2005年12月31日

冬コミ御礼

 冬コミにて香織派のスペースを訪れてくださった皆様に厚く御礼申し上げます。
 グレゴリオ暦で新年を祝われる皆様におかれては、新年も中里一と香織派をよろしくお引き立てください。

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2005年12月29日

冬コミのお知らせ

 西在家香織派はコミックマーケット69にサークル参加します。2日目の東メ-45bにて皆様のお越しをお待ちしております。
 体調不良のため、予定していた評論の新刊は出ません。
 新刊は小説『のばら級』のコピー本です。『のばら級』は、『小説JUNE』2002年1月号に掲載された作品です。

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2005年12月25日

萌えるポインタ

 何年くらい前のことだったか。入門書のような本のタイトルを、『萌える××』とするのが流行ったことがある。おそまきながら、このパターンで作ってほしい本を思いついた。『萌えるポインタ』だ。
 登場人物は以下のとおり。
 
・アドレスたん:貧乏なロリ少女
・ポインたん:アドレスたんがモビルスーツを装着した姿
・スタックたん:最初はお嬢様だったが、のちには武装ゲリラに
・参照たん:お嬢風のロボ少女
 
 外せないポイントは以下のとおり。
 
・モビルスーツのカタログと薀蓄
 「IBMのシステム/38は、ハードウェアでポインタを保護しています。この仕組みは普及しませんでした。けれど今でもPOWERシリーズのCPUには、ポインタ保護機構が組み込まれていて、i5/OSはそれを使っているのです」
 
・スタックたんの果てしなきゲリラ戦
 「スタックたんを愛して助けてくれる人は、今でもたくさんいます。スタックたんは、そういう人々に支えられて、今日もあちこちで破壊工作を続けています。たとえば最近では、Java VMに潜入して、JavaChipを粉砕しました(オペランドスタック)。携帯電話のJavaが遅いのは、スタックたんのおかげです。もちろん.NET Frameworkにもスタックたんは忍び込んでいます(評価スタック)。次なるスタックたんの活躍を、もうじき見られるはずです」
 
・参照たんの成長物語
 「そんな参照たんを、ムーアの法則がそっと見守っていました。命令の並列実行と動的最適化はいつか、参照たんを誰よりも速くするだろう、と」
 
 また、私は疎いのでわからないが、Lisp関係にはネタがたくさん転がっているだろう。
 本の最後はこんな感じだ。
 「こうして、Java VMの参照には、『なにも指さない参照』という特別な参照ができました。なにも指さないので、この参照を使おうとすると、エラーが起こります。
 参照たんは言いました。『こんなエラーには、私の名前はふさわしくありません。そもそもJava言語を関数型言語にすればよかったのに』。
 そこで誰かが、眠っていたポインたんを起こして、そこに座らせました。エラーの名前は、『java.lang.NullPointerException』。それは、Java VMで一番よく起こるエラーなのです」

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2005年12月23日

1492:15

 萌えについて。
 「愛」という言葉はどうも高飛車だ。「純愛」くらいまでいって、ようやく親しみがわいてくるが、それでもまだお高くとまっている。
 その点、「萌え」はいい。その安っぽさがいい。
 安っぽく言わなければ、真実にならない。そういう気持ちが、人間にはある。

