以前、「日本ユニセフ協会のタコ踊りはおそらく問題ではない。彼らはしょせん現実の政治経済から遊離した存在にすぎない」と予想した。
幸い的中したが、的中したこと自体には意味はない。間違った筋道で予想しても、まぐれで当たることはある。重要なのは、結果が出たことにより後知恵という道具が使えるようになったことだ。私の予想の筋道を、後知恵という道具で批判してみていただきたい。「なにをわかりきったことを」という程度のものだろう。
私は人より優れた判断力を備えているわけではない。問題なのはむしろ、「どうして人は判断力をなくすのか」のほうだ。
判断力をなくす――いわゆる「祭り」だ。
人間性請願
一応リンクしたが一瞥の値打ちもない。理性のある人間なら、ナントカ水(マイナスイオン水、深層水、酸素水、等々)と同レベルのありきたりなトンデモに1秒でも費やしたりしないだろう。
「祭り」という名のもとに、多くの人々の注意力が、ナントカ水レベルのトンデモ屋の宣伝に向けられている。
ナントカ水レベルのトンデモ屋は、スパムメールと同様、この世でもっとも愚かな1%の人々を集めてぼったくる商売だ。スパムメールと同様、悪名は商売のマイナスにはならない。悪名だろうと人に知られれば、愚かな1%の人々はひっかかってくるし、商売はますます繁盛する。そしてこの世に愚かな1%の人々がいるかぎり、トンデモ屋という商売はなくならない。だからトンデモ屋対策として必要なのは、個々のトンデモ屋やトンデモ説をいちいち叩くことではない。自分自身や、自分の利害関係者(この場合は政治家)の判断力を保ち高めることだ。
判断力をなくしていなければ、こんなことは簡単にわかる。なのにすべてが「祭り」という名のもとに正当化され、儲かるのはトンデモ屋ばかりだ。
祭り要員がトンデモ屋の商売の片棒をかつぐ一方で、仕事人が仕事をしている。
iPodなど「録音録画が主用途」の機器を補償金制度の対象に、文化庁が試案
仕事人というのはもちろん官僚やJASRACのような、既得権益にあずかっている連中のことだ。
審議会とは
祭り要員と仕事人ばかりの社会は、既得権益を歯止めなく増大させてゆくことしかできず、停滞と崩壊に至る。戦前の日本が満州事変から真珠湾へと流れ着いたのも、大陸の既得権益を手放すどころか、歯止めなく増大させてゆくことしかできなかったためだ。
バブル時代からこのかた、粘着は流行らなくなった。だが終戦からバブルまでの日本と、バブルから現在までの日本を、見比べてほしい。
粘着を取り戻そう。仕事人の足を引っ張ろう。この世界を、既得権益の外へと運び出そう。
『うわさの翠くん!!』は第14号で、僕キミは第15号で連載が終わる。少コミの大黒柱の僕キミと、ゲーム化でプッシュされていた『うわさの翠くん!!』がほぼ同時に完結するというのは、偶然だろうか。
さて、2008年第12号のレビュー。
・千葉コズエ『君と恋におちる魔法で』新連載第1回
あらすじ:主人公(みこ)は、憧れのパン屋で働くために店におしかける。首尾よく雇ってもらえるが、店をあずかっているのは同い年(16歳)の彼氏役(奈津)だった。
作者は名前の開示にこだわりがあるらしく、今回も彼氏役の名前を最後までひっぱっていた。こういう企みがどれくらい少コミ読者に効くかは疑問だが、私的には面白い。
アパートを借りたり人を雇ったりがルーズに進むのはかまわないし、14時間も続けられるような労働は肉体労働とは言わない、という点はおくとしても、14時間労働を正当化するような彼氏役の発言は疑問だ。社会の仕組みがルーズなのと、彼氏役の視野が狭いのとでは、事の意味がまるで違う。
学校以外の舞台を設定する試みは、吉と出るか凶と出るか。
採点:★★★☆☆
・真村ミオ『僕らの世界で。』新連載第1回
あらすじ:主人公(こころ)は好きなバンドのライブで彼氏役(波瑠)と知り合う。あるとき、好きなバンドの好きなメンバー(当て馬、櫂)と遭遇し、喜ぶこころを見て波瑠が嫉妬する。
画面の流れがスムーズで、アイディアもよく練れている。
採点:★★★★☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第64回、最終回まであと3回
