2004年09月29日

消えたダウンロード

 MSDNに置いてある開発関係のファイルは、実によく消える。
 先日は、msxsl.exe(XSLTプロセッサ)が消えていたのに気づいた。今後は.NET版しか置かないらしい。私は気が短いので、.NETのような起動の遅いものは使えない。
 今日は、WordMLをHTMLに変換するXSLTスタイルシートが消えていたのに気づいた。相手がWordMLではデバッグ不可能と悟ったのだろうか。

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2004年09月27日

「嬌態」と書いて「けだかく」と読む

 『洒落本大成』27巻「花街鑑」が面白い。
 かつての吉原の年中行事「玉菊灯篭」のもととなった名妓・玉菊の伝記という体裁をとった本である。書いてあることはもちろん嘘の皮にきまっているが、嘘であるぶん、当時の感覚をそのまま反映していると考えられる。
 洒落本としてはかなり長い作品で、玉菊が廓に入るまでの話だけで短編に匹敵する長さである。
 お玉(のちの玉菊)は5歳のとき、貧しい実の父親から、子のない茶屋の夫婦へと引き取られる。そのときのお玉の描写が興味深い。「なりは木綿の賎しけれども、卵を剥きたるごとき幼な子にて、どことなく嬌態(けだかく)、げに栴檀は双葉よりかんばしきと」。現代、5歳のガキのありさまを「嬌態」と書き、しかも「けだかく」とふりがなをつけるのは、真性のロリ小説だけだろう。
 お玉は15歳まで何事もなく、茶屋の娘として育つ。彼女に言い寄る男のなかでナンバーワンは、ブルジョアの一人息子の滝三郎である。いきな美男で、本好きなお玉のために新刊を買ってきたりしている(ただし自分では読んでないらしい)。彼はあるとき流行り病に倒れて、数ヶ月ほど伏せった。ようやく回復してお玉のところを訪れると、彼女の両親は流行り病で亡くなっており、彼女自身は行方が知れないという。滝三郎はお玉を探し、吉原で傾城(廓のコア・コンピタンスを構成する女郎)になっていることを探り当てる。
 探り当てたときの滝三郎の反応が興味深い。「そいつァどふぞ行つて、買いてえもんだ」。なにしろ、「女郎は醜業」という発想がまったくないので、こういう反応が当然のものとして出てくる――と、話には聞いていたが、本当だった。

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2004年09月26日

Noel

 テレカとメガネゲイにつられて、『Noel』というエロゲーを手に入れた。
 まだ開封していない。ちなみに、『サフィズムの舷窓アンエピック』と『処女宮』がまだ積んである。ううう。

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2004年09月25日

紹介

最近目からビームが出た新技術(というほど新しくもないが)を2つご紹介する。

AspectJ

 JavaVMはまあまあよくできているが、Java言語は三つの理由でクソである。「多重継承ができない」「オブジェクトの破棄がガベージコレクタでしか行われない」「Genericsの機能が乏しい」。ちなみに私は、Genericsの仕様を聞いた瞬間に、Java言語に見切りをつけた。Genericsの仕様を決めた連中には、easyとfool proofの違いがわからなかったのだろう。
 が、AspectJは、「多重継承ができない」という欠陥を克服するとともに、他の欠陥を補えるほどのeasyさを提供してくれる。もちろんfool proofなどひとかけらも配慮されていない。
 読者諸氏が、たとえいままでJava言語と縁がなくても、ぜひ上の記事を一読されたい。私の場合、これを知らなかった過去の自分が、馬鹿にしか見えない。

PyDev

 EclipseのPython環境である。
 EclipseだからといってJythonではなく、CPythonを使っている。マルチスレッドの取り扱いがスマートなのが嬉しい。コード補完はまだないが、CVSとの連携やEclipseへの慣れを考え合わせると、非常に優れた環境である。

