今風の恋愛は愛着とは相いれず、そのため正面切った恋愛物はフェティシズムを扱えない――と論を立ててみたのが前回までのあらすじですが、実は、「正面切った」という限定こそ、この論の核心です。
コメディという器は、今風の恋愛とフェティシズムを両立させます。
たとえば『Candy boy』。「かなちゃんの乳ー!」というセリフを可能にするのは、コメディという器です。『百合姫』『ひらり』等々の掲載作品のうちいったい何作が、このセリフを取り込めるでしょうか。アニメ版『ストロベリー・パニック』はかなりコメディ寄りの作品ですが、いささか厳しいと感じます。
賢明なる読者諸氏のなかにはきっと、アニメ版『とある科学の超電磁砲』の黒子のようなキャラを連想されたかたがおられるでしょう。本筋が百合とは無関係な作品に登場する、お笑い担当のレズキャラは、近年よく見かけるものです。こういう登場人物は、今風の恋愛ではなく、性癖(≒愛着)を演じるものと相場が決まっています。
どうやら今、百合における「好き」は、二種類に分割されているようです。ひとつは、百合というジャンルの作品における、今風の恋愛。もうひとつは、本筋が百合でない作品における、性癖やフェティシズム。
「好き」の分割線は、これだけではありません。
『カードキャプターさくら』で二番目に有名なセリフはおそらく、「きっとさくらちゃんのとは違う「好き」ですけど」でしょう(一番は「ぜったい大丈夫だよ」)。知世の映像マニアと衣装マニアはフェティシズムを匂わせるものなので、知世の「好き」は、お笑い担当のレズキャラのバリエーションとして理解すべきものでしょう。が、それとは違うらしいさくらの「好き」は、明らかに、今風の恋愛ではありません。さくらの「好き」を仮に、友情としておきましょう。
……と書いたところで、電波を受信しました。「知世をお笑い担当のレズキャラと一緒にするな!」とのこと。
友情の線の向こうに今風の恋愛を置く、という構造は、百合のテンプレと化しています。このテンプレの色眼鏡で見れば、知世も今風の恋愛をしているかのように見えます。しかし、テンプレの色眼鏡を優先させて、知世の映像マニアと衣装マニアを無視するのは、二次創作の設定としてならともかく、作品の読解としては到底いただけません。
問題は、フェティシズムをほぼ常に騒々しく毒々しく演じる、この世界のほうにあります。知世のように静かにフェティシズムを演じるのは、今のこの世界の流行りではありません。大道寺知世は、あれほどの人気と知名度にもかかわらず、類型として孤立した、特異な存在なのです。もっとも近い類型を求めるなら、お笑い担当のレズキャラになってしまうのです。
ここまで三種の「好き」を列挙しました。今風の恋愛。性癖・フェティシズム。友情。
もちろんこれで全部を網羅しているわけではなく、たとえば家族愛・姉妹愛という「好き」もあります。が、これは友情と同じ枠に入れてもいいでしょう。友情と家族愛・姉妹愛のあいだに線を引いて対置する作品を、私はまだ知りません。
百合というジャンルの作品が現在、この三種の「好き」をうまく使えているかというと、どうも私の目には、そうでないように映ります。
対立構造のパターンは、今風の恋愛 vs 友情に限られています。友情 vs 性癖・フェティシズムという構造は、百合メインの作品にはまず見かけません。今風の恋愛 vs 性癖・フェティシズムは、作例を思い出せません。
もちろん、対立させなければならないという決まりはありません。『Candy boy』は、この三種の「好き」をすべて、一組のカップルのあいだに取り込んで並立させた作品です。『Candy boy』の豊かで幸せな感触は、三種の並立がもたらすものです。が、この豊かで幸せな感触は、大道寺知世の静かなフェティシズムと同じく、現在のこの世界では特異な存在です。
……と書いてきて実は今、まとめに苦しんでおります。
百合の可能性はこんなにも広く、現在の流行はこんなにも狭い、ということで今回は締めて、次回のテーマは「一婦多妻」です。なお(略)