 
                        *
 
 陛下はドラマを求めておられる――それが橋本美園の言い分だった。
 「陸子さまは、うちの子に手を出してないの。着せるものに凝って、若いの揃えて、きれいどころばっかり12人もいるのに」
 それでは、美園さんの目の前にいる人物のことは、どうお考えでしょう――そんな質問がしたくなった。
 「平石さん以外は中学生ではありませんからね」
 「どうして中学生なんだと思う?」
 「それは、なぜ陛下は同性愛なのか、と訊ねるのと同じことではないでしょうか」
 「陸子さまは中学生でないと立たない――いやこれは物の喩え。とにかく、そういうかただと思う?」
 「……いいえ」
 「うちの子は、不純な動機で来た子も多いの。国王の愛人になってみたい、っていうのが。でもみんな討ち死にしてる」
 身から出た錆とはいえ、陛下は大変な目に遭われているらしい。
 「選り好みしておられるのでは」
 「そんなかただと思う?」
 「……それほどでもないでしょうね」
 「好みはおありだけれど、控え目でプライドが高くて上品な人、くらいでしょう。でもそんなの、うちの子は半分以上がそう。
 じゃあ、どうして、いままでのうちの子だとダメで、平石さんならいいのか」
 平石緋沙子との特別な関係は、醜聞になり、ドラマになるから――それが橋本美園の言い分だった。
 「女中頭としては、手をこまねいてはいられない、というわけですね」
 女中頭は、公邸内における非公式な人間関係に責任がある。
 「いいえ」
 あっさりと橋本美園は答えた。
 「この程度のことは、平石さんを雇ったときから了解が取れてるの。ほどほどに悪さをするのも、国王の仕事のうち、ってこと。
 問題は、私の感情。
 陸子さまのお相手は、ひかるさんでなきゃ嫌」
 私は、先日の彼女の言葉を投げ返す。
 「『萌え』ですか」
 にこやかにかわいらしく、橋本美園は答える、
 「なめんなよ」
 「……なにを、でしょう」
 「萌えを。
 ひかるさんのために今の仕事と旦那を捨てられるか、って言われたら、無理。だけど、ひかるさん萌えのためなら、できる気がする。この怖さ、わかる?」
 「よくわかりません」
 「愛と正義の怖さは知ってる?」
 「少しは」
 どちらも、人をのっぴきならないところに追いやってしまう力だ。
 愛の大きさは比較することができない。だから聖書の羊飼いは、迷子になった一匹の羊を追って、他の99匹の羊を置き去りにしてしまう。
 正義は永遠に変わることがなく、棚上げにすることもできない。だから聖書のヨブは、神の気まぐれによる試練に耐えつづける。
 「萌えって、愛と正義のことだからね。怖い怖い」
 「……そう言われると、わからないでもありません」
 「ひかるさんはさっき、萌えをなめてた。なめんなよ、ってこと。
 ――で、陸子さまとキスしたご感想は?」
 予想していたので、驚きもない。
 「カマをかけないでください」
 「ずいぶん芸のないとぼけかたするじゃない」
 「では、凝ってみましょう。
 身に覚えのないことですが、美園さんがそうおっしゃるのですから、事実なんでしょう。だとすると、どうやら私は二重人格のようです。感想は、もうひとりの私に聞いてください」
 「へー。そういうことにしときましょうか。
 もうひとりのひかるさんに、アドバイス。
 キスしてくれたから大丈夫、なんて思ってないでしょうね? 逆。危険地帯に踏み込んだ。ドラマの舞台にひっぱりあげられちゃった。
 舞台に立ってるのが、陸子さまと平石さんだけなら、あんまり盛り上がらない。二人とも失うものがない。二人がどうなっても、ひかるさんは護衛官をやめないでしょ? 陛下は国王をやめない。平石さんが公邸のお務めをやめても、いい経験だった、で済んじゃう。
 ひかるさんが舞台に上がったおかげで、陸子さまはひかるさんを失う危険を背負った。これでこそ、ドラマってもんよ。
 この設定から、どういう筋書きになると、一番ドラマチックだと思う?」
 まんが家くずれの意地がある。私は真剣に考えた。
 考えて、気づいた。
 陛下はドラマを求めておられる。橋本美園の言い分は正しい。最終面接のときの、陛下のお言葉――『ひかるちゃんの言うとおりだね。そういうこと想像すると、気持ちいいよ』。
 「まず、平石さんが陛下に殺意を抱いて、刃物で刺そうとする。その身代わりに私が刺される。私は平石さんをかばって、犯行をなかったことにする。そのせいで手当てが遅れて死ぬ――といったあたりでしょうか」
 「ナルシストだね。
 ひかるさんがそんなんじゃ、こりゃ、なるようにしかならないかな」
 橋本美園はあきれ声で言った。けれど、その顔は笑っていた。これはこれで萌えているらしい。
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2005年12月17日

1492:14

 この連載も長くなった。1クール終わったということで、総集編ならぬ、「ここまでのあらすじ」を載せておこう。
 
 主人公・設楽ひかるの主要諸元は以下のとおり。
・高校1年生
・なんちゃってメンヘルで心療内科に通院中
・3年前から非合法のSMクラブでS嬢のバイト。稼いだ金はスーツケースに突っ込んで放置
・学校には真面目に通学
 ひかるはある日、珍しいプリクラをとりに入ったゲームセンターで、ふとシューティングゲームをやってみる。彼女は自分の才能を感じてそのゲームにはまり、3日後には全国2位のスコアに達する。
 彼女は知らなかったが、このゲームは、宇宙連邦軍(地球人はその存在を知らない)が密かにパイロット候補を集めるための端末だった。彼女は、地球から持ってゆく荷物として、金の入ったスーツケースを選ぶ。もし軍でムカつく奴に会ったら、頭から札束をぶっかけてやるためだ。
 配属先の上官・橋本美園が昔の常連客だった、などのエピソードのあと、初めての実戦で、彼女は戦果をあげるも窮地に陥る。しかし敵はとどめを刺さずに去ってゆく。その敵とは、ひかるの高校の生徒会長にして異母姉の、波多野陸子だった。
 このショックから、ひかるはなんちゃってメンヘルをこじらせ、軍規を無視して自室にこもり、札束遊びに熱中する。上官の美園はこれを放置できず、彼女を営倉送りにするが――
 
