白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)を読んだ。
長大な経歴を持つ著者が書いた長大な回顧録であり、あらすじもそれなりに長大なものになり、書くのが面倒なのでAmazonなどに任せる。
歴史の資料という観点から、気になったところを書いてゆく。
・「昭和一四年、戦前日本の最盛期をこの目で見たことになろうか」(17ページ)
日本の現代史の感覚でいうと、1939年はすでに国際関係が相当まずくなっていて、景気がよかったのは軍需のせい、という時代だが、著者はそれを「最盛期」と書いているのが興味深い。
・日清戦争において、葉志超の軍は成歓・牙山で敗北したあと、ほぼ全力が歩いて平壌に再集結した。これは清国兵が日本で言われたほどの弱兵ではなかったことを示す。(29ページ)
朝鮮戦争初期に敗軍を率いて落ち延びた著者の見解と思うと、味わい深い。
・「日本の「なんでも法治主義」にも問題があった。恣意的な人治よりも法治のほうが合理的かつ公平というのは日本人の論理であって、アジア全般に通じる論理ではない。日本は西洋から学んだ法治主義に、江戸時代に培った「お上は万能」精神を加味したものをアジア全体に押しつけようとした。韓国ではあまり言われなかったが、中国では日本人を「法匪」と呼んでいた。法律を振りかざす匪賊の意味である。大陸に渡った日本の官吏は、せっせと法律をつくって人びとの生活に干渉したのだから、反発されるのも無理はなかった」(47ページ)
法律や裁判とはつまるところお役所仕事である。お役所仕事が別に大したものではないことは誰でも知っている。年金問題で見たように、名簿の管理ひとつに右往左往するのがお役所仕事だ。
なのに、どうやら日本には、カギカッコつきの「法律」や「裁判」があるらしい。「法律」は完全無欠の正義を体現している。そうでなければならない。「裁判」は常に事実を究明する。そうでなければならない。
これらがお役所の手に負える仕事かどうか、一秒でも考えれば答えは明らかだ。が、どういうわけか、「事実が知りたいんです」という原告の言葉は、「こいつ馬鹿か」という批判的な沈黙に迎えられたりはしない。
こうした「法律」や「裁判」が日本の外で通用するものではなかったことの証言として、上の記述は興味深い。
・学校教練・配属将校について「さらに大きな効果は、これによって軍国主義がより深く国民のあいだに浸透したことであった。敗戦後の日本では、「教練が苦手で泣かされた」「配属将校に睨まれてあやうく落第だった」「殴られた」と悪評ばかりだが、本当にそうだったのだろうか。洋の東西を問わず、元気な男の子はチャンバラや戦争ごっこが好きなものである。中学に入って初めて小銃を手にしたとき、緊張感とともにある種のときめきを感じなかったか。悪く言えば、日本軍部はこの若者の心理につけこみ、軍事を一般社会に浸透させたと言える」(62ページ)
同時代を生きた植民地人の証言として、また現在も徴兵制の害悪に悩む韓国からの視点として、興味深い。
・「ゲリラを捕捉したときは、どんなに小さな集団であっても、全力をあげて文字どおり殲滅するまで叩きあげねばならない」(76ページ)
この箇所に限らず、こういう意味での「叩きあげる」という言葉がよく出てくる。現在の日本語とはずいぶん違うが、どこかの隠語のたぐいなのだろうか。
・間島特設隊の北支での活動は、住民を丁重に扱ったために成功した(78〜79ページ)
食料を得るときには必ず代金を十分支払ったというが、その金はどこから出てきたのかと首をかしげる。著者の書きぶりが軍国美談めくときには、どうも話が怪しい。
・「私にとっては初めての転勤で、一家をあげて引っ越しをしなければならなかったのだが、支給される旅費は私の分だけで、引っ越しの費用や家族の旅費すら出ないとのことだった」(116ページ)
この箇所に限らず、当時の韓国政府には金がなかったという話が至るところに出てくる。汚職の気配を感じる。
・「韓国軍にアメリカ軍の制式装備が入り始めたのは一九四八年夏のことだった。第五師団に入ったのは、おそらく四九年になってからだと思う。(中略)ところが聞いてみると、戦闘射撃ができる演習場はもちろん、基本射場もない始末であった」(136ページ)
これが1949年7月のことで、開戦は1950年6月なのだから、練度を云々するのもおこがましい。こうした実情はすべて北朝鮮に筒抜けだったはずだが、撤退を決めた米軍には伝わっていなかったらしい。