前回のおさらいです。
日本では戦後、「人間には無限の可能性がある」と信じられるようになった。それと同時に、人間はなにをするかわからない不気味な存在になった――このことは、私がどうこう言うよりも、手塚治虫の作品をご覧になるほうが早いかもしれません。無限の可能性と不気味さが、一枚のコインの裏表のように描かれている作品が多数あります。『どろろ』しかり、『火の鳥』しかり。
近世からおおよそ戦前まで、遊女や芸者は、彼女たちを買う側にとっては、エロゲーの攻略対象キャラのようなものでした。エロゲーのキャラが作品に縫いとめられているように、遊女や芸者は、その身分に縫いとめられていました。彼女たちには無限の可能性などなく、不気味さもない、と感じられていました。
不気味な存在としての人間を愛する、という行為は、とりあえず、可能だとしましょう。
不気味なものを愛する、というのは珍しい行為ではありません。たとえば、未来です。人間、生きていれば明日なにが起こるかわかりません。明日とは、馴染むことも飼いならすこともできない、なにが起こるかわからない不気味な存在です。それでも、ほとんどの人は、生きてその明日を迎えたいものだと思っています。
また、好奇心というのも、不気味なものを愛することに含まれるでしょう。天文学が進むにつれて、星々の世界はますます想像を絶する不気味なところになってきましたが、だからといって、星々の世界を愛する人がいなくなったようには見えません。それどころか、ブラックホールや超新星爆発やビッグバンの話は大いに喜ばれているように見えます。
不気味なものを愛することはできます。が、思い入れること、愛着を抱くことは、はたして、可能でしょうか。
現実の人間行動としては、順序は逆かもしれない、とも思います。
現実の人間は先にまず、なにかに愛着を抱く。すると、その対象の不気味さを認識できなくなる――これが実際に起こることの順序であって、不気味だからといって愛着を抱けないわけではないのかもしれません。
たとえば戦前の日本社会は、現在の目で見ると、相当に不気味な代物です。よく言われるとおり、現在の北朝鮮に近いものです。ところが、戦前の日本社会に愛着を抱き、しかも現在の北朝鮮には親しみを覚えるどころか不気味な怪物とみなす、という現象はよく見かけるところです。不気味さが愛着を阻むのではなく、愛着ゆえに不気味さが認識できなくなるのだとすると、うまく説明がつきます。
とはいえ話は、現実の人間行動ではなくフィクションの人間観のことなので、不気味さが愛着を阻むのだと、とりあえずは、しておきます。
人間を愛することはできても、思い入れること、愛着を抱くことはできない――そんな世界では、フェティシズムは必然的に発生するでしょう。もし愛着を抱かずに生きることがたやすいのなら、「煩悩」という言葉もなく、「断捨離」ブームもないはずです。
手塚が描いたフェティシズムは、こうした文脈のなかで理解すべきです。
そもそもの問題に戻りましょう。
正面切った「恋愛」とフェティシズムの相性が悪いのはなぜか。
「シリアスな恋愛物は、一種の聖杯探索物語」と第4回に書きました。聖杯はすべての問題を解決しなければなりません。推理小説の謎解きのようなものです。もし謎の一部が謎のまま終わったら、前衛的な作品として理解されるでしょう。不気味な存在としての恋人を抱きしめたとき、そこから取り残される問題は、あってはならないのです。フェティシズムはまさに、あってはならない問題です。
もちろん、推理小説が現実の事件とは異なるように、フィクションの登場人物は現実の人間とは異なります。だから問題は、それが美しいかどうか、です。
個々の作品は、美しくあることができるでしょう。しかしそれが、個々の作品を超えて、ジャンル全体の規範となったとき、「わかる」の世界が始まります。
第9回に掲げた、アン・ブーリンの肖像画をもう一度ご覧ください。これが「わかる」の世界です。なにが「わかる」べきなのかが共有されていれば、この絵が下手でも手抜きでもなんでもない、立派な絵に見えるのです。