 よく考えたら、「オブジェクトの破棄がガベージコレクタでしか行われない」というのはJavaVMの問題だった。
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2004年09月23日

女郎の誠

 『洒落本大成』29巻「つづれの錦」について。
 廓の客の心得を説く本である。「通はアホ」「おとなしくしていろ」「女郎は大変なのだから誠を求めるな」といった、ありきたりのことを書いている。「女郎に誠はない」→「それは廓のせい」→「女郎はかわいそう」という例のコンビネーションも当然出てくる。
 「女郎に誠はない」という問題系は、明治維新のあと次第に失われ、「女郎は醜業」という問題系にとってかわられた。ここではコンビネーションは、「それは廓(=国家公認の管理売春)のせい」→「廓をなくせ」というパターンになる。このコンビネーションは戦後、芸娼妓契約無効判決および売春防止法として結実し、いま一部のマスコミでみられるような「明るい自由売春」のイメージへとつながっている。
 「女郎は醜業」という問題系をどう評価するにせよ、「明るい売春」という結末は、発展的かつ進歩的である。では、「女郎に誠はない」という問題系はなにを生み出したか。
 なにひとつ――「廓とはこういうところ、女郎とはこういうもの」という認識のほか、なにひとつ生み出さなかった。
 近世はけっして凍りついた時代ではない。吉原は、誕生から幕末までのあいだずっと、大衆化しつづけていった。しかしその間を通じて、「女郎に誠はない」という問題系にはなんの発展も起こらなかった。
 「女郎に誠はない」のような発展性のない問題系は、まだどこかにたくさん転がっているはずだ。そのような発展性のない問題系を覆すのは、問題系のなかで機能する反論ではなく、別の問題系だ。それは必ずしも、透徹した認識にもとづくものではないだろうが(廃娼運動家の認識の狭さには驚くばかりだ)、この世を前に進ませる。
 百合もまた、この世を前に進ませる問題系であると、私は確信している。

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2004年09月21日

資本と労働

 『洒落本大成』29巻を読んでいる。洒落本を集めた全集で、29巻には天保以降のものが収められている。
 「傾城秘書」が面白い。人気女郎の口を借りて、「私が惚れさすのはお客を私に惚れさすのではございません、お客をお客に惚れさせ自身をおのれに惚れさすゆえに、そこで私と深くなります」という心得を女郎に説く本である。
 が、面白いのは、心得の内容そのものよりも、この心得を語る口調から透けて見える回転率至上主義だ。
 女郎にとって回転率は、客筋ほど重要なファクターではない。けちで嫌な客は、労多くして実り少ない。必要な程度の回転率が確保できているなら、こういう仕事は蹴って、もっとましな客が来る可能性に賭けつつ体を休めるほうがいい。「もっとましな客」のなかには、身請けしてくれる客が含まれていると思えばなおさらだ。
 が、「傾城秘書」で心得を説く女郎は、正月から大晦日まで一日もお茶挽く間もなく繁盛している、と書かれている。さらに、ケーススタディの終わりはすべて「足ちかしちかし」となっている。
 どう考えても、「こんなに回転率が上がりました」という話よりも、「こんなに客筋がよくなりました」「これで私は身請けされました」という話のほうが女郎をひきつけるはずだ。
 「傾城秘書」の価値観は、女郎のものではなく楼主のものではないか。巻末の「女郎衆敬(つつしみ)の事」で長々と心中を戒めているのを見ても、楼主の論理を強く感じる。
 女郎の読み物が、楼主の論理で書かれているという矛盾。
 この件に限らず、近世の出版文化には、女郎自身の価値観を反映した言葉がひどく少ないように思える。なにもアムネスティの肩を持つわけではないが、闇は沈黙を語るのだ。