・「アチソン声明が北の侵略決意をうながしたと言う識者もいるが、戦争準備に必要な時間から考えて、これを結びつけるのは無理があるように思う」(149ページ)
韓国軍はろくに小銃も撃てない連中だわ、米軍地上部隊は撤退するわ、戦車はたんまりあるわ、国共内戦を戦ったばかりの歴戦の2個師団はあるわで、どう考えても負けるわけがない、と金日成は思っただろう。
やってみなくちゃわからない(声:細野晴臣)。
・もし戦車への対抗手段があれば、ソウル陥落を免れた可能性は高い(172ページ)
北朝鮮軍が韓国軍の実情を知った上で作戦を立てたであろうことを考えると、やや身内びいきがすぎるように思う。
突破された侵攻路は谷底にあった。もし敵に強力な対抗手段があるなら、そもそも戦車を投入しない。守りの堅いソウルを迂回したかもしれないし、戦力を第一師団の担当正面に集中したかもしれない。
・「われわれは捕虜を多く得たが、ほとんどが少年であった」(176ページ)
韓国軍第一師団と相対した北朝鮮軍は第一師団なので、北朝鮮の支配地域で徴募された兵と思われる。
著者は書いていないが、おそらく韓国軍の兵士も同様に少年ばかりだったのだろう。
・「二人とも連隊長だ」(197ページ)「第一五連隊は独断で大邱に募集班を派遣し、人手を集めた。どこの部隊でも物資の荷揚げなどの労務員を独自に集めていたから、ここまでならば問題はない。ところが第一五連隊は三〇〇〇人もの人員を集め、これに階級を与えて大隊三個と補充大隊一個に編成していたのである」(222ページ)
戦場ではどんなデタラメなことも起こりうる、という話。
・「臨津江の緒戦から感じ、この一戦でさらにはっきりしたと思ったのは、敵がわれわれ同様、未熟だということであった。「ソウルを奪った以上、勝ったも同然」と思いこんでいたのだろうが、四列縦隊で無警戒に行進して来るなど、正気の沙汰ではない」(200ページ)
少年兵の件といい、北朝鮮軍の人材不足を感じる。こんな状態でも一時は大邱の近くまで進んだのだから、戦争は難しい。
・7月14日、錦江の線を守れず大田を奪われた(209ページ)
米軍の担当正面での出来事のためか、さらっと書いてあるが、錦江の次はもう洛東江しかない。もし釜山を落とされていれば、重大な敗因として挙げられるところだ。著者の書きぶりに注目。
・「当時から国軍全員が感謝し、こんにちもなおその思いを新たにしていることは、国民の積極的な協力である。(中略)その団結の核は、李承晩大統領その人であった」(239ページ)
戦中の李承晩はカリスマとして国民の信望を集めていた、という記述が随所にある。戦後の李承晩はこの信望に応えなかった。
「国民の積極的な協力」なる胡散臭いものを、李承晩の名前と並べたところに、著者の思いが垣間見える。
・「仁川上陸作戦によってソウル収復が早まったのは、結構なことではあった。しかし、上陸作戦の真の目的は達成されなかった。(中略)敵の主力はこれをうまくすり抜けた」(261ページ)
仁川上陸作戦の結果を批判する意見はあまり見ない。だが調べてみると著者の言うとおりで、どうして仁川上陸作戦が成功とばかり言われるのかわからなくなる。
もしソウルから元山までの線が速やかに遮断されていたら、果たして中国は介入しただろうか。ソウルの東をすり抜けた北朝鮮軍主力は、介入の呼び水として重要な役割を果たした。
・「ソウルの町で平壌の名物である冷麺や焼肉がさかんに食べられるようになったのは、韓国戦争以降である」(304ページ)
ちなみにボルシチは元はロシアではなくウクライナ料理。
・「韓半島で戦ったアメリカの将軍たちに共通していたのは、いずれもヨーロッパ戦線の経験者であること、そして大戦中には陸軍参謀総長、戦後は国務長官、国防長官を歴任したジョージ・マーシャル元帥の眼鏡にかなって戦後も軍に残った、ワシントンの意向に忠実な軍人であることだろう。そこにただ一人、マッカーサー元帥という偉大であるが、どこか異質な人物がいたという構図を見失うと、韓国戦争を真に理解できないと思う。マッカーサー元帥解任という出来事も、この構図を知っていれば、さほど驚くことはないのである」(309〜310ページ)
のちのリッジウェイの記述とあわせて読むと、微妙に毒のある書きぶり。