 なお、このあらすじはフィクションであり、本連載やフィガロとはなんの関係もありません。

 
                      *
 
 夏休みが終わったばかりとはいえ、土曜日のディズニーランドは混んでいる。それでも、大物のアトラクションを2つ回るくらいはできた。
 「ご飯食べて帰ろうか」
 橋本美園は、腕時計を見てつぶやいた。昼食どきには、レストランの行列に並ぶ気になれず、空きっ腹を抱えてアトラクションを回っていた。
 「ここで食べるんですか?」
 「外で食べるの面倒くさい」
 行列はもうはけていた。いつもの習慣で、私は先にレストランに入って、橋本美園を招き入れた。国王が女性の場合、護衛官は文字通りエスコート役を務める(『護衛』『警護』は英語ではescort)。
 「ここだけレディ・ファーストじゃないの?」
 アトラクションに入るときはすべて橋本美園を先に通していた。
 「マナーでは、レストランだけ例外なんです」
 何気なく答えてから、気づいて、複雑な気持ちになった。『レディ・ファースト』といっても、私も女だ。
 「知らなかった。やっぱり私マナー弱いわ」
 「メイドは、エスコートすることもされることもありませんからね」
 「平石さんは、マナー強そうだな」
 緊張が走った。
 席に案内されるあいだに、頭を切り替えた。
 「一緒にお仕事なさっていると、わかりますか」
 「ローカルルールはいちいち瀬戸さんに質問して確かめてるって」
 瀬戸は儀典担当のメイドだ。
 公邸には、ヨーロッパや日本の一般的なマナーとは異なるローカルルールが多い。主に歴史上のいきがかりが原因だ。たとえばメイドが、職位にかかわらず全員同じ制服を着ていることも、公邸独特のものだろう。
 「このあいだ彼女の私服姿を見ましたが、いいものを上手に着ていました。
 黒づくめの格好で、手袋をはめていたんです。肘まで隠すようなのを。感動しました。私にはあんな格好はできません。暑すぎて」
 「痩せ我慢が得意そうな顔してるもんね、平石さん」
 「この時期のロンドンはもう涼しいでしょうから、そのつもりなのかもしれません」
 「こっちでも、夜だけなら着られないこともないんじゃない?」
 「私に着せたいんですか? では、今日のお礼に、オペラにでもお誘いしましょうか」
 「ひかるさんはオペラなんて、警護でたくさん見てるでしょ」
 「だからといって、夜の散歩では、ディズニーランドのお礼にはなりません」
と、私は話題を戻した。
 「楽しい散歩だったみたいね?」
 「そうですね。ずいぶん久しぶりでした。女の子に、好きだと言われたのは」
 私は橋本美園の反応を楽しんだ。武術の達人のような、ゆったりとした鋭い視線で、私の表情を読んでいる。あの誇り高い、くもりのない顔をしている。
 「……相手があの子でなければ、私もそんなことを言われてみたいものでございます」
 言葉遣いが変わったことに、彼女自身は気づいているだろうか。
 「そんなにお嫌いですか。私の目には、素直な子にしか見えません」
 「私の懸念を申し上げましょう。
 陸子さまはおそらく、あの子を使って、醜聞を作るおつもりです」
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巫女ナースやシスターナースは必要だ

 病院を退院した。
 旅行でも、病院でも、はたまた監獄でも、日常から離れるのは面白い。監獄や病院には、面白いではすまないことが待ち受けているわけだが、とりあえず今は面白いことだけを見よう。
 人生観が変わった、とまではいかなくても、思うところ、感じた点は色々ある。
 まず、ナースの衣装に飽き飽きした。
 美しいし、好きだが、もういい。一生分たっぷり見た。「巫女ナースやシスターナースが現実にいてもいい、いや、いてほしい」と本気で思った(いまでも思っている)。個室に1日1万円は出せないが、巫女ナースやシスターナースになら、ありうる。
 入院していると、美しいものを目にする機会が少ない。美に飢える。これはなによりも辛い。身体がいうことをきかないとか、給食がまずいとか、辛いことをあげればきりがないが、ほとんどのことは耐えられる。だが、美しいものを見られないのは、本当に、耐えがたい。それで病院内でほとんど唯一の美しいもの、つまりナースを見るわけだが、それだけを見ているので、飽きる。
 (いま自分で書いていて気づいたが、上の文中の「美しいもの」は、「美しい女性」と書き換えたほうがよさそうだ。絵画や茶道具や風景には用はない)
 その裏返しとして、街をゆく女性の美しい衣装に、見とれるようになった。
 こんなに美しいものを、漠然と見過ごしていたのか――どうにもこうにも、目を離すのが難しい。やばい人である。
 さらに、その結果、売買春についての考えが変わった。
 以前は、売買春など、別の惑星のことだと思っていた。売買春の何がどうなろうと、私には関係のないことだ、と。だが今では、無関係とは言っていられない。
 いったい日本のGDPの何パーセントが広義の売買春なのだろう。調べても数字が出てこないところをみると、世界に誇れる値ではないらしい。売買春に流れる金のうちかなりの割合は、売春者本人の懐に入る。この金は、本人の身を飾るために使われる割合が、かなり高い。しかもこの金の分配は、美しい女性に厚く、そうでない女性に薄く、というやりかたでなされる。もし、こうした金の流れがなかったら、私の人生はどれだけ味気ないものになっただろうか。
 わかりやすく言うと――電車の中で、美しい女性を見かけて感動したら、実はその人は売れっ子のキャバ嬢で、そのとき着ていた服も、キャバクラの稼ぎがないとなかなか買えないような代物だったとしら?
 美は、交換価値や尺度ではなく使用価値であり、絶対的なものだ。抗生物質が素晴らしいように、ディオールのAラインは素晴らしい。「誰も感染症の特効薬なんか持ってないから」という理由では、感染症の患者を慰めることはできない。同様に、「誰も美しい服なんか持ってないから」などという言い訳は成り立たない。
 そんなわけで今の私は、売買春に否定的な見解を抱くことができない。人生観が変わったと、言えば言えるだろう。

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2005年12月13日

1492:13

 2次元で美しく見えるものと、3次元で美しく見えるものは、ずいぶん違う。
 パフスリーブは違いの典型例だ。パフスリーブに限らず、大げさに体の線を隠すような手は、現在の3次元にはありえない。だから、2次元から3次元に起こしたメイド服(ということになっている衣装)のなかでは、『これが私の御主人様』のものが一番美しい。デコルテに自信のない皆様には悪しからず。
 とはいえ共通点も多い。2次元では、髪型や冠などで、頭に突起(ただし垂直でないもの)をつけるという手がよくある。3次元ではほとんど見かけない手だが、数少ない実例のひとつが、ナースキャップだ。ナースキャップはかぶるものではなく、髪にヘアピンで固定してあり、後方への突起を形成している。これは3次元でも美しい。