あらすじ:逞のプロポーズに、繭の母親は反対するが、父親(逞の主治医)は「君を死なせない」と言って賛成する。病院で結婚式ごっこ。
……なんだこりゃ。
第62回で繭の父親が、「人体実験の域を出ない」「職人が保証したボートに乗りたくはないか?」と暗に移植をうながしていたのは一体なんだったのか。
予想をする気が失せるが一応まだしてみる。残り3回では、移植転向の修羅場をやるには短すぎてもったいないので、もう移植はなさそうだ。照のネタをやり、手術前のわずかな幸せな時間をやり、手術室へ向かうところで完、というくらいか。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第42回、最終回まであと2回
あらすじ:当て馬(カズマ)はリハビリのため遠くの病院に転院する。主人公(翠)はスランプに陥るが、彼氏役(司)は翠を「オレが唯一認めたライバル」と言う。翠はカズマに会いにゆき、「カズマが好きだよ」と告げる。
もしハッピーエンド縛りがなければこれは司に死亡フラグだが(ろくでなしが突然立派で孤独になったら死ぬと相場が決まっている)、少コミ長期連載はハッピーエンド縛りなので、別の手でゆくのだろう。
採点:★★☆☆☆
・水波風南『今日、恋をはじめます』連載第17回
あらすじ:主人公(つばき)と彼氏役(京汰)が遊園地にデートに行くが、のっけからトラブル連発の予感。
しばらくはいちゃいちゃ展開が続きそうだ。その先は京汰のトラウマ話か、あるいは新ネタ投入か。
採点:★★★☆☆
・藍川さき『委員長の秘メゴト』連載第3回
あらすじ:主人公(彩乃)が彼氏役(悠人)の家業(暴力団のシマの管理)に巻き込まれ、ただならぬ格好で帰宅する。それを見て彩乃の母親は怒り、彩乃は悠人に泣きつく。
『ワイルド7』はデタラメここに極まれり、というまんがだが、「暴力団は自警団の成れの果て」「治安維持すなわち権力」という点は外していなかった。しかしこの作品は外している。
社会の仕組みをルーズにデフォルメすることと、こういう点を外すことのあいだには、なにか根本的な違いがあるような気がする。が、どう違うのかはうまく説明できない。
採点:★★☆☆☆
・水瀬藍『だから、俺にしなよ』連載第7回
あらすじ:主人公(陽菜)は彼氏役(奏多)を好きになろうとするが、当て馬(秀悟)に惹かれている。
ピンチ連発まんが。
採点:★★☆☆☆
・くまがい杏子『放課後オレンジ』連載第19回
あらすじ:過去話。彼氏役(翼)がハイジャンを志したのは、当て馬(滉士)を見て憧れたからだった。
そろそろ終わりそうな気配。
1ページ目左下のコマの効果のつけかたがおかしい。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『箱庭エンジェル』連載第11回
あらすじ:主人公(羽里)が彼氏役(桃)を夢に向かって進むよう励ます。
登場人物が行動しない。
採点:★★☆☆☆
・白石ユキ『忍びでないと!』読み切り
あらすじ:わからない。
なにがなんだか、さっぱりわからない。
採点:☆☆☆☆☆
・徳永さつき『恋風Week』読み切り
あらすじ:わからない。
なにがなんだか、さっぱりわからない。
採点:☆☆☆☆☆
・蜜樹みこ『蒼いキセキ』最終回
あらすじ:「私の恋はまだまだこれからだ!」で完。
これほど見事な打ち切りを目撃したのは久しぶりだ。
採点:★★★☆☆
第48回につづく
第2回小学館ライトノベル大賞授賞式に出席し、佳作の賞状と記念品をいただいてきました。ちなみに記念品は皮製の箱でした。なぜ箱なのか、なんの箱なのかは説明がないのでわかりませんが、なにやら文房具のような気配です。
ガガガ部門にご注目の皆様は、ガガガ賞の『僕がなめたいのは、君っ!』の桜こう先生の性別等が気になっていらっしゃるところでしょうが、性別ふたなりの美少女であられました(嘘)。
「あなたの本は日本じゃ全然売れてないんですが、御自分ではどうお考えですか」
ハハハハハハハ
ラノベもエロゲーも99.5%は全然売れてませんから! 残念!