現在の百合が直面すべき難題、それは、「わかる」の世界です。
……と書いてはみたものの、私の思うところがうまく伝わっているとは思いません。よくわからない、というかたが大半ではないでしょうか。
この問題にはこれからも、何度も立ち戻ることになるでしょう。このコラムは伊達に百回も続くわけではありません。
次回はいったんこの問題を離れて、テーマは「好き」です。なお(略)
フェティシズムと恋愛は食い合せが悪い――とは自明のようですが、さてこの自明感は、今風の恋愛を知らない人、たとえば2世紀前や2世紀後の人に通じるでしょうか。
私の知るかぎり、恋愛は物語と同じくらい普遍的で、文字よりもずっとありふれたものです。が、今風のものとなると、印刷技術よりも珍しい、と言っていいでしょう。
今風でない恋愛とは、どんなものか。
近世日本における売買春では、サービスのグレードが高いほど、擬似恋愛の装いが強まることになっていました。たとえば遊郭のトップグレードでは、初見の客には性交を提供しないことになっていました。現実には、金を積めばどうにでもなったようですが、そんな無粋な真似をするために最高級の粋なサービスを買うのは矛盾している、と考えられていたようです。またトップからミドルグレードでは、たとえ馴染みの客でも、性交の提供を保証しませんでした。これは事実上は「お前のほかにも客はいる、もっと金を出せ」という催促なわけですが、客商売ですので、そんな本音は言いません。「性交ではなく擬似恋愛を提供している」というのが建前です。
芸者も同じ枠組みで売買春を営んでいました。ろくすっぽ擬似恋愛を装わずに性交を提供する芸者は「不見転」とされ、グレードが低いとされていました。また芸者は、「我々は性交や擬似恋愛を提供するのではなく、本物の恋愛をする」と称していたようです。当時の芸者に向かって「それは建前でしょ?」と尋ねるのは、プロレスラーに「プロレスって八百長でしょ?」と尋ねるようなものだった、と言えばわかりやすいでしょうか。
こういう具合に、擬似恋愛という要素は、サービスのグレードを演出するうえで不可欠でした。
さて、あまりにも根本的な疑問ですが、ここで改めて確認しておきましょう。
擬似であれ恋愛を店で買うとは、どういう心性なのだろう、と。
店から金で買った擬似恋愛に、どういう価値があると感じていたのだろう、と。
売買春つながりということで、水子供養について。
水子が「祟る」ものになったのは戦後のことで、霊感商法だったようです。近世日本でも宗教者は新規市場開拓に余念がなかったので、近世日本の水子は祟らなかった、と断言できます。近世日本では、水子はひたすら無力なかわいそうな存在として見られていたようです。
ちなみに、近世日本がセックスワーカーを見る目も、「ひたすら無力なかわいそうな存在」でした。
明治から戦後にかけて、日本の人間観には、あるひとつの変化が生じました。その変化は、水子を「祟る」ものにすると同時に、恋愛を店で買うことを奇怪な行為にしました。
その変化とは、「人間とは、なにをするかわからない不気味な存在である」という認識の広がりです。
この認識を裏返せば、「人間には無限の可能性がある」となります。さらに裏返せば、「人間には内面がある」となります。
身分社会では、人間の可能性はその身分に厳密に記されています。人間の内面を問題にするのは、現在のマスコミが犯罪者の「心の闇」を語るのと同じようなもので、芸能、見世物、娯楽にすぎなかったでしょう。
戦後の開放感と経済成長のなかで、人間の可能性は無限と思えるようになった。その可能性の種として内面は、人間を人間たらしめる構成要素のひとつとして、確固たる地位を占めるようになった。そのため、内面を無視した恋愛は奇怪な行為になった。また、人間の無限の可能性を「祟る」ことに向ける水子が、人々の想像力のなかに現れた――これが私の考えです。
今風の恋愛とは、内面を備えた、無限の可能性のある、なにをするかわからない不気味な存在としての恋人を抱きしめることです。