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2004年09月20日

まんが版『ぽぽたん』

 時空を超えて旅する三姉妹が、ゆく先々で輝かしい友情(もちろん相手は女)を結んだり、姉妹愛を確かめあったりする話である。
 こうしてあらすじを書けば、素晴らしい百合に見える。が、事実はそれほどでもない。見どころはあるが不完全燃焼だ。特に後半(2巻)が悪い。眼鏡男が登場するシーンはほぼ全部不要だ。百合的に不要なだけでなく、物語上の害悪でもある。
 眼鏡男は、三姉妹の葛藤を先取りして演じている。こういう先取りは、葛藤を途方もなく安っぽくする。問題を、発見されるものではなく、予定されたものにしてしまうからだ。これはちょうど、俳優が、相手役のアクションより先にリアクションをしてしまう光景に似ている。「これは筋書きのある作り物です」ということを、声高に雄弁に表現している。
 とはいえ、捨ててしまうにはあまりにも惜しい。寛容な心で、よいところを楽しみ、悪いところに目をつぶって読みたい。esbooks

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2004年09月17日

梯子を外されたときには

 人や組織の強さを測る方法は数多いが、「二階に上げて梯子を外す」ような行動は、強さの証拠としてかなり有力である。しがらみを断ち切る力があるということだからだ。梯子を外せなくなったら、人は老いてゆくほかなく、政権は打倒されるほかない。
 さて、外す側は強いのでいいとして、外された側はどうするか。
大量破壊兵器の発見断念でも「攻撃支持に問題なし」
 そのうちブッシュ政権が「イラク攻撃は国際法に反していた」と認めたら、「憲法上の観点からも問題ないと判断した」と釈明してくれるにちがいない。
 これは、どう贔屓目にみても、模範解答ではない。「よくも梯子を外してくれたな」と言わんばかりの、負け犬の答案である。
 「米国の主張を疑うに足る情報を収集する能力がなかったので、米国との信頼関係にもとづいて攻撃を支持した。判断の基礎となる主張が覆されたので、攻撃支持は撤回する。イラク復興支援は攻撃支持とは趣旨が異なるので問題ない」くらいが正解に近いと思う。
 いまさら支持を撤回しても大したことは起こらないし、騙されたなら騙されたと認めるほうが印象がいい。情報収集能力の欠如を理由にあげれば、その方面の予算を増やす口実になるので、一部の人々に喜ばれる。イラク復興支援と攻撃支持を別物とするロジックを、ここで生かさない手はない。
 秋の臨時国会で、政府がどういう答案を書くか、注目してゆきたい。

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2004年09月13日

WiX

 しばらく前に、「MS初のオープンソース」として話題になったWiXが、かなり使えるようになってきている。何をするものかというと、Windows Installerのファイル(MSIとマージモジュール)を作るものだ。
 他のソフトでは、マージモジュールやカスタムアクションは秘儀に近いが、WiXでは作りやすい。Visual Studioが吐いたMSIファイルをOrcaでいじって地獄めぐりをするよりは、WiXに挑戦することをお勧めする。
 GUIエディタはないので、見栄えのするインストーラを作るのは簡単ではない。また、Windows Installerのアーキテクチャに慣れていないと、ドキュメントに書いてあることがまるで理解できないだろう。