2008年3月発売の電撃文庫において、渡瀬草一郎が『輪環の魔導師』2巻でブレイクした。
また、2008年5月発売のファミ通文庫において、野村美月が“文学少女”シリーズでブレイクした。
ブレイクは通常、シリーズ1作目か2作目で起こる。渡瀬草一郎のブレイクはこのパターンである。巻が進んでからのブレイクは、TVアニメ化などの「正のアーティファクト」と関連して起こるケースが多い。野村美月のブレイクは、正のアーティファクトでみられるパターンであり、『このライトノベルがすごい! 2008』の影響が疑われる。
もしライトノベルの売れ行きに、商業批評が小さからぬ影響を与えるとすれば、ライトノベルの文壇化が生じる可能性が高い。
正のアーティファクトについて。
TVアニメ化はライトノベルの売れ行きを押し上げる場合がある。作品外で不公平に生じる、プロモーション効果のある出来事などを、仮に「正のアーティファクト」と呼ぶ。逆に、売れ行きを悪くする出来事などを「負のアーティファクト」と呼ぶ。
ライトノベルの良いイラストは、正のアーティファクトではないかと取り沙汰されることが多い。しかし私の観察では、反例の数々を覆すような有力なデータを見つけることができない。逆に、悪いイラストが負のアーティファクトではないかと疑われる例は発見した。
もし悪いイラストが負のアーティファクトとして働くのなら、
・人気シリーズ全体のイラストの水準は、ライトノベル全体の水準より良い
・人気シリーズのイラストは、良いものではない場合は多いが、悪いものである場合はほとんどない
という状態が生じる。「イラスト=正のアーティファクト」説に一定の説得力があるのは、この状態を読み違えるためと思われる。
懸賞ハガキの当選者発表には、面白い名前が多くて楽しい。この号では「紗璃」と「こすも」が面白い。
「〈子〉のつく名前の女の子は頭がいい」という話がある。子のつく名前は年とともに減っているので、読者の年齢層が違うと比較は難しいが、より低年齢層の雑誌の当選者発表と比較すると、なにかわかるかもしれない。
……と思って、子のつく名前を数えてみた。304人中28人。1994年生まれ全体の子のつく名前の割合は5%(つまり女子の10%)というから、かなり無作為抽出に近い。有意な結果を得るのは難しそうだ。
では2008年第11号のレビューにいこう。
・水波風南『今日、恋をはじめます』連載第16回
あらすじ:彼氏役(京汰)が女遊びをやめて、主人公(つばき)といちゃつく。
平たく進んだ。
採点:★★☆☆☆
・藍川さき『委員長の秘メゴト』連載第2回
あらすじ:彼氏役(悠人)と主人公(彩乃)はライバル役の妨害工作を切り抜ける。彩乃の母親が、悠人の親の素性(暴力団)を知って問題にする。
彼氏役の魅力があまり出ていない。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『箱庭エンジェル』連載第10回
あらすじ:彼氏役(桃)が主人公(羽里)を抱くと宣言。
話に進展がない。
採点:★★☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第41回
あらすじ:彼氏役(司)が主人公(翠)に、「オマエが愛しているのはカズマ(当て馬)だ」と主張して別れを告げる。
展開が無茶で楽しい。おそらく、とんでもないオチがつくだろう。
採点:★★★☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第63回
あらすじ:逞に、ほとんど前例のない術式の手術を受けるチャンスが巡ってくる。昂の心臓はまだ動いている。手術前に逞は繭の両親に、「手術前に繭と結婚させてください」と願い出る。
見えた! 見えたよアニキ!
「全力で生き延びようとしない奴に娘はやれん」
→絶望して1巻冒頭のシーン
→照のネタを放り込む
→逞は改心して移植手術を決意、昂の遺族を説得
→繭と結婚
→手術直前で完。心臓移植の予後(あまり芳しくない)をモノローグで説明するとなおよし。
カンペキダ!