・「リッジウェイ将軍は、空挺服に空挺靴、右のサスペンダーには手榴弾、左には包帯セットを吊るし、厳寒のなかジープは幌なしと、なかなか勇ましい姿だった。訓示を聞きながら、ある種のスタイリストであると思ったが、超一流のファイターであることも間違いなかった」(310ページ)
「リッジウェイ将軍が着任してからしばらくすると、アメリカ軍の将校食堂の装いが一新した。糊のきいたリンネルのテーブルクロスがかけられ、食器もプラスティックのものはなくなり、すべてが陶器となった。陶器の裏を見ると、どれも「ノリタケ・チャイナ」とあり、日本から大量に購入したものとわかった。私はここで食事したとき、将校に聞いたことがある。
「お国は贅沢ですね、戦争中だというのに立派な食器を使う」
「いや、贅沢ではないのです。これは軍司令官じきじきの命令なのですよ。将校たる者、裸のテーブルについて粗末な食器で食事をするものではないと言われ、どれも新調したのです」
マーシャル元帥の眼鏡にかなう軍人とは、ここまで細かいところに気を使う人物なのかと認識を新たにしたものだった」(314ページ)
好意的な書き方にはあまり見えない。
・李承晩は休戦会談に反対と言いつつ、「では大韓民国の軍人が会談に参加するわけにはいかない」と著者が言ったら、「いやきみ、それはそれ、これはこれだよ。アメリカとの関係もあるから、会談には韓国軍代表として参加しなさい。しかし、われわれの基本方針は忘れないように」と言った(346〜347ページ)
次のバンフリートの言葉を参照すると味わい深い。
・「まずはスタッフや隷下指揮官の言うことをよく聞く耳をもつこと。そしてイエスかノーかをはっきりさせることだ。どうにでも解釈できる曖昧な答えはいけない。難しい問題ならば早急に結論を出さず、一晩よく寝てから回答しなさい。人前で怒ってもいけない。そうすれば参謀総長であれなんであれ、その職責をはたすことができるものだ」(375ページ)
休戦会談に反対と言いつつ会談に代表を出す李承晩はまさに「どうにでも解釈できる曖昧な答え」を与えていた。著者の意図を感じる。
・アーレイ・バークいわく「日本海軍の敗因ですか……それはおおむね人事の問題に帰結するのではないでしょうか。人事が硬直していたと聞いておりますよ」(351ページ)
大統領が替わると局長クラスまで首がすげ替わる国のほうが、戦争には向いている。
・「敗残兵を除くと、ゲリラには大別して二つのタイプがあった。一つは純朴な農村、漁村の青年であり、純情な女学生である。最後まで抵抗し、捕虜になってからも死を願うのは彼らであった。純朴であるがゆえに、より強く洗脳され、最後まで戦うのである。彼らを救うのがわれわれの使命であったが、こちらもまた命がけであるから、やむなく射殺しなければならないことも多々あった。今ここに、彼らの冥福を祈るものである。
もう一つが、高学歴のインテリである。純朴な青年たちを洗脳した憎むべき連中である。始末の悪いことに、この連中は情勢不利と見るや進んで投降した。彼らは弁舌さわやかに転向を誓い、「きみたち国軍は立派だ、国の宝だ」と追従まで口にした」(362〜363ページ)
インテリも、まさか出世や金が目当てでゲリラに身を投じたわけではないだろう。命を惜しむのを悪く言うのは、日本陸軍のDNAのなせる業か。
・「高級軍人であれば議会の圧力に敏感なはずだが、バンフリート将軍は動じなかった」(369ページ)
では「議会の圧力に敏感」な高級軍人とは誰なのか。リッジウェイとその親分のマーシャル、というわけだ。
・1952年8月の大統領の改選において、李承晩は議会での間接選挙(従来の方式)を不利と見て直接選挙への切り替えを図った。「大多数の国民が大統領を熱烈に支持している事実は無視できるものではなかった」「李承晩博士は有効票の七〇パーセントを集めて圧勝した」(374ページ)
胡散臭い書きぶり。「国民の積極的な協力」も参照。こうした李承晩との距離感は、本書最大の読みどころかもしれない。
・李承晩について、「軍人の経済的な待遇には厳しかったが、のちに「軍人が金銭の味をしめたら国は滅びる」という博士の哲学に、なるほどとうなずかされるようになった」(414ページ)
どういう経緯でうなずかされることになったのか、著者は書いていない。朴正煕時代のことと読めるが。
あまり重要でないいくつかの問題について。
・ベンチマークの結果を、直前のメゾサイクルにのみ帰するのは短絡的ではないか? 短期的にしか効かないワークアウトや、長期的に効くワークアウトもあるのではないか?