さて、こういう今風の恋愛とフェティシズムがどんな関係にあるのか、という話ですが、次回に続きます。なお(略)
IE10を入れた。一番表示が変わったのはAmazon。なにかの間違いじゃないかってくらい文字が小さい。
昔、戦前戦後の少女雑誌を調べていたら、手塚治虫の少女クラブ版『リボンの騎士』第1回(1953年)に遭遇しました。
あのときの感触を無理やり言葉にすれば、「神を見た」となります。掲載誌の他のページとは、文明レベルが数段違います。いつか、掲載誌ごと復刻すべきでしょう。もっとも、国会図書館でスキャンされて公開されるほうが早いとは思いますが。
この隔絶ぶりを、別の絵で喩えるなら、
↑『リボンの騎士』のページ
↑『リボンの騎士』以外のページ
くらいの開きがあります。
手塚治虫の衝撃を言い尽くすのはもちろん不可能なので、ここでは焦点をひとつに絞ります。「フェティシズム」です。
「『リボンの騎士』以外のページ」として挙げた例の絵(アン・ブーリンの肖像画です)を、もう一度ご覧ください。真珠のついた髪飾りの形が不自然だとか、目の描き方が手抜きだとか、いろいろ文句をつけたくなることでしょう。が、ともあれ、アン・ブーリンがどんな顔をしていたかはわかるように描けている、とは思いませんか。
「わかる」――おそらくはそれこそが、この絵に求められていた機能だったのでしょう。顔の特徴を描くため、万人に共通の特徴的でない部分は描かれません。真珠のついた髪飾りの形が不自然なのは、それが栄華のしるしであり、視覚的事実を映すものではないからです。なお『モナ・リザ』は、そういう意味で「わかる」ことを求められずに描かれた絵だった、ということも、言い添えておきます。
絵画は、ほぼ常に、なんらかの意味で「わかる」ことを求められます。描かれた当時はどんなに「わかる」絵でも、なにが「わかる」べきなのかがわからなくなれば、「下手で手抜きな絵」になります。
1953年の『少女クラブ』に話を戻すと、『リボンの騎士』以外のページも、「わかる」という点では申し分のないものでした。そして、「わかる」だけでは、絵は十分ではありません。善悪と利害をわきまえた「立派な人」であるだけでは、人間は十分ではないのと同じように。
手塚治虫の絵が「わかる」以上のものになった原動力のひとつが、フェティシズムです。
ここでは仮にフェティシズムを、「性的主体から物理的に切り離された物体に性的に思い入れること」としておきましょう。手塚の造形や描線には性的な思い入れが感じられる、とはよく聞く話ですが、少女クラブ版『リボンの騎士』にはそれが特に顕著に感じられます。手塚にはフェティシズムを匂わせる作品が数多くありますが、手塚の絵自体が「性的主体から物理的に切り離された物体」であるように見えます。
さて百合とフェティシズムですが、今のところ相性がよくないように見えます。
近年の作としては、吉富昭仁『しまいずむ』が真っ先に思い浮かびます。『しまいずむ』の作風がかなり特異なものであることは論をまたないでしょう。玄鉄絢はしばしばフェティシズムをモチーフにしますが、これも私の目には奇異に映りますし、作品全体にそぐわない部分のように感じます。
漫画の神様を神様たらしめた原動力のひとつと相性が悪い、というのは嬉しい話ではありません。かといって、『しまいずむ』の作風が特異なものでなくなる日が来るとも思いません。
なぜ百合はフェティシズムを扱いかねているのか。
正面切った「恋愛」とフェティシズムの食い合わせが悪いからです。そしてここには、現在の百合が直面すべき難題があるように思います。
長くなったので次回に続きます。なお(略)
全人類に読ませたい。ジョージ・L・モッセ『英霊―創られた世界大戦の記憶』(柏書房)161~166ページ。