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2004年09月10日

ただ栄光のためだけに

 新千円札の肖像が野口英世になると発表されたとき、ずいぶん問題になったらしい。なにしろ、科学者としての評価がゼロに近い。
 しかし私は、これもそう悪い選択ではないと思う。
 まず、仕事のよしあしと名誉が無関係であることを、子供たちが知るきっかけとして優れている。
 来年の夏休みには、小学生の自由研究のテーマとして、「野口英世の生涯」が流行するだろう。かつては、小学生が読める範囲の本には、美談でまとめた野口伝しかなかったが、今はインターネットがある。おそらくは、かなりの確率で、野口が科学者としてはほぼゼロであることを知る。
 直接の利害関係のない他人は、人の仕事のよしあしなど、まったく気にしていない――単純な真理である。ディズニー式の綺麗事ばかり子供に見せたがる今の世の中では、こういう真理に触れる機会は貴重だ。
 また、科学者の仕事は一切評価しない、という政府の姿勢が好ましい。
 評価とは介入であり口出しである。事情通や野次馬ならまだしも、スポンサーである政府に評価されてはたまらない。「金は出すが口は出さない(たとえ出してもたわごとなので誰にも相手にされず、口をつけて出した金はシグマ計画のごとく何ひとつ残さず消え失せる)」という政府の姿勢表明として好意的に受け取っておきたい。
 もちろん、以上の議論は「よかった探し」のたぐいであり、損得勘定をすれば損になるだろう。
 だが野口は、有名な日本人科学者のなかではおそらく誰よりも強く、名誉を望んだ。あの世で彼がどれほど喜ぶかと思えば、多少の損には目をつぶってやりたい。

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2004年09月09日

誰も考えつかないことをするのが大好き

ハエを食べて燃料にするロボット
 パタリロはいるよ。ここにいるよ。

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2004年09月07日

史実の肩の上で

 いわゆる偉人伝のたぐいから、野口英世はすっかり姿を消してしまった。
 いうまでもなく、野口英世の業績のほとんどは、よくて間違い、おそらくは捏造だ。新千円札は、虚栄心にこりかたまった彼の魂を、大いになぐさめてくれることだろう。
 しかしかつては、こうした事実は、野口が偉人伝の主人公になることを妨げなかった。
 講談では清水次郎長は、カタギに迷惑をかけるどころか、身を挺して助けるということになっていた。このとき聴衆が、「現実の次郎長」なるものと区別された「講談の次郎長」を思い描いていた、と考えるべきではない。講談の聴衆にとって、「現実の次郎長」は存在しなかった。ありうべき次郎長だけが次郎長であり、「現実の次郎長」なるものを想定する意義はなかった。古い常套句にたとえれば、「現実と空想の区別がつかない」のではなく、そんな区別をつけることがナンセンスだった。
 このような精神のもとでは、野口が偉人伝の主人公であっても、なんの不都合もない。実際、多くの野口伝が、このような精神にのっとって書かれたはずだ。
 むしろ問題は、なぜこのような精神が失われたのか、という点にある。
 義理人情を謳いあげる感動的な講談の次郎長に背を向け、くだらない悪党だった「現実の次郎長」なるものを優先する(そしてその結果、次郎長の物語が無意味になり失われる)ようになったのはなぜか。なにが人々をそのように変えたのか。
 答は単純ではないだろうが、もしこの傾向が続くとしたら、50年後の日本文化は様変わりしているはずだ。
 たとえば、忠臣蔵は清水次郎長と同じ運命をたどるだろう。史実を物語に優先させるのなら、「徳川綱吉を討つべきだった」という評価から逃れることはできない(だから歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、このへんの経緯をすっかり創作している)。しかも忠臣蔵は自爆テロリスト賛美という点でも問題がある。
 ちなみに私は、清水次郎長も忠臣蔵も野口英世も大嫌いなので、こういう変化は大歓迎である。世の中は年々よくなっている。

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2004年09月05日

かなりや

 スティーブン・ローウェンスタイン編『マイ・ファースト・ムービー』から引用する。203~205ページ。

 ――初めてあの映画を見た撮影所の反応はどんなでしたか?
 あまり感心していなかったね。電話が鳴って「やあ、バリーか、いい映画だったよ」なんて言ってはこなかったということだ。そのかわりこう言ってきた。「編集をもっと勉強しなきゃだめだ」「そうかもしれないが、例えばどうやればいいのか教えてくれないか?」「じゃあ、ひとつだけ言おう。若者がローストビーフ・サンドイッチを頼むところがあるだろう? 奴はそれを食べるのか食べないのかどっちだ? あんなのは無駄なんだ。切ってしまうんだ。ストーリーを語るんだよ」。私は答えた。「でも、あれがストーリーなんだ。あれがあの映画の大事なところ、ああいう人間関係がね」。楽しくない話し合いだった。それからあの映画をいろいろな都市で上映し、観客に感想を書いてもらった。とくに好評とはいえなかった。まあ、そこそこという程度。こりゃ大ヒットになるぞと撮影所が興奮するような映画にはとうてい思えなかった。そういうことがあったあとで、フェニックスとセントルイスとボルティモアで封切りした。入りはよくなかった。撮影所としては、こんな代物はスクラップして葬ってしまえという考えに向かっていったようだ。

