調室に“防犯カメラ”が設置されたというのでは、あまりにも情けない
国家権力を監視しようとせず、ただ高潔であってほしいと期待するだけの、その水戸黄門根性こそが情けない。
反省は道徳の基盤だ。これは特に道徳自体について言える。道徳自体の道徳性について反省しない、いわば「無反省な道徳」は、カルトによくみられる現象だ。
というわけで、小学校の道徳教育にぴったりな題材がある。
教室にニセ科学
道徳の授業で嘘教えてはいけませんよね
この題材から引き出せる論点は、たとえば以下のとおり。
・願望と事実はどう区別されるか
・道徳教育で、明らかな嘘を教えることは正当化できるか
・「きれいな言葉を使いましょう」という命題はどういう内実を備えているか
・学校が道徳の授業を行うことは妥当か
小学校の教室にとってはきわめて身近な題材であり、しかもたっぷり1年分は学べるだけの内容が詰まっている。
もちろん現実には、小学校でこんな教育が行われることは金輪際ありえない。反省することを教えたら、子供は小生意気になり、いっそう管理しにくくなる。「反省しなさい」が「命令に服従しなさい」以外の意味になったら困るのだ。
あと小学校つながり。
前回の続き。なぜ少コミはつまらないのか。
第一に、ファンタジーとしての恋愛を徹底できていない。
ファンタジーは、自由に想像するための装置だ。ファンタジーにおいて読者は、読者自身に縛られることなく、自由に想像することができる。もし「強姦されてハッピーエンド」を、読者自身の身の上に起こることとして想像しようとすれば、ただひたすら気持ちが悪い。しかしBLなら、楽しく快いものとして想像することができる。BLなら、三次元には存在し得ないほど理想化された攻と、「強姦されてハッピーエンド」にふさわしく構築された主人公を想定することができる。BLにおいて読者は読者自身から自由だ。
現在、少コミの恋愛はファンタジーを基調とする。なのに少コミには自由がない。たとえば、『先手必勝の法則』とでもいうべきものがある。最初に主人公に触れた男が彼氏役で、後手を引いた男はすべて当て馬――これが先手必勝の法則だ。
もし自由に想像することができるのなら、先手を取った男に縛られない主人公を想像することもできる。しかし少コミにはそれがない。自由そのものを抜きにして、自由の果実――「強姦されてハッピーエンド」のような――だけを持ってこようとして、いびつで醜い構造を作り出している、それが今の少コミだ。
取りうる対策については次回。また、つまらない別の理由についても次回以降に続く。
・くまがい杏子『お姉ちゃん泥棒』読み切り
あらすじ:彼氏役(年下)のパシリをさせられる主人公。当て馬が登場して、彼氏役が主人公に告白。
主人公の妹が彼氏役の友人として登場していて、これでタイトルの「お姉ちゃん」とつながっているが、話のうえでは妹にはほとんど意味がない。
この作品に限らないが、恋愛の障害として「彼氏役の性格がダメ」を使う話は、
・主人公はDV夫と共依存夫婦になりました。めでたしめでたし
・彼氏役が立派になってしまったので、主人公は別のダメ男に乗り換えました
というようなオチにつけてほしい。「身分違い」を障害に使う話が駆け落ちで終わってもすっきりしないのと同じで、すっきりしない。
採点:★★☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第43回
あらすじ:病院のベッドで逞と繭が結ばれようとする寸前、逞の両親がやってきて未遂に終わる。死期の近いことを悟った逞は、迷わずに繭を愛することを決意する。
昂の心臓を逞に移植、というコースが見えているときに、こんな感動の押し売りをされても困る。
採点:★★☆☆☆
市川ショウ『おうちへ帰ろう。』新連載第1回
あらすじ:主人公は弟(幼稚園児)の面倒をみる高校生。いけ好かない風紀委員の彼氏役も実は妹(幼稚園児)の面倒をみており、それがきっかけで接近する。
素直だが奇想がない。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第20回
あらすじ:彼氏役(司)を敵視する玲二が、主人公(翠)の正体や司との関係を知る。
正体をバラしにかかった。連載を終わらせるつもりかもしれない。
採点:★☆☆☆☆
・千葉コズエ『夜の学校へおいでよ!』連載第2回、次回最終回
あらすじ:夜中の学校で逢引
設定の肝である学校ハウス(学校の敷地内に民家があり、そこに主人公が住んでいる)の取り壊しが予告された。前回、「この設定からどんな手を繰り出すのかと考えてみると、難しい気もする」と書いたが、なるほど、続編の含みを残さず3回連載で終わらせるなら手には困らない。
次回にちゃんと予告どおり取り壊したら、作者の3回連載のなかでは初めてまともな作品になるだろう。
採点:★★★☆☆
・咲坂芽亜『姫系・ドール』 連載第4回
あらすじ:彼氏役(蓮二)と気まずくなる主人公(歩)。敵役(鉄汰)がさらに揺さぶりをかける。
普通に盛り上げているが、やや単調か。このあたりは変化球が欲しい。
採点:★★★☆☆
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第16回、次回最終回
あらすじ:主人公(水結)は彼氏役(蒼似)と離れることを嫌がるが、蒼似の努力もあって、遠距離恋愛を決意する。
前回の時点では全18回と見込んでいたので、あと3回どうひねるつもりかと考えてしまったが、全17回でひねりなく終わるらしい。
採点:★★☆☆☆
・車谷晴子『極上男子と暮らしてます。』連載第10回
あらすじ:学園祭でホストクラブごっこ。
すべてが図式的で、しかもぎこちない。図式的であることのメリットは、物事が収まりよくすらすらと流れることだ(複雑微妙なものは収まりが悪い)。それができない作者の構成力はきわめて怪しい。
採点:★☆☆☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第22回
あらすじ:涼が主人公(彩華)を奪うための第一歩として、彼氏役(芯)に勝負を挑むが、敗れる。
前回に引き続き連載回数を「22th」と誤植している。
いわゆる青春物の味わいを出そうとしているが、毛色の違うものを混ぜてしまった感がある。彩華が理知的なので、勝負にすっきりと理屈が通ってしまっている。あまり理屈が通らないのもついてゆけないが、「なぜそこで勝負?」という部分も必要だ。その微妙な(あくまで微妙な)理不尽さに青春物の味わいがある。
採点:★★☆☆☆
・藤中千聖『二人あわせてプラマイゼロ』読み切り
あらすじ:マイナス思考の主人公が、彼氏役に励まされて積極的になろうとする。
盛り上げかたがうまくない。主人公の劇的な行動(要するに告白)が見せ場になるはずの話だが、「ここが見せ場だ」という画面構成ができていない。
採点:★★☆☆☆
・麻見雅『燃え萌えダーリン』連載第3回
あらすじ:主人公の許婚が登場。彼氏役(使い魔)に魔力を供給する必要をネタに主人公に迫るが、彼氏役が登場して退ける。しかし妖怪退治屋と使い魔の恋は禁じられている。
もし絵(特に服装)がまともなら、それなりに形になっている話のような気がする。
採点:★☆☆☆☆
・悠妃りゅう『バタフライ・キス』最終回
あらすじ:よくわからない。
なにか適当にいろいろ片付けて終わった。
採点:★★☆☆☆
第26回につづく