第一次大戦が終結して間もない時期、戦争体験の神話は闘争というものに、国民的・個人的再生の手段という新たな側面をもたらした。戦争の態度を平時に継続させることで、必然的に政治の野蛮化が促進された。人命に対する無関心が高じたのである。それは単に、ドイツのような確実に無慈悲さが蔓延した国民国家において、軍事的なものが目に付きやすく、高い地位に留まっていただけではない。政治の野蛮化とは、とりわけ戦争とその受容に由来する心性を意味する。戦間期に野蛮化の過程が進行した結果、人は活力を得て、政敵への対抗行動に駆られ、人間の残虐性や死に対する一般人の感覚は麻痺していった。
イギリスやフランスのような戦勝国では戦争から平和へと比較的容易に移行したため、野蛮化の過程を統御することは不完全ながらも十分に可能であった。そうした幸運に恵まれなかったドイツのような国々では、新たな無慈悲さが政治を侵略していく様が見られた。この過程は、政治的急進派が動員できた力に大いに左右される。つまり、どの程度まで彼らが政治的討議と政治行動を決定したかに左右される。戦後、野蛮化の過程を完全に回避できた国は一つもない。ヨーロッパの多くで、犯罪と政治的な攻撃性は、終戦後たちまち増加した。ヨーロッパ諸国の大半において第一次大戦はいまだ終結せず、戦間期を通じて継続しているかのようであった。政治闘争の語彙、政敵を殲滅せんとする意思、これら敵対者を描写するやり方。そうした全てが、今度は内なる仇敵を主目標に定めて、第一次大戦を継続させるかに思われた。
証明は容易ではないものの、大量死への無関心が進行したことは、こうした野蛮化の過程の前兆であった。例えば、一九〇三年のキエフで四九人のユダヤ人が殺害された時、事件は国際的な物議を醸した。ベルリン・パリ・ロンドンから公式の抗議が表明され、ほとんど全ての西洋諸国が追随した。しかし戦後、一九一九年に六万人のユダヤ人が殺害されたロシアの少数民族虐殺は、ユダヤ人社会を除けば、さしたる注目を集めなかった。確かに状況は異なっていた。一九一九年の時点では、ユダヤ人はボルシェヴィキと同一視され、当時ロシア侵略に乗り出していた連合軍は、密かに少数民族虐殺を支持していたと言われる。この場合、第一次大戦後の少数民族虐殺は、ボルシェヴィキ=ユダヤ人というステレオタイプに基づいた仮想敵に向け、新たな無慈悲さが発揮された代表例となる。後で述べるように、この無慈悲さが戦間期に、かつてなく苛烈さを増すのである。一九〇三年と一九一九年とで異なる態度こそが、確かな野蛮化の兆しと思われる。一〇〇万人近くが殺されたアルメニアの大虐殺は、まさに戦時中、内なる仇敵に向け、根絶ではなく追放を建て前として遂行された。この大虐殺もまた、アルメニア人以外には瞬く間に忘れ去られた。アドルフ・ヒトラーは、別の虐殺計画を練っていた一九三九年、いみじくも言い放ったと伝えられる。「で、誰がアルメニア人の絶滅なんぞ話題にしてるんだ?」。野蛮化がもたらす効果の典型として、政敵やいわゆる人種の敵の死に対する態度は注目に値する。大量死との対峙と個々人の命を軽視することの間には、明らかな関連が存在するのである。
政治の野蛮化過程を最も端的に理解できるのは、ドイツである。終戦後のドイツは革命と反革命を繰り返し、やがて樹立されたヴァイマル共和国の下、政治的に不安定な時代にあった。ここで考察できるのは、野蛮化の過程に関して特に重要な事例の一部にすぎない。ドイツにおける政治生活の大半に、この過程が浸透していたからである。終戦後も維持された戦時的な態度は、内戦と革命から影響されたばかりではない。政治言説そのものが生産される雰囲気からも影響を受けた。ヴァイマル共和国時代、良識ある政治言説はまだ可能であった。実際のところ、他者に譲歩して理解しようとする自発的な意思は、議会政治を機能させる必要条件であった。しかしながら、議会政治は絶え間なく、政治的討議の地勢を決しがちな急進派からの異議申し立てにさらされた。ここでの関心は政治的右翼にある。彼らは、おそらくヴァイマル期に最も有力な過激派集団で、戦争体験の神話を一番多く蓄えた存在であった。右翼において、政治の野蛮化は放逸をきわめた。