 ――それではどのようにして、私たちが現在知る、そして愛する『ダイナー』になったのでしょうか?
 批評家のジュディス・クリストがタリータウンでセミナーを開いていた。あるときMGMの映画を何かかける予定を組んだんだが、準備が整わなかった。MGM / UAのスコット・マクドゥーガルが、彼は『ダイナー』を気に入ってくれたすばらしい奴なんだが、ジュディス・クリストにこう言った。「バリー・レヴィンソンの新作をやってみたらどう? 彼はメル・ブルックスとシナリオも書いているから、メル・ブルックスの映画をかけることだってできるよ。それに『ジャスティス』のシナリオも彼だから、ノーマン・ジュイソンとアル・パッチーノのあの映画だって見せればいい。それに『サンフランシスコ物語』だってそうだ。だから彼がシナリオを担当したこういう映画に、今度監督した映画を加えて、それで週末のセミナーを組めばいいじゃない」ってね。ジュディス・クリストはその言葉にのった。でも、そのためだけに私をニューヨークに飛ばすことに撮影所は消極的だった。いまさらなんだ。余計な物入りじゃないかってわけだ。それに批評家連中に『ダイナー』を見せたくもなかったんだな。

 ――批評家に見せたくなかったんですって?
 そう、あの映画は、いわばもう過去の遺物だったからだ。埋葬も済んでいた。スコット・マクドゥーガルがやったことは、あの映画をニューヨークにもってくることだった。そして会計課への口実として、レヴィンソンが当地でセミナーをこなし、他にも宣伝活動をすると言ってくれた。ところが撮影所のほうは関知していない。右手と左手がてんでバラバラに動いているようなものだった。スコットは上層部の意向にはかまわず、ニューヨークで批評家に『ダイナー』を見せた。ポーリーン・ケイルや「ローリング・ストーン」誌だったかな。そしてとてもいい手ごたえを得た。
 私のほうはジュディス・クリストのもとに行き、週末のセミナーに加わった。ポーリーン・ケイルをはじめとする批評家が、映画はいつ公開されるのか、批評を載せるのだからと問い合わせてきた。いつまでたっても撮影所のほうが返事をしないから、しびれを切らしたケイルは、映画が劇場にかからなくても批評は載せると言ってきた。「ローリング・ストーン」誌のマイケル・シュラーゴーも、いずれにしても自分の批評は載せると言ってきた。MGMは赤っ恥をかきたくなかった。それで五七丁目の〈フェスティバル〉にかかっていた自社の映画、あと一週間の予定だったんだが入りのよくないその映画を引っこめ、替わりに『ダイナー』を入れることにした。火曜日に『ダイナー』が五七丁目の〈フェスティバル〉で金曜から始まると知らせをうけた。最初の広告が木曜日にできあがった。「明日『ダイナー』公開」というようなやつだ。そうやって金曜日に初日を迎え、ポーリーン・ケイルの評が「ニューヨーカー」に、そして「ローリング・ストーン」にも評が載った。「ニューヨーク・タイムズ」も絶賛していた。
 初日の金曜、興行成績もよかった。そうしたら翌日の土曜の夜が暴風雨になった。そのときのことは忘れられない。私はシェリー・ネザランド・ホテルに泊まっていて、そこからは五七丁目と五番街の交差点が見えた。そのとき私はシドニー・ポラックと仕事をしていた。ちょうど彼が『トッツィー』の準備にかかっているときで、その手伝いをしていたんだ。で、ホテルの窓から行列は見えないかと眼をこらすんだけども、まだ夕方で映画館の前にはどこにも行列なんてできていない。シドニーはなぐさめてくれた。「寒いなかでも人は並ぶ。でも、雨はだめだ。雨のなか行列に並ぶ人間はいない」。そう言ってやさしく声をかけてくれたんだが、「これで終わった」と私は思っていた。一晩だけだった。あの映画を見たい人間は全員もう見てしまった。だから土曜の今日は誰もいないんだと。食事に出かけなくちゃいけなくて、劇場の横を車で通ったが、誰ひとりあたりにはいない。行列なんかなくて、猛烈な雨と風だけ。で、マークと食卓につくと、〈フェスティバル〉に立ち寄ったかと訊く。そんな気になれなかったと答えると、売り切れだという。そんなはずはない。誰も来てはいなかったのに。彼の話はこうだった。あそこには地下があって、劇場側はやってきた人をみんなそのなかに入れていた。彼が一〇時に行ってみると売り切れになっていたと。そして翌日の日曜日、昼の回は売り切れ。そのまま全日売り切れとなった。月曜も好調。するとMGM / UAの人間が四〇〇〇くらい上がりがあればね、そうすればひょっとしたら……なんて言いだした。火曜日には雪が降ったが、大入り満員。そうして二週めの週末を迎え、劇場記録を塗り替えた。