第一に、比較対象はPBである。
短期的にしか効かないワークアウトを重ねれば、いずれPBを更新できなくなり、全体的な見直しを迫られる。短期的にしか効かないワークアウトなるものが、仮に現実に罠として存在するとしても、罠にはまったことに気づいて抜け出せる。
第二に、トレーニングレベルの問題がある。
トレーニングレベルが低ければ、どんなワークアウトをやってもただちに大きく向上する。この段階では、短期的にしか効かないワークアウトなるものを気にする必要はない。そしてほとんどの人は、プロ選手の競技レベルはもちろんのこと、トレーニングレベルに到達することもできない。
第三に、「才能のある人には効いても、自分には効かないかもしれない」。
自分に効くトレーニングを探し出して、そこに重点を置くべきだ。
第四に、モチベーションの問題がある。
ベンチマークでPBを出すことよりも優れた刺激はおそらくない。「長期的に効く」という憶測は、PBの与える刺激とは比べ物にならない。
・5分間の平均出力(5MP)はよいベンチマークか?
「VO2maxには遺伝的な上限があり、数カ月のトレーニングで上限に達して、それ以上は向上しない」という説がある。5MPはVO2maxを強く反映するので、よいベンチマークとは言えないのではないか?
この疑問に対しては、2つの反論がある。
第一に、「数カ月のトレーニングでVO2maxの遺伝的上限に達する」との説に疑問がある。私は2010年10月に276Wに達して、いったん飽和したかに見えたが、2012年6月には296Wに達した。この間、筋量はほとんど増えていない。
第二に、5MPはいつでもトライできる。私の環境では、夏には60MPにトライできない。室内気温を十分に下げられないからだ。トライしづらいベンチマークは、たとえ理論的には優れていても、よいベンチマークではない。
・60分間の平均出力(60MP)は必要なベンチマークか?
私は主に5MP、サブとして60MPをベンチマークに設定している。2種類のベンチマークを設定するのは「シンプル」の原則に反する。この場合には原則をまげることは妥当か?
利点としては、ヒルクライムイベント等でのペースを決めるうえで役に立つ。1時間前後のペースを決めるのに、使える数字が5MPでは心もとない。
欠点としては、5MPよりもコンディショニングが難しいので時間を取られる。私の場合、2週間はかかる。また、60MPと5MPの相関は大きいため、得られる情報量はあまり増えない。5MPが向上しているのに60MPは停滞した、というケースは今まで一度もない。
結論としては、60MPと5MPの2種類を設定する必要性は疑わしい。読者諸氏は1種類に絞ったほうがいいかもしれない。
以上、通説に反する点も多いが、通説はベンチマークの代わりにはならない。
研究報告に出てくるwell-trained cyclistはしばしば、moderately-talented cyclistでもある。well-trainedかつpoor-talentedな被験者のグループを見つけるのは難しい。そもそも研究の対象にならないだろう。
スポーツ科学の関心はほとんど2方向しかない。チャンピオンを作ることと、健康を高めること。チャンピオンの卵や、健康を望む人々にとっては、スポーツ科学はそのままで十分役に立つ。だが、生まれつき表彰台とは無縁なのに表彰台を目指す人々は、スポーツ科学との付き合い方をよく考えなければならない。
とりあえず、「数カ月のトレーニングでVO2maxの遺伝的上限に達する」という説を疑うことから始めよう。ほとんどの読者諸氏の現在の5MPは、たとえそれが60MPだったとしても、さらには体脂肪率を5%まで絞り込んだとしても、乗鞍で60分を切れない値のはずだ。それでも乗鞍60分切りを目指すのなら、疑わなければならない。
ベンチマークでPBを出す、ワークアウトの強度を高める、そのためにはコンディションを整えなければならない。
よく「アクティブリカバリー」ということが言われるが、私はこれを疑わしいと思っている。ワークアウトやベンチマークの前日になにをするかが重要であって、翌日になにをするかはどうでもいい、というのが私の結論だ。
コンディショニングの選択肢とその効果について、私の意見を以下に述べる。
・フルレスト:まったく乗らない
長時間かつ高強度のワークアウトのあと、体のほてりや動悸を感じて、なかなか心身が休まらないことがある。この場合にはフルレストを選ぶ。
フルレストの翌日は、高強度に耐える能力が下がる。高強度のワークアウトをする場合には、さらにもう一日コンディショニングすることになる。
・VO2maxインターバル
コンディショニングでもありワークアウトでもある魔法の選択肢。ベンチマークの前日にはこれを選ぶ。
これをやった翌日は、高強度に耐える能力が高まる。もちろんこれは一日だけの効果で、2日連続でやれば下がる。
・イージーライド:60% HR maxで1時間以内
フルレストの必要はないが、翌日以降のコンディションを上げたい場合はこれを選ぶ。たとえばPBを狙うときには、イージーライド→VO2maxインターバル→ベンチマークというコンボを組む。