 
                       *
 
 翌朝のブリーフィングの終わりに、遠野さんが私に告げた。
 「女中頭からの言付けです。
 明日の朝9時、公邸事務所の第一会議室までご足労いただけないでしょうか。場合によっては、夕方までお引き止めするかもしれません。もし先約があれば遠慮なくお断りください――とのことです。
 いますぐお返事をいただけるなら、女中頭にお伝えします」
 明日は土曜日だから、警護はない。護衛官も公務員、基本的に週休二日だ。先約もない。
 「行きます」
 私は名刺サイズのメモを受け取った。財団職員がアポイントメントの管理に使うものだ。
 陛下にくちづけたことが知られた、とは考えづらい。それに客観的には、女同士で一回キスしたくらいなら、なにもかまうことはない。
 問題は、平石緋沙子のほうだろう。TVとヘリの件で、ずいぶん噂が広まったはずだ。それに昨晩、陛下はどのように夜を過ごされたのか。いままでのところ、陛下がメイドに手をつけたという話は聞いたことがないが、私に聞かせないようにしているだけかもしれない。
 
                       *
 
 公邸事務所は、受付もない小さな建物だ。私の官舎から歩いて5分、目立たない平屋建てが、職員寮と駐車場に囲まれている。
 私は久しぶりに髪を降ろし、スカートスーツを着て家を出た。こんなときでもないと、こんな格好をする機会がない。誰かに見せたかったが、あいにく誰ともすれちがわなかった。
 橋本美園も、いつものメイド服ではなく、かっちりとしたビジネススーツを着ていた。といっても彼女の場合、公邸で制服に着替えるのだから、いつもこういう姿で通勤しているのだろう。頭にカチューシャがないと面変わりして見える。
 「おはようございます」
と言いながら私が会議室に一歩踏み込むと、挨拶も抜きに、
 「平石さんをどうお思いですか?」
 鋭い視線だった。私の言葉よりも反応が見たかったのかもしれない。
 「子供です。かわいい子です」
 「そうですか」
 言って、橋本美園はにっこりと笑い、
 「これからディズニーランドはいかがでしょう?」
と、ディズニーランドの前売りパスポートを2枚、差し出した。
 
 私はいったん官舎に戻って、カジュアルなものに着替え、メイクにも手を加えた。
 外に出ると、橋本美園はもう着替え終わって、官舎の前で私を待っていた。緑色の平凡なセダンが、橋本美園の車だった。
 「あれ、眉まで変えたんだ? もしかして気合い入ってる?」
 橋本美園の言葉遣いが変わったので一瞬とまどったが、カジュアルな格好であんな敬語を使うほうがおかしい。
 「あまり遊びに行かないぶん、精一杯やろうと思いまして。こんなおめかしも久しぶりです。おかしくありませんか?」
 「その顔だと、うちの子みたいよ。大丈夫、まとまってる。
 ひかるさん、免許持ってるよね?」
 「ええ。でも、公務以外では運転しません。免停にでもなったら公務に差し支えますので」
 公務といっても、年に一度、実技研修でおさらいする以外はハンドルを握らない。私の運転免許は、緊急時に備えてのものだ。
 「なるほどね。帰りは運転お願いしたかったんだけど。でも、運転しないんなら、どうやって出かけるの?」
 「友達が迎えにきてくれるか、歩いてバス停まで行きます」
 「それじゃ遊びに行くのも大変だ。ご飯は――寮の食堂だっけ」
 財団の職員寮の食堂で、私の食事も作ってもらっている。
 「買い物は通販ばかりです」
 公邸周囲の検問は厳重だ。女中頭と護衛官といえども顔パスではない。トランクやエンジンルームはもちろん、全員いったん車から降りて身体検査され、バッグの中も調べられる。
 2度の検問を通ると、外に出た、という感じがする。
 「ひかるさん、さっきと今とで、メイクがぜんぜん違うよね、眉だけじゃなくて。案外おしゃれなんだね。私はこんなんよ」
 見たところ、さっきと違うのは、チークとハイライトとマスカラだけだ。
 「もとがきれいな人のほうが、おしゃれが苦手といいますから。
 だからというわけではありませんが、私が『案外』おしゃれ、というのは心外です。警護のときの格好は野暮ったいでしょうか」
 「フォーマルだからわかんなかった」
 「あれはずいぶん工夫してあるんです。シャツのカフリンクスとか、カラーピンとか。よく見てください」
 「ネクタイなんていつも紺の水玉模様じゃない」
 「TVに映るときに多いだけです」
 格式の高い場に出るときには、無難なものを選びがちになる。
 「スタイルだって別人みたいだし」
 「警護のときはシャツの下に、防刃防弾チョッキを着ていますので」
 「それで野暮ったくなるのか! ひかるさん、そのチョッキをなんとかしなきゃ。もっと体に合うようにできないの?」
 「あれでもだいぶよくなったんです。もともと柔軟性のない素材なんです。
 橋本さんの――」
 「美園! み・そ・の!」
 「――美園さんのメイド服にも、いろいろご苦労があるかと思いますが」
 「あれはね、いじっちゃいけないの。似合わない子は半年我慢。
 もうすぐ衣更えか。カチューシャはあんまり変えないでほしいのよ。いまのは前のよりよくとまるんだわ」
 公邸のメイド服は、衣更えのたびに、ワンピース以外のところ(エプロン、カチューシャ、カラー、カフスなど)が新しいデザインに変わる。
 「あの髪飾りは重そうですね」
 金銀と玳瑁で薔薇をかたどった、女中頭のしるしだ。
 「左右非対称に重量がかかるしね。油断してるとすぐカチューシャがずれる」
 「女中頭が油断していると、すぐに人目につくわけですか。よくできていますね」
 「そんなこと陸子さまが考えてたと思う?」
 「では、美園さんの発明でしたか」
 「うはっ、護衛官の毒舌がきたよ」
 私はマスコミには『傲慢』『毒舌』で知られている。私は軽く受け流して、
 「ワンピースが新しいデザインになるのは、いつでしょうね。私は前のパフスリーブのほうが好きでした」
 メイド服のワンピースは、去年の冬から、夏冬ともにすっきりと肩の線を出すデザインになった。
 「あれはね、評判悪かった。うちはスタイルに自信のある子が多いから。ああいうのって、自信のないとこを隠すにはいいんだけどさ。顔が大きいとか、肩がダメとか。
 ま、うちの子の言うこときいてると、メイド服じゃなくなっちゃうけどね。肩出しにしろとか、ミニスカにしろとか。それじゃフレンチメイドだよ」
 公邸のこと、陛下のこと、財団のこと。話すことはいくらでもあった。
 ただ、平石緋沙子のことだけは、話題に出なかった。
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2005年12月12日