ドイツ国家人民党(DNVP)のように議会でまともな態度を装った国民政党でさえ、プロパガンダを通じて、政治的・人種的な敵と見なす者に対する野蛮を推進させた。それは、品位を欠いた急進的な超国家主義者の民族的右翼がしたことと、全く同じであった。政治的右翼は自らを、ドイツのみならぬ全ヨーロッパ規模での戦争体験の継承者と見なした。野蛮化の過程は、大衆の間に右翼の影響力が広がる度合いと密接に関連していた。この影響力が第一次大戦後のドイツ政治の中心を成したことが判る。というのは、ヴァイマル期を通じて、彼らの設定した議題が、他の政治集団の全てに斟酌を迫る最優先事項であり続けたからである。
政治はいよいよ、敵の無条件降伏をもって終結すべき戦いと見なされた。確かに十九世紀にも幾分かの政治の野蛮化が、軍事的対立とは無関係に生じていたと指摘できよう。例えば、階級闘争の言葉遣いは、国民国家間の戦争と同じくらい人命を軽視していた。だが、第一次大戦を経験した後にこそ、ハンス・ディートリッヒ・ブラッハーの表現によれば、ドイツにおける争いの観念が暴力の観念へと広く変質してしまったのである。戦前から戦後にかけて生じた変化は、量的かつ質的な変化であった。過去の野蛮な側面の中でも最悪の部分が、幾つも増幅されて表れた。野蛮化の過程は、ヴァイマル共和国の最初と最後という不穏な段階に支配的となり、かつてない規模で、敵の見分け方と政治言説とを決定した。戦争はすでに多くの人にとって生活の一部と化していた。そしてそのことが確かに、戦後政治の趨勢に対して不利に作用したはずであった。
戦争そのものが、大いに野蛮化を促進する要因であった。前線での戦闘経験ばかりではない。将校間や兵卒同士での、戦時下の人間関係も作用していた。将校の横柄な口調、兵卒の無抵抗、そして分隊内でのお座なりな生活は、一部の兵士に影響したに違いない。文明化の過程なるものの一部は、そうした圧力の下で解体された。戦争における滅私は崇高だ、戦争は最高の理想表現である、それらが人間の潜在能力を満たしてくれる云々、そう主張した張本人の多くが、戦争の野蛮さを自らのヴィジョンに統合したことは特徴的であった。例えば、エルンスト・ユンガーは、戦争が作った新しい人種について書いた。彼らは生命力に溢れた、鋼鉄の人間で、戦いへの準備は万端、戦士が体現する男らしさの理想を備える。そうした理想は、戦間期に建立された戦争記念碑の数々にも漲っていた。高次の理想を戦争の野蛮さへと統合する発想は、ドイツに限らない。フランスのアンリ・マティスはまさに戦時中、殺戮の神秘的解釈と純然たる喜びについて書いている。
ドイツでは、戦時中の野蛮化が、当時の文明の限界を超える体験への憧れを伴った。つまり、原始的な本能だけが支配する領域への進出を意味すると見なされたのである。敵の塹壕への突撃をエロティックなまでの言葉で描写したエルンスト・ユンガーによれば、戦争はそうした願望を満たすと思われた。「憤怒が苦い涙を絞った……ただ原始の本能だけに身を委ねていた」。おそらく回顧的に書かれたこの文章は、戦争体験の神話がいかに男たちの夢を満足させたか、再び明らかにしている。たとえ現実は全く異なり、この場合もまず間違いなく恐怖と不吉な予感に満ちていたとしても。ドイツの人気作家ヘルマン・レンスは、五十歳近い年齢で志願して兵籍に入り、文化や文明は自然の躍動を覆う薄っぺらな化粧張りのようなもので、裂けて突破されるのを待っている、と書いた。人間の本性は、原始的で本能に支配される暴力的なものとなった。戦いという興奮状態におかれて原始性へと回帰することは、ドイツに限った現象ではない。イギリスのフレデリック・マニングも、塹壕を越えて攻撃に転ずる兵士たちが「人の発達段階の原始段階へと立ち戻る」様子を記した(ただし彼の文章は、「真正さ」として原始的なものに憧れたのではなく、何が起きていると思えたか描写したにすぎない)。戦前、ドイツ・ナショナリズムのある潮流では、原始的で本能的なものが唯一の真正な力として特に崇拝された。だが、戦時中から特に戦後にかけて、そうした理想は、自分の男らしさを試したがる多くの者の想像力を捉えた。「人工的」な文明を放棄したがるこの強い衝動は、敵との対決を熾烈なものにした。