詳細編に続く。
枠組み編の核心が「シンプル」だとすれば、このワークアウト編の核心はこれだ――「才能のある人には効いても、自分には効かないかもしれない」。
私が試してみて効いたワークアウト・効かなかったワークアウトを列挙し、その理由について考察してみる。読者諸氏がプロトコルを決める際の一助とされたい。
・タバタプロトコル:20秒もがいて10秒休むのを8回
効かなかった。
追試では「効かなかった」という報告ばかりなのだが、超短時間というところが魅力的なのか、いまだによく名前を聞く。
そもそも最初の報告の被験者がオリンピックの強化選手なので、それくらいの才能とトレーニングレベルを兼ね備えた人なら効くのかもしれない。ほとんどの読者諸氏には効かない、と自信を持って断言する。
・LSD:60% HR maxで1時間以上
効かなかった。
LSDという概念は1970年代からあったらしいが、ロード界で脚光を浴びたのはEPO時代の始まりの頃、イタリアのプロチームかららしい。
EPOはヘモグロビンを増やすので、血液の粘性が高まる。粘性が高まりすぎると血管が詰まって死ぬ。死なない程度にしておく必要があるので、それがEPOの投与量の上限となる。
粘性はヘモグロビンの濃度によって決まるが、EPOの効果は体内の総ヘモグロビン量によって決まる。つまり血漿量が増えれば、ヘモグロビン濃度が薄まって血液の粘性が下がるので、それだけEPOの投与量を増やせる。
そして血漿量は、有酸素運動をした時間が長ければ長いほど増える。
・ロングライド:漫然と100km以上を走る
効かなかった。
プロ選手は年に2万キロ3万キロと乗っているが、それがトレーニングとしてプラスになる体質だからこそプロになれたのだと思う。才能のない人が距離を乗っても、プラスになるとは限らない。
また、プロ選手は距離を乗っているわけではないのかもしれない。プラスになる要素をひとつひとつ積み上げていったら、結果としてこの距離になったのであって、中身に乏しいロングライドで距離計を回しても無意味なのかもしれない。
・SFR:ケイデンス約50rpm、30秒から1分で脚が売り切れる程度の負荷、を3回
効く。
「有酸素運動をすると筋肉が落ちやすい」とよく言われる。「脂肪だけを減らすのは難しく、筋肉もある程度犠牲になる」ともよく言われる。では、カベンディッシュやグライペルは一体どうなっているのか。ツール・ド・フランスを完走できるほど脂肪を削り、年2万キロ以上は走っているはずなのに、なお巨大な筋肉を誇る。スプリンターに限らず、一部のクライマー以外は、驚くべき筋量と体脂肪率を両立させている。どういうことなのか。
私の結論:才能。
一部の例外を除いて、プロ選手は異常なまでに筋肉のつきやすい体質をしている。常人ならマラソン体型になるはずのトレーニングを彼らがこなすと、エヴァンスやコンタドールの体型になるのだ。
そして一部の例外であるところのマラソン体型の選手(シュレック兄弟など)は、別の才能を持っている。もしマラソンをやれば世界トップクラスに入れるほどの、有酸素運動の才能だ。おそらく、ほとんどの人にとっては、マラソン体型は目指すべき方向ではない。
「才能のある人には効いても、自分には効かないかもしれない」。これは筋肉のつきやすさと効能について特に言えると思う。才能のない人ほど、筋量を稼ぐことを重視すべきだ。
・VO2maxインターバル:4分軽くもがいて3分休む、を4回
効く。
・SST:PBの90〜100%強度で20〜60分
疑問。
夏には室内気温を十分に下げられなくなるので、SSTのような長時間のワークアウトはほとんどしなくなる。なのに秋になって60分走のベンチマークにトライすると、たやすくPBかそれに近い値が出る。
コンディショニング編に続く。
クリス・カーマイケル『ミラクルトレーニング』(未知谷)には、「鍵は「シンプル」」という見出しの一節がある(103ページ)。主にピリオダイゼーションのことを述べた一節だが、それ以上のニュアンスを多分に含んでいる。この本の中でもっとも重要かつ意味深長な一節だと思う。
トレーニングは単純でなければ機能しない。だが、単純なものを作り出す過程は、けっして単純ではない。この過程についての私の考えと実践を、以下にまとめてみる。できるだけ単純に。
・一週間のどの曜日にどんな強度と長さのワークアウトを何度やるか、あらかじめ決めておく
予定は常に物事を単純にする。この一週間の予定のことを以下では「プロトコル」と呼ぶ。
・一定の期間はひとつのプロトコルだけを行う
・その期間(メゾサイクル)はできるだけ短くする
トレーニングの効果をあらかじめ予想することは難しい。才能のある人には効いても、自分には効かないかもしれない。そして世間でもてはやされるトレーニングは、ほぼ100%、才能のある人に効くトレーニングだ。ツール・ド・フランス優勝者のトレーニング内容は誰もが知りたがるが、生まれつきプロ選手になれない人のトレーニング内容には誰も興味を持たない。
効かないトレーニングを一年続けたら、一年無駄にしたも同然だ。もっと短い期間で、トレーニングの効果を評価しなければならない。
短い期間とは、どのくらいか?