照のネタが具体的になんなのかまでは読めないが、おそらく作品全体がこの一発のために構築されているので、作者はかなり自信があるだろう。
採点:★★★☆☆
・蜜樹みこ『蒼いキセキ』連載第4回
あらすじ:彼氏役(藍)が主人公(アゲハ)の部活(水泳部)をサポートし、アゲハはみるみる上達する。
いい流れだ。
採点:★★★☆☆
・咲坂芽亜『Honey*Witch』読み切り
あらすじ:サリー型魔女っ子の主人公が、彼氏役の家に押しかける。
よくわからない。
採点:★☆☆☆☆
・くまがい杏子『放課後オレンジ』連載第18回
あらすじ:大会に向けて盛り上がる。
旋回軸もクソもなく、ひたすら迷走している。
採点:★★☆☆☆
・水瀬藍『だから、俺にしなよ』連載第6回
あらすじ:主人公(陽菜)が彼氏役(奏多)とデート、告白。陽菜は当て馬(秀悟)のところにお見舞いに行き、自分はまだ秀悟のことが好きだと自覚する。
奏多を彼氏役と書いたが、わからなくなってきた。
第一印象の男が彼氏役でない作品は非常に珍しいが、その例になるか。
採点:★★☆☆☆
・服部美紀『代理彼女宣言!』読み切り
あらすじ:彼氏役は一年前に彼女(と主人公は思い込んだが実は飼い犬)をなくしている。主人公はその身代わりを務める。
展開にアイディアがなく、猛烈にぎこちない。
採点:☆☆☆☆☆
・車谷晴子『危険純愛D.N.A.』最終回
あらすじ:主人公(亜美)と彼氏役(千尋)は周囲と和解。それから数年後、二人は結婚しており、子供がいる。
特にオチもなく終わった。
採点:★★☆☆☆
第47回につづく
映画『靖国 YASUKUNI』(李纓監督)を見た。
2005年8月15日の靖国神社と、刀匠へのインタビューが中心の、ドキュメンタリー映画である。この刀匠は、戦時中に靖国神社境内で軍刀を作っていたという人物で、字幕では90歳とあった。
靖国神社の映像は、奇人変人の大集合という趣で面白い。我流の面白礼拝を行う人あり、旧軍人の集団行動あり、星条旗を掲げるアメリカ人(白人男)あり、単身で抗議行動に突撃する人ありで、野次馬しに行きたくなる。かの悪名高い就遊館の映像も見どころだ。
刀匠へのインタビューは、狙いがよくわからない。精神論でも聞けると思っていたのだろうか。靖国神社の映像だけでは尺が足りないから撮ってみた、というように見える。インタビュアーも刀匠も言葉が聞き取りにくいので、字幕をつけてほしかった。
終盤に、戦時中のニュース映像が流れるが、政治的理由でとってつけたようで感心しない。
政治的問題について。
いわゆる「百人斬り」の真偽という鼻クソのような問題をあげつらって喜ぶ歴史修正主義者――主張が真偽どちらでも同じことだ――の期待に応えるような映画ではない。意識している節はあるが(おそらくは営業上の理由)、どちらの修正主義者が見ても、がっかりするだろう。
元国家神道の神社の鵺的な性格(戦前には政府が国民に強制していたが、戦後民営化された)を、見て取ることはできるが、はっきりと打ち出しているわけではない。
会場(渋谷シネ・アミューズ)の警備は物々しく、胡錦濤でも来るのかと一瞬思った。席は満席だったが、あの警備費用はどこから出ているのだろうと心配になる。こういう警備のための基金のようなものがあるとは聞いたことがない。
カーレド・ホッセイニ『君のためなら千回でも』(ハヤカワepi文庫)を読んだ。
アフガニスタン出身のアメリカ人が書いた、自伝的な要素をこめた小説、という触れ込みである。
しかし――パルプフィクションだ。ゴーストライターの介在を私は疑っている。
多少の誠実さを持ち合わせた人間なら、現在のアフガニスタンから、ハリウッド的に単純化された語りを引き出すことはできない。歴史の皮肉がいっぱい、というより、皮肉でないものが見つからない。
たとえば、英米によるムジャヒディン援助の位置づけ。「あとは野となれ山となれ」式のムジャヒディン援助が、ソ連撤退後10年にわたる内戦とタリバンの発生を招いた。戦犯はレーガン大統領だ。主人公の父親はレーガンの戦闘的な態度を支持していた、という記述が出てくる。なのに作品はその皮肉に触れない。