人生の明るい面

 私にはクリスマスプレゼントをくれるような人はいないので、なんでも好きなものをねだることができる。
 もしくれる人がいたら、なんでも好きなものを、とはいかない。その相手との関係や、相手の財力に配慮しつつ行動せざるをえない。だが私は自由だ。人生は惑星のようなもので、朝はこないかもしれないが、明るい面なら必ずある。
 では具体的にねだってみよう。
 
第一希望: ロイヤルドルトンのフラテーションのティーセット一式
 ロイヤルドルトンからFlirtationで検索すると見つかる。現物は、東京では、高島屋タイムズスクエアに置いてある(ただしカップ・ソーサーとプレートだけ)。
 ロイヤルドルトンとしては安物らしいが、美しさと値段は比例しない。
 
第二希望:ロイヤルコペンハーゲンのグリーンフルーテッドのティーセット一式
 ロイヤルコペンハーゲンの新作らしい。一般的にいえば、第一希望よりもギフトに向いている。相手が持っていないことは確実だし(新作だから)、ネームバリューもある。
 現物は池袋西武で見られる(ただしカップ・ソーサーだけ)。
 
 さて、サンタクロース様におかれては、カップ・ソーサーだけをくれるというような貧乏たらしい真似をなさらないよう、くれぐれもお願い申し上げます。

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2005年12月07日

1492:12

 昔話をしよう。
 およそ20年ほど前、人々は、事あるごとに「かわいい」と言った。
 もちろん今でも人々は「かわいい」と言うが、「かわいい」の否定的な面を避けながら、あるいは当てこすりとして、使っている。20年前の「かわいい」には、ほとんど否定的な面がなかった。それは無内容な肯定を示す言葉だった。
 人間の心性が移り変わるように、言葉の意味も移り変わる。
 だが、言葉の字面には、変わることのない本質が潜んでいるように思えることもある。
 もちろんその本質も、歴史的かなづかいと新かなづかいのような断絶があれば、失われるのだが。

 
                         *
 
 晩餐会はなにごともなく終わり、私は陛下をお部屋までお送りする。
 エレベーターのドアが開くと、遠野さんが待っていた。すぐに部屋まで案内してくれるものと思ったが、遠野さんは一礼すると、小さなメモを開いて、言った。
 「財団の法務部からメッセージが届いております。平石緋沙子の件です。
 労働法の規制のため、平石さんの就労は午後9時までとなっております。平石さんは、あくまで陸子さまのご友人として、こちらにお泊りになられます。
 もう午後9時を回っておりますね。ですから明朝までは、平石さんにはお言いつけなどは一切なさらないでください。不当な労役とみなされる可能性があります。
 よろしいでしょうか?」
 「はーい。
 もし私がまずいことしたら、すかさずフォロー、お願いね」
 「かしこまりました」
 部屋にゆく。今度は警護部の担当者はいない。引き継ぎや報告などのほかは、警護部はできるだけ姿を見せずに活動する。
 「ひさちゃーん?」
 陛下がお呼びになると、見慣れたメイド姿の平石緋沙子が、うつむきかげんの姿勢で出てきた。
 「最初に申し上げておきます。昼間のTVのあれは、財団の広報のかたの指示に従ってやったことです。まるきり嘘ではありませんが、まるきり本心でもありません」
 そう言った平石緋沙子の顔は、真っ赤だった。
 「いっぱいリハーサルさせられたんでしょ? わかってるって。
 でも大丈夫。まるっきり嘘でも、ひさちゃんはちゃーんとかわいいよ!」
 「まるきり嘘ではありません」
 陛下はソファにお座りになった。
 「自分のできばえ、ビデオで見た? 見てないでしょう。あれ辛いよね。でも見ないと上手にならないから、いっしょに見よう?」
 その誘いに、平石緋沙子は体をびくっと震わせて、言った。
 「ここは観光地とうかがっておりますが、私はここに来てから一歩も外に出ていません。私は勤務中ではありませんので、自由に行動させていただきます。
 設楽さま、もしよろしければ、散歩におつきあいくださいませんか?」
 平石緋沙子は、すがるような目で私を見た。
 ついさきほどの陛下のお言葉を思い出す――『うわ、ひさちゃん、すごいなー。魔性の女だ。ひかるちゃんを取られちゃうかも』。
 それで、陛下のご様子をうかがう。私と目があうと、陛下は微笑まれた。
 「喜んで。散歩に行く前に、平石さんは着替えたほうがいいでしょう」
 「はい。少々お待ちください」
 平石緋沙子は寝室に入った。
 「陛下の前でも無愛想な子ですね。陛下のようなかたですと、扱いづらいのでは?」
 「扱いやすい中学生なんて、こっちが気を遣っちゃうしー。
 でも、どうして、ひかるちゃんを散歩に誘ったんだろうね? お友達なんだ?」
 「消去法でしょう。遠野さんはまだお仕事ですし、陛下をお誘いするわけにはゆきませんし」
 「ふーん?」
 そのとき、平石緋沙子が私服に着替えて出てきた。半袖のブラウスに、肘まで被う手袋、ブーツにミニスカート。ベルトとポーチとブーツだけが赤く、ほかはすべて黒。手袋のほかはどれをとってもオーソドックスなもので、流行のかけらもないのに、しゃれている。
 「お待たせしました。参りましょう」
 