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2004年09月03日

なぜアトランティスは戦士ばかりなのか

 昔、『ムー』のような雑誌の文通欄で、「前世」が流行したことがある。前世での所属や手がかりなどを述べ、前世の仲間を探すという遊びだ。私はあいにく実物を見たことがないが、前世の職業として「戦士」が目立って多かったという。
 しかしこれは考えてみると不思議だ。日渡早紀『ぼくの地球を守って』は前世ブームのあおりを食って評判になった作品だが、これに登場するのはエンジニアと自然科学者である。最近ではエロゲーの『白詰草話』の主人公が自然科学者だ。転生が物語上の鍵になる作品で、前世が戦士という例は、セーラームーン以外には思い出せない(そしてセラムンは前世ブームの影響を受けている)。
 過去の超文明なるものを想定し、その記憶を持つ人物を登場させるなら、エンジニアと自然科学者になるのが素直な発想だろう。なぜ戦士なのか。
 近い過去の「戦士」の実例をみても、心躍るような代物ではない。たとえば今から4000年後、現在と断絶した文明が築かれている世界で、「次のキーワードに心当たりのあるかたご連絡ください:ベトコン、サイゴン、ナンバー・テン」などと文通欄に書いてある光景を想像してみていただきたい。
 ここにはなにかしら、人間の本性に根ざしたものが潜んでいるように思える。
 これは私の当て推量だが、おそらく人間は、戦場を退屈なものとして認識することが苦手なのだ。文明がまだなく、戦いがすべて奇襲と遭遇戦だった時代の名残を、DNAに残しているのかもしれない。

Posted by hajime at 20:51 | Comments (1)

2004年09月02日

なにもしないでいてほしい

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040901-00000120-kyodo-soci
 この男性助手(39)の学会発表が新聞で報道されたことがある(2002年6月3日の日記参照)。その発表内容のあまりの馬鹿馬鹿しさとセンセーショナリズムに肝をつぶした私は、「こういう手合いには、たとえ金を出してでも、なにもさせないでほしい」と書いた。
 が、この報道を見るかぎりでは、どうやらそれは無理な相談だったらしい。
 世界中で数億人がかりで人体実験を始めてから10年以上になるが、現在のところ健康被害は確認されていない。被爆から発症までに潜伏期間があると仮定しても、有害説はきわめて疑わしい。

Posted by hajime at 06:33 | Comments (0)