おそらく、トレーニングレベル(競技レベルではない)の高い人ほど、長い期間を要する。完全な初心者なら1週間でも長いくらいだろう。今の私は3週間にしている。今の私の場合、パーソナルベストを出すためのコンディショニングに1週間ほどかかるので、2週間では効率が悪すぎるという理由で3週間になっている。
・プロトコルはできるだけ単純にする
「前にこのプロトコルをやったら効いた」という場合、効いたのはプロトコルのどの要素なのか。幕の内弁当的なプロトコルでは、どれが効いたのかわからない。
・プロトコルの効果を測定するベンチマークを決め、メゾサイクル終了のたびに測定する
プロトコルが効いたかどうかを「体感」するのではオカルトだ。ベンチマークを取る必要がある。
どんなベンチマークか。メゾサイクル終了のたびに測定するのだから、年に一回のヒルクライムイベントでは話にならない。週に一回行く峠も、天候や体のコンディションの問題があるため、誤差が大きい。
ほとんどの人にとって唯一現実的なのは、固定ローラーとパワーメーターを使ったトライのはずだ。これならほぼベストコンディションでのトライができる。
なににトライするのか? ここでも「シンプル」の原則が働く。私の環境では、一定時間の平均出力が単純なので、そうしている。コンピュトレーナーなどの機材があるなら、同じくらい単純でもっと楽しいトライがあるかもしれない。
一定時間とはどれくらい? 私は諸々の理由から主に5分間、サブとして60分間を設定している。この「諸々の理由」は説明すると長くなるので、詳細編に回す。
・ベンチマークのためのコンディショニングにおいて体感は無視する
体の言うこととベンチマークの言うことは違う。脚が重い? きつい? なんの目安にもならない。
自分のコンディションを知る方法はただひとつ、限界を超えようとしてみる、すなわちパーソナルベスト(PB)を出そうとしてみることだ。
もしPBが出なければ、その日のコンディションが悪いか、あるいは実力が下がっている。
何度トライしてもPBが出なければ、コンディショニングが間違っているか、あるいは実力が下がっている。
前にPBを何度も出した実績のあるコンディショニングをやっているのに、何度トライしてもPBが出なければ、実力が下がっている。
ということは、
・メゾサイクル終了後のベンチマークは、PBを出すまでトライしつづける
どこまで食い下がるかは、それまでの成り行き次第。
これまでは3日のコンディショニングでPBを出せていたのに今度は2週間かけてもPBを出せない、となったら、そのメゾサイクルのプロトコルには疑問符がつく。
PBを出せない事態が何度も続くようなら、根本的になにかがおかしい。
以上を時系列でまとめると、こうなる:
1. プロトコルを決める
2. 3週間そのプロトコルを続ける(メゾサイクル)
3. 1週間かけてベンチマークのPBを出す
4a. PBが出た→そのプロトコルは効くので、近いうちにまたやる
4b. PBが出せなかった→そのプロトコルは効かなさそうなので、当分やらないことにする
4c. どんなプロトコルでもPBが出せない時期が長く続いている→なにかがまずいので全体的に見直す
ワークアウト編に続く。
iOSアプリの審査で待たされる時間がそろそろ延べ4か月に達したので、経験値がたまってきた。ちなみに1本通して1本まだ審査中である。
iOSアプリの審査で待たされないためには、
・典型的なアプリを作る
つまりAngry Birdsをパクる。ラノベのタイトルでいえば、『妹のちょっとどうかと思う生活が第一』といったところか。そうでないアプリは、軽く数か月かかると見込むべきだろう。
・ただし電子書籍はダメ
Appleが電子書籍アプリへの締め付けを強めていることは噂になっているが、私も感じている。前に通ったアプリと同じコードで新しいタイトルを出そうとしたら、「HTMLにないiOSプラットフォーム独自の機能を使っていないからダメ」と言われた。「いやプッシュ通知を使ってる」と抗弁したら、「UIがiOSっぽくないからダメ」と言われた。「電子書籍はできるだけ通すな。ただし『電子書籍だからダメ』とは言うな」という指令が出ているのではないかと感じる。
・審査でのテスト動作中にはAPNs(プッシュ通知)を使わせない