 田舎だけあって、夜空が暗い。星がよく見える。虫の声だけが聞こえる。
 部屋を出てから一言も口をきかずに、平石緋沙子はずんずんと歩いていた。
 と、立ち止まる。
 「ごめんなさい。私なんかと散歩なんかさせたりして」
 「私は、嫌なことは嫌だって言えるつもりだけど。
 星は見えるし、静かだし、涼しいし。ご機嫌な散歩じゃないの。あとは、平石さんがご機嫌なら、申し分ないな」
 「……はい」
 ゆっくりとした足取りで歩きはじめる。
 「平石さんに嫉妬したら、そのことを隠さない、って約束したよね。
 このあいだ気がついたこと。平石さんは陛下に、『ひさちゃん』って呼ばれてるでしょう。ほかのお側仕えの人は、私以外はみんな苗字にさん付けなのに。平石さんは私とおなじに呼ばれてるんだと思って、嫉妬した。
 もうひとつ。陛下が平石さんの出たTVを、ビデオでご覧になったとき、私はその場にいたの。平石さんに電話なさったときにもね。陛下が大喜びなさったから、嫉妬した。
 平石さんは、最近どう?」
 「設楽さまって、敬語でなくてもしゃべれるんですね」
 「別人みたい? だったら、敬語にするけど」
 「今のほうがいいです」
 「そう」
 歩みをゆるめて、うつむいて、平石緋沙子は言った。
 「……陸子さまと、しっくりいかないんです」
 「どうして?」
 「陸子さまって、なんでも大袈裟で。私を恥ずかしがらせるのが、すごくお好きで。さっきだって、私の出たTVを一緒に見ようだなんて、おっしゃったじゃないですか。
 だから私、陸子さまにいつも、憎まれ口みたいな突慳貪なことばかり言ってしまって。さっきだって、あんなこと。
 陸子さまがもっと落ち着いたかたなら、私だって素直にしていられるんです」
 「陛下が嫌なんだ?」
 「いいえ!」
 歩くスピードが急に速くなる。
 「……いえ、よくわかりません」
 また遅くなる。空を見上げて、
 「昔は陸子さまに憧れていました。夜空の星みたいなかただと思っていました」
 あんな賑やかなおかたの、いったいどこが夜空の星なのか。もしかして文通の手紙が、そういう誤解を誘うようなものだったのだろうか。
 「でも今は、身近すぎて――うまく言えません。
 ……変な話になっちゃいますけど。
 マンガなんかの話で、主人公の片腕が、別の生物やなにかに乗っ取られる、っていうのがあるでしょう。あれみたいな感じです。身体のどこかを、陸子さまに乗っ取られたみたいな気がします。
 なにをしてるときでも、『陸子さまはどうおっしゃるだろう』とか、『陸子さまはどんなお顔をなさるだろう』とか、考えずにはいられません。陸子さまのお側にいないときは、ずっとそうなんです。そのうち身体のどこかが陸子さまになってしまいそうです」
 平石緋沙子の言いたいことは、わかるような気がした。
 「きっとそれだから、平石さんは、陛下にかわいがっていただけるんでしょうね」
 「どういうことですか」
 「どうって――」
 わかりきったことを説明するのは難しい。私にとって陛下のご気性は、ひらがなの字の形と同じくらい、わかりきったことだった。
 「――陛下はナルシストであられるから。
 ただし、自分の姿を鏡に映すんじゃなくて、自分の心を他人に映すの。他人は、自分の心を映す鏡だから。他人という鏡を使って、自分の心を眺めるのが、とてもお好きなかた。
 平石さんは鏡に使われてるから、片腕を乗っ取られたみたいに感じるんでしょうね」
 「設楽さんはどうなんですか?」
 「私は――乗っ取られるほうじゃなくて、乗っ取るほうかな。
 自分が、陛下の身体の一部になってるような気がする。自分の背中から電線がのびてて、陛下につながってるんじゃないかって気がする」
 「わかりました」
 平石緋沙子は歩みを止めた。
 「設楽さんに嫉妬するのは、もうやめます。設楽さんは、陸子さまの一部だと思うことにします。
 だから私、設楽さんのことも好きです」
 陛下の一部――さっきまでなら、そのとおりだったかもしれない。けれど、今は。
 私はその躊躇を隠した。
 「ありがとう」
 「帰りましょう。陸子さまがお待ちだと思います」
 平石緋沙子はきびすを返すと、足早に歩きはじめた。
 私よりいくらか背の高い、平石緋沙子の後ろ姿。それを、かわいい、と思った。
 姿が美しいことは、一目見たときから知っている。笑顔の鮮やかさも、心の素直さも知っている。けれど、このかわいさは、それとは質が違う。
 『かわいい』。それは、そう言われた人よりも、言った人のことを表現する言葉かもしれない。私は、平石緋沙子のことをかわいいと思う、そんな人間だということだ。
 「……そうだ。平石さんにもうひとつ、嫉妬。
 今晩、陛下のお側で過ごせるなんて、うらやましい」
 「毎日ずっと陸子さまとご一緒のほうがうらやましいです」
 私は小さく笑って、
 「嫉妬するのはやめるんじゃなかったの?」
 「――やっぱり嫉妬します。私があさはかでした」
 