精神科医オットー・ビンスヴァンガーは戦争の最初の年、戦争の進行につれて愛国感情が歪曲されていった、と書いた。犠牲的行為の熱狂と自発的意思は、敵の根絶という残酷な憎しみと願望に道を譲ったのである。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、二〇年後の視点から戦争の帰結を評価して、従軍した義勇兵は犠牲の理想に身を委ねたが、命を軽んずる結果に終わった、と捉えた。戦時中に死と真っ向から対峙したことは、必然的に多くの兵士の死生観を変化させた。常にそこにある死にうまく対処するため、時として死は平凡化され、冗談にすらされた。さもなければ、死は戦争という虚構に組み込まれた。エリック・リードが最近『無人地帯』で分析したように、それは塹壕内にいる誰かの生の延長上に想像された。前線では、死を神聖化する余地はほとんどなかったのである。それは戦後まで待つか、銃後に残った者へと委ねるべきものであった。戦死者の祭祀は、塹壕で始まったのではない。ほとんどの兵士の間では、やがてある種の禁欲主義が蔓延して、死に対して無頓着になり、不可避なものも次第に受容されたらしい。むろん、そうした無頓着さが戦後世界にどう表れたのか、今となっては判らない。それがいかなる役割を果たして、戦後政治の野蛮な風潮を受け容れさせ、ひいてはナチ政権に黙従させたのかも判然としない。人が他者や自分自身の運命にさえ無頓着になるには、多くの理由がある。だが、戦時中に行われた無関心の訓練は、確かに一つの理由と見なすべきであった。
戦中に見られた、友の死と仇敵の死への態度の違いは理解しやすく、同じような野蛮化効果をもたらした。そうした違いは、フランス革命という人民主権の理想に基づく時期、敵に対して大衆を動員する手段となった。斃した敵への憎悪は、その死を手荒に扱うことで増幅された。一方、自国のために命を捧げた者に死には崇敬の念が払われた。こうした態度の違いははっきりと読み取れる。フランス革命における死の祭祀や殉教者の葬儀には祝祭とともに執り行われる一方、敵の埋葬には最大限の嫌悪が表現された。ルイ十六世や恐怖政治の犠牲者はそこらの溝に投げ込まれ、通常は身元不明の貧民に使う生石灰を注がれた。十九世紀から二十世紀にかけての近代文学は、理想的なブルジョワの「逝去」とよそ者の汚らわしい頓死とを区別して、死にまつわる見方の違いを補強した。ゲーテのような良きブルジョワは(あるゲーテの伝記作家によれば)「生まれたのと同じ正午前に世を去った」が、グスタフ・フライタークが書いたユダヤ人のファイテル・イツィークは汚れた川で溺死した。しかしながら、友と仇敵の死の区別は、革命後の時代には散発的にしか継承されなかった。概ね、時の権力者が大衆の憎悪を動員しようとする場合に限られたのである。第一次大戦とその戦後期に至って、敵の死は全般的に人間の尊厳を奪われる傾向にあった。既に見たように、敵とは竜に殺される蛇であり、軍勢もろとも剥き出しの死の表象が待ちかまえる地獄へと堕ちゆく存在であった。戦争墓地や戦争モニュメントは戦友の死を超越し、たいていは敵の死を最終目標とした。
ついに、敵の死と友の死を分離する傾向は、埋葬場所をめぐって精力的に推進された。一八七〇~七一年の普仏戦争の前後には、時としてドイツ軍とフランス軍の兵士は共同の墓地に葬られていた。だが、第一次大戦以降、もはやそうした事態は起こらなかった。ヴェルダンの戦場に散逸した遺骨を納めるためドゥオモンに建立された霊廟は、砦の上に三色旗だけが掲げられたため、ドイツからの糾弾を受けた。戦争の結果として死を扱う態度が変化したことは、ドイツで政治的右翼の術中に陥った。相当数の人々が、自分に累が及ばぬ限り、己が未来を防衛すべく、内外の敵に対する無慈悲な戦争を支持する覚悟であった。
こうした一切に対して、いったい人間にはなにができただろうか。泣ける。