なにより最大の皮肉は、アフガンで都市の富裕なリベラル(=主人公とその父親)にもっとも近い立場にあったのは、侵略者のソ連だった、という事実だ。この皮肉に触れないというのは、それ自体なにかの皮肉のつもりだろうか。
著者はおよそ考えられるすべての誠実さを捨てて、ハリウッド的な単純化の要請に忠実に従っている。ゴーストライターの介在を私が疑う理由は、ひとつはこの忠実さだ。略歴によれば著者は医師であり、パルプフィクションを書く必要はない。
もうひとつの理由は、腐女子くさいことだ。
ストーリーも多少そうだが、語りが腐女子くさく、男らしさがない。たとえば、ある種の独断や飛躍、「俺の語りについてこい」という傲慢さには男らしさが宿るが、それがない。
パルプフィクションとしての質を判定して「ウェルメイド」などと抜かす高尚な趣味はあいにく持ち合わせないが、売れているらしいのを見ると、そうなのだろう。そういう趣味のかたにだけお勧めする。
ナシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ』(ダイヤモンド社)を読んだ。
これは、私が最近十年間に読んだ本のなかで、一番役に立つ本だ。全人類に本書を強く勧める。
本書は、運不運に翻弄される人間の感情と認知について述べている。
著者はベテランの金融トレーダーであり、人間がいかにして運不運に翻弄されるかを(自分自身も含めて)よく観察している。また著者は行動経済学の専門家でもあり、人間の非合理性の特徴を、科学の言葉で把握している。そしてもちろん、ベテラントレーダーの強烈な個性がある。
とはいえ本書は論文ではなくエッセイなので、著者の専門外で気になった点がいくつかある。
つくりものの歴史について説明するとき、エセ思想家の始祖にどうしても触れずにはいられない。ヘーゲルだ。ヘーゲルは、パリ左岸のおしゃれなカフェや、現実の世界からとてもうまい具合に隔離してある大学の文学部の外ではまったく何の意味もないたわごとを書く人だ。このドイツの「哲学者」が書いた次の一節を読んでみるといい(この文章を発見して英語に訳し、罵倒したのはカール・ポパーだ)。
音は物体の諸部分の分離の特定の状態の変化であり、そうした状態の否定である。そうした意匠の、いわば抽象的または理念的な理念にすぎない。しかしながら、この変化は、したがって、それ自体直ちに物体の特定の実在の否定であり、したがって、特殊な重力と凝集力、すなわち熱の実在的理念である。音を発する物体の発熱は、打撃を加えられるかまたは摩擦された物体のそれと同様に、概念的には音とともに生じる熱が見られる。
(100ページより)
ヘーゲルが「大学の文学部の外ではまったく何の意味もないたわごと」なのは単純な事実だが、エセ思想家ではなくゴミ思想家だし、始祖ではなく大家だ。
エセではなくゴミだというのは、歴史的前提から離れては評価できない、という意味である。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は、元ネタの騎士道物語にまったく触れることなく、つまり歴史的前提から離れて読んでも、素晴らしい。しかしヘーゲルの著作を、西洋哲学史という前提抜きで読んで、なお素晴らしいと言えるか。逆立ちしても不可能だ。上の文章にみられるように、ヘーゲルのやっていることの大半は西洋哲学の言語ゲームの名人技だ。この名人技を評価するには、同じゲームに熟達するしかない。そしてこのゲームが実際にプレイ可能である以上、「エセ」とはいえない。たとえこのゲームがクロスワードパズルより優れたものとは思えなくても。
西洋哲学の言語ゲームの創始者は、ヘーゲルではなくプラトンだ。「善い」という形容詞から「善」という名詞、さらに「善のイデア」なるものを導いていいというルールなら、熱も重力も好きに使える。
もうひとつ、「法律というのは真実のためにあるのではなかったのか?」(250ページ)にはひっくりかえった。そんなわけがない。法律や司法は、係争を解決するための仕組みであり、時として真実よりも公正のほうを重んじる。真実と公正がぶつかる状況はたとえば最判2006年7月7日。