 「今日もありがとうね、明日もよろしくね。おやすみなさい、ひかるちゃん」
 「おやすみなさいませ」
 平石緋沙子と一緒に陛下のお部屋に戻り、お暇を乞うと、陛下はあっさりと私を送り出してくださった。
 お部屋には遠野さんはいなかった。もう自分の部屋に下がっているのだろう。陛下と平石緋沙子は、どんな夜を過ごされるのか。
 ドアが閉まったあとも、立ち去りがたくて、何秒かその場を動けずにいた。もし警護部が監視しているのでなければ、もうしばらくそのままでいたかもしれない。
 振り向いて、ドアを開けて、夜伽の役を私にくださるよう陛下にお願い申し上げる――そんな空想を振り切って、私はホテルの廊下を歩いていった。
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2005年12月05日

Binary 2.0

 まさか誰も言わないだろうと思っていた。Binary 2.0、そんなものがあるとすれば、それはWindowsのことだ。
 Windows 3.1とOLEに始まる12年の歳月を、MSが無駄に費やしたとお考えなら、いますぐに「私は馬鹿です」と顔に書くべきだ。非Windows陣営が同じ歳月をほとんど無駄に費やしたからといって、MSも同じだと考えるのは、まさに馬鹿のしるしである。
 OLEに始まる一連のバイナリコンポーネント技術(COM、ActiveX、etc.)のなかで、MSは、コンポーネントを単一ベンダがバイナリで配布することによって生じる可能性を追求し、実現してきた。その全貌はとうていここで書ききれるものではない。その成果は、正しく理解して運用すれば、きわめて魅力的なものである。無数の野良ビルドの発生を防げないオープンソースにとっては、致命的な躓きの石にもなりうるほどだ。
 「どこに革新が? たいがいはマイクロソフト」という問答は、バイナリにおいて特にあてはまる。
 だから、Binary 2.0などとは、誰も言わないだろうと思っていた。だが誰かが言い出したからには、私も言わなければならない。Binary 2.0、それはWindowsのことだ。

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2005年12月03日

1492:11

 リップグロスについて。
 ここ数年で急速に普及したので、目では覚えていても、名前を知らないかたも多いだろう。これは唇を飾る化粧品の一種で、ゼリーのような光沢と透明感のある仕上がり(通称「ぷるぷる感」)が得られる。
 光の反射が命なので、表面を別のものでカバーすることができず、したがって落ちやすい。

 
                    *
 
 「私の服の匂いを、かいでるときみたいに。
 ――そう。そういう顔」
 いま私には、陛下のお考えが、手に取るようにわかる。
 陛下は、平石緋沙子を引き合いに出して、私が陛下にとって大切な存在であることを強調なさった。ご自分の孤独と不安を、卑下することなく主張なさった。私の言い訳がましい態度を叱って、私から言い訳を奪っておしまいになった。
 私は陛下を大切に思い、陛下も私をそう思っておられる。だから私は、陛下の孤独と不安を、和らげてさしあげたい。その思いをかきたてられた矢先に、なにも気づかないふりをすることはできない。
 さきほどお叱りを受けたばかりなのに、言い訳を口にすることはできない。このことが公になれば私は辞任を免れない、などと言えば言い訳になる。
 そしていま、私の異常な行動を思い出させることで、陛下は私を動かそうとなさっている。
 動かされるべきではない。私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことではなくても。
 そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。
 イタリア・ルネサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。
 さようなら、私のフィレンツェ。
 私は陛下を抱きしめた。甘い匂い。あたたかい。手が震える。
 体中が思うように動かない。陛下の唇は、すぐそこに目に見えているのに、うまくたどりつけない。闇の中ではいずりまわるようにして求め、探りあてる。
 ふと自分の興奮が恐ろしくなって、顔をそらし、陛下の肩の向こうへ逃げた。
 「ひかるちゃんから、キスしてくれたね」
 「はい」
 「ひかるちゃんて、自分からするタイプじゃないでしょ? ごめんね、無理させちゃって」
 「いえ、素敵でした」
 「ひかるちゃんからしてもらうのが、夢だったの。ひかるちゃんみたいな完全に受けの子が攻めるのって、すごいツボなんだ」
 陛下はいつものペースをまったく崩しておられないようだった。
 「お気に召していただけましたか。無上の幸いでございます」
 「顔、見せて?」
 私は間近に陛下と見つめあった。
 「私のリップグロス、ちょっとついてる」
 そうおっしゃって陛下は、私の下唇のふちを、指でなぞり、つまんで――愛撫なさった。
 体のなかで、背中の下や下腹のあたりで、衝動が高まる。けれど、なんの衝動なのか。
 「私は不調法なもので、陸子さまをどのように喜ばせてさしあげたものか存じません。おかしなことをするかと思いますが、そのときにはどうぞお咎めください」
 自分のジャケットのボタンに手をかけると、
 「ひかるちゃん、いま脱ぐのはやばいよ? 遠野さんが戻ってくる」
 「……はい」
 「おあずけのできないひかるちゃんには、つらいかな? がまんできる?」
 「……はい」
 ふと、右手の指先が、陛下の腕に触れていることに気づく。私の指は、その腕をたどって、陛下の手にたどりつき、その指に絡みついた。
 「えらいなー。我慢できないって言ったら、おりこうさんにできるように、しつけてあげたのに」
 「実を申しますと、無様なところをお目にかけずにすんだもので、胸をなでおろしております」
 「あーっ、かわいくなーい」
 陛下は、絡まっている私の指に、爪をお立てになった。ふたたび衝動の波が押し上げる。
 「ひかるちゃんは、おすまししてるときよりも、さかってるときのほうが、かわいいの。我慢してるとさらにかわいさアップ」
 「はい……」
 「でも我慢してるだけじゃ、だめだよね。
 匂いをかぐだけなら、脱がなくてもできるよ?」
 「はい」
 私は、匂いをかぐのにいい位置を探した。が、
 「せっかくのお心遣いですが、お顔の化粧品の匂いが気になって楽しめません」
 陛下は香水のたぐいをいっさい用いられないが、化粧品には、かすかながら香りがついている。さきほどお召し替えになったばかりのブラウスも、匂いを吸い込んで弱めている。
 「うーん――」
 陛下は悩ましげに口をへの字になさり、それから意を決したように視線をまっすぐになさって、
 「ひかるちゃん、パンツの匂いは好きじゃないんだ?」
 「……考えたこともございません」
 護衛官は、外出先でのお召し替えをお手伝いすることがある。私が陛下のぬくもりや残り香を楽しんだのも、そういうときだった。が、下着までお召し替えになることはなく、当然その残り香も楽しんだことがない。
 が、いま想像するかぎりでは、ワンピースやブラウスの残り香を楽しむことにくらべると、それはあまりにも冒涜的に思われる。
 「やっぱり引いてるー。
 でもね、ひかるちゃん。私とエッチするときは、私のおまんこなめるんだよ?」
 ……。
 …………。
 ………………。
 「――努力いたします」
 「考えたことなかったでしょ? 完全に受けだもんね、ひかるちゃんて。
 でも、そういう私も、考えたことがないのでした!」
 陛下は明るくお笑いになり、
 「ひかるちゃんがスカートだったら、パンツをとりかえっこするんだけどなー」
 「素敵なお考えですが、このあと晩餐会のためにお召し替えがございますので、遠野さんに気づかれます」
 「あーあ、お仕事モードに戻っちゃった」
 陛下は席を立たれて、向かい側のソファにお座りになった。
 「我慢してるひかるちゃんはかわいいけど、お仕事モードのひかるちゃんは、素敵だよ」
 「お褒めにあずかり光栄です」
 「でも」
と、陛下は唇のそばに指をあてられて、
 「人のグロスがついてると、まぬけだね」
 私はあわててトイレに立った。その背後で陛下が、
 「……って、私もついてるかな? やばいやばい」
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Posted by hajime at 21:05 | Comments (0)