APNsのひどさについてはすでに縷々述べたが、審査で使われるテスト環境にはAPNsの挙動に妙なクセがある。なにしろ手元にないので調べることはできないが、プッシュ通知が届くまでに異常に時間がかかっている(と思われる)ケースが複数回あった。
・テスト環境には機内モードまで想定する
テスト環境が機内モードになっている(と思われる)ケースを複数回経験した。
インターネット接続を使うと、すさまじい数の組み合わせを想定しなければならないので、問題が非常にややこしくなる。インターネット接続に依存するアプリはやめて、Angry Birdsをパクるべきだろう。
北極エスキモーが船や弓矢などの知識を失ったことについて考えている。事実かどうか疑わしいと私は考えているが、ここでは仮に事実だとする。
北極エスキモーが種として存続するうえで、船や弓矢の知識は必要なかった、つまり無駄だったのだろう(ちなみに北極エスキモーの生活圏には、弓矢があれば狩れる獲物がふんだんにあった)。西洋文明と接触する前のエスキモーには、姥捨ての習慣があったという。知識から個人に至るまで、ありとあらゆる無駄を排することが、種としてのエスキモーの存続に役立ったのだろう。現代文明から見ると、その厳格なストイックぶりには、ある種の威厳さえ漂う。
だが、北極エスキモーは船や弓矢の知識まで失った。これは「ストイック」なことだろうか。
「先のない老人を捨てるのとは違って、船や弓矢を捨てるのは近視眼的きわまりない」――そんな功利的な話だろうか。
姥捨てによって失われるのは、捨てられる個人の持つ能力だけではない。個人を仲間としてではなく能力として、道具としてみなす態度を助長し、共同体の求心力を弱め、ひいては共同体が危機を乗り越える能力を損なう。
たとえば近代的な軍隊は、孤立した部隊を救出する際、少なくとも表向きは、コストを度外視する。戦争という極限状態にありながら、姥捨てどころか姥拾いをやるわけだ。近代的な軍隊のような組織では、求心力にはそれほどの価値がある。だから船や弓矢を捨てるのと同様、姥捨ても近視眼的な選択といえる。
現代文明もエスキモーと同じく生存競争を生き抜いてきた生存適者であるからには、その価値観の適応ぶりはけっしてエスキモーに劣るものではない。
そしておそらくは現代文明も、北極エスキモーと同じく、船や弓矢の知識を捨てるような近視眼的な真似をしている。
行政や企業や親兄弟が、なにかを「無駄」として捨てようとした瞬間、あなたは決めなければならない。戦うべきか、戦わざるべきか。
ほとんどの瞬間には、戦わざるべきだ。ありとあらゆる瞬間に戦っていたら、ゴミ屋敷ができる。
しかし、ごく稀に、戦うべき瞬間がやってくる。
その戦いはしばしばゲリラ戦の様相を呈する。相手を打ち負かせる見通しはなく、ひたすら敗北から逃れつづけるだけの戦いになる。
ときとして犠牲は耐えがたいほど大きい。まるで近代的な軍隊が孤立した部隊を救出する際のように、コストを度外視するはめになる。
「これを無駄というのは近視眼的だ」と説得してみてもいいが、効果はあまり期待しないほうがいい。特に、口だけで戦おうとする場合には、まずもって効果はない。
こういう戦いだけが、その守るべきものが「無駄」ではないことを証明する。
無駄なものが無駄なのは、あなたがその「無駄」なもののために戦うかわりに、勝算を求め、コストとリターンを秤にかけるからだ。
損得勘定や議論に支えられて存在するものは、価値観ではない。価値観とは、ただ存在するものであり、ただ生き延びるものであり、文明そのものであり、人間の生そのものである。
大津市で昨年10月、公立中2年の男子生徒=当時(13)=が自殺した問題で、学校が実施したアンケートに「(教室に)貼ってあった男子生徒の写真の顔に、死亡後も、いじめをしたとされる生徒が穴を開けたり落書きをしたりしていた」など、執拗ないじめの様子に関する記述があったことが7日、関係者への取材で分かった。
アンケートには、ほかにも「お金を取られていた」と金銭を脅し取っていたことを示唆するものや、自殺した生徒以外の生徒もいじめていたとするものがあった。
いじめをする生物はこういう生物です。こういう生物が生息する環境は、新聞やテレビや本に出てくるような文明社会ではなく、ジャングルです。