2005年12月01日

おおつやすたか『まるくすタン ~学園の階級闘争~』

 えんげるすタンがまるくすタンに尽くす第1部。
 れーにんタンがハーレムを作る第2部。
 資本=モテ。
 嘘ではない。本当にそういう話だ。
 本当にほかに書くことがないので、まるくすタンになったつもりで、資本=モテという見立てについて考察してみよう。
 恋愛についての物象化が著しい今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。
 この世には、言わないための言葉というものがある。「ソリューション」がその典型だ。この言葉は、実装について言わないときに使う。「スキル」もその同類で、やるか・やらないかを誤魔化したいときに使う。「スキルがある」と「やる」の関係は、ソリューションと実装の関係に等しい。前者について語るのは、基本的に時間の無駄だ。
 コンピュータとクライアントは最終決裁者である。最終決裁者の前に立つプログラマは常に真実を突きつけられている。やるか、やらないか。真実はそれだけだ。ここには物象化が入り込む余地はない。
 さて、恋愛には、こうした最終決裁者がいない。
 正確には、「恋愛」と一般化した瞬間に、いなくなる。AさんとBさんの関係なら、常に決裁されつづけている。つまりAさんとBさんは常に真実を突きつけられている。しかし、「恋愛」一般には、そんなものはない。
 この根無し草の「恋愛」という概念を、当然のものとして受け入れたとき、あなたもまた根無し草になる。根無し草には自分の価値観がないので、噴飯物のふざけたでっちあげを、当然のこととして受け入れるはめになる。このでっちあげのピラミッドの頂点には、「クリスマスイブには彼氏がいて、そいつとデートしなければならない」というテーゼ(通称「イブ彼デート」)が燦然と輝いている。
 注意しなければならないのは、このピラミッドの裾野の石は、さほど馬鹿げては見えないということだ。イブ彼デートは笑わずにいるほうが難しいが、「恋愛にはコミュニケーションスキルが必要」というテーゼを批判するには、かなりの批判能力を要する。
 では、このピラミッドはなぜ建設されたのか。
 この種のピラミッドはいったん建設が始まると、それ自身の矛盾の限界まで突き進む。矛盾の限界がイブ彼デートだ。この建設のメカニズムは資本主義についてよく研究されている。この点において、資本=モテという見立てには説得力がある。
 しかし、建設自体についてわかったとしても、まだ疑問は残る。
 ピラミッドのネタは、恋愛や貨幣に限らず、根無し草ならなんでもいいのか、それともなにか必要条件があるのか。また、ピラミッド建設の最初のきっかけはなんなのか。
 どちらも一般論としては巨大なテーマであり、ここでは到底論じられない。恋愛にかぎっても、最初のきっかけは手に余る。ここでは、必要条件の一部を指摘するだけにとどめたい。
 真実を恐れる心――それが人を、イブ彼デート信仰へと導く。
 この真実とは、AさんとBさんの関係のことではない。もちろん、ピラミッドの中にある概念(モテる・モテない)でもない。
 ピラミッドを建設して覆い隠そうとする真実、それは、誰がどんなことをしてくれても、あなたは孤独だということだ。

Posted by hajime at 20:37 | Comments (0)