ジャングルでワニに出くわしたとき、ワニに向かって「話せばわかる」とは誰も言いません。相手が自分と同じ心を持った人間だなどとは思わず、適切に対処しましょう。たいていは逃げるわけです。自分の命がかかっているのですから、「もったいない」とか「後のことを考えて」などとは思わず、ひたすら逃げましょう。
新聞やテレビや本は、ジャングルのことをめったに取り上げません。ジャングルには物語がないからです。そこでは人は人として存在せず、河原の石のように転がって削れたり割れたりするだけの自然物として存在します。私がなにを言っているか、わからない? それこそがまさに「物語がない」ということです。新聞やテレビや本は、言っても通じないことをめったに伝えません。
ジャングルは人間の住むところではありません。命のあるうちにジャングルを抜け出して、文明社会の建設に加わってください。
ケン・ハーパー『父さんのからだを返して』(早川書房)を読んだ。
グリーンランド北西部には、「北極エスキモー」と呼ばれる人々が暮らしているという。
まずはこの北極エスキモーが、まるで古代の博物誌の記述でしかお目にかかれないような驚異の塊だ。19世紀初頭、西洋の白人の探検家が歴史上初めて彼らに接触したとき、彼らは、
・人口およそ200人
・外部の世界とは完全に切り離されており、自分たち以外に人間がいることを知らなかった
・海が凍らない期間は2か月あったが、船の知識を失っており、航海を知らなかった
・それどころか、鳥を獲る槍、魚を獲るやす、弓矢の使い方に至るまで知識を失っていた
19世紀初頭の探検家の記録は、古代の博物誌よりは信用できるとは思うが、やはり眉唾だと思わざるをえない。もし知識の喪失がすべて事実だったとしたら、それが生じるまでにいったいどんな過程があったのか。種としての人類の絶滅について考えるなら、北極エスキモーの事例をぜひ調べるべきだろう。
19世紀に北極エスキモーは外部と接触するようになり、近隣のエスキモーから多くの知識を得た。そして19世紀末、ロバート・ピアリーがやってくる。
ロバート・ピアリー。北極探検家。初めて北極点に到達した人間とされている。私は子供のころに、子供向け図鑑のたぐいで名前を知り、それきり忘れていた。
この名前を思い出したのは、NHKが放送した『フローズン・プラネット』という番組がきっかけだった。この番組が南極点到達競争のドラマを紹介していたのを見て、「では北極は?」という疑問を抱いた。北極到達が先だったのに、ドラマはなかったのか?
ピアリーの名前でぐぐって、なるほどと納得した。こんな胸糞の悪くて結論も出ないドラマは、到底エンターテインメントにはならない。だが人間について、20世紀初頭という時代について、当時の「探検」なるものについて、多くを教えてくれるドラマではある。読者諸氏もぜひ調べてみられるようお勧めする。
ピアリーのことを調べるうちに、本書のタイトルに行き当たった。
ピアリーは探検のスポンサーの歓心を買うため、北極エスキモー6人をアメリカに連れていった。一人は故郷に帰ったが、ほかはアメリカにとどまった。4人は病死したために帰れなかった。生き残った一人はまだ6歳か7歳で、親を亡くしたためにアメリカで育てられることになった。この子供が、本書の主人公、ミニックである。
病死した4人は、本人はもちろん誰の許可も得ることなく骨格標本にされ、ピアリーのスポンサーが運営する博物館に収蔵された。
これが20世紀初頭の「文明」だった。北極エスキモーと同じくらいの、古代の博物誌と同じくらいの、驚異だ。
本書のタイトルのとおり、ミニックは父親の遺体を埋葬しようとして、何度も博物館に抗議し、新聞に訴えた。
だが本書を傑作にしているのは、こうした驚異の数々ではない。
『この物語全体をよく表わしているのは、この本におさめられた写真のなかの一枚、子供のころのミニックがじっと見つめている眼差しである――きちんと帽子をかぶり、コートに身をつつんだ少年が、そのからだとは不釣り合いなほど大きい自転車を支えて、カメラの向こうにいる人の心をまっすぐにのぞきこんでいる。好奇心ではない、もっと暖かいものを求めて。』(本書19ページ)
「文明」の責任者の一人として恥じ入りつつも、私はミニックの信頼に応えたいと願う。