William Dementによれば、英国の平均的な生徒たちは、ヘイスティングスの戦いは1066年、ということのほかに、歴史についてほとんど何も覚えていないという。
日本の平均的な生徒たちは、コロンブスのアメリカ大陸到達は1492年、ということのほかに、世界史についてほとんど何も覚えていないだろう(それさえも大いに怪しいが)。
私としては、コロンブスよりも、1492年のほうを覚えていてほしい。
1492年には、コロンブスだけでなく、多くの重要な出来事があった。たとえばスペインのユダヤ人追放が1492年である。
*
私が21歳のとき、前国王陛下が亡くなられ、国王抽選会が開かれた。
私は、父が市役所に勤めていたので、王位継承者会に入らされていた。継承者になって初めての抽選会だった。
もし国王に当選したら、どうするか。
抽選会前の継承者なら誰でもそうするように、私もそのことを考えて、決めていた。『即位する』。それが私のひそかな決心だった。
私はそのとき、どうにも行き詰まっていた。
高校を出て、まんが家のアシスタントになってから3年。まんが家としての私は、3年前から、ほとんど前進していなかった。いや、5年前からかもしれなかった。
才能がないとは思わなかった。それだけは一度も思ったことがない(マスコミが私をけなすときには、いつも決まって『傲慢』と書く)。運がないとも、あまり思わなかった。ただ、それを見逃しているとは思った。
『現在、米国には15世紀のフィレンツェの人口の約1000倍の人々が住んでいる。1000人のレオナルド、1000人のミケランジェロが私たちのなかにいるはずだ。DNAがすべてを支配するなら、今日私たちは毎日のように素晴らしい芸術に驚嘆しているはずではないか。現実はそうではない。レオナルドがレオナルドになるには、生まれながらの能力以上の何かが必要なのだ。1450年のフィレンツェが必要なのだ』。
こんな風にはっきり考えていたわけではないけれど、行動すべきだということは、はっきり感じていた。ただ、どうすればいいのかが、わからなかった。私のフィレンツェがどこにあるのか、見当もつかなかった。
もし国王になれば、そこがフィレンツェではないにせよ、少なくともこの行き詰まりからは逃れられる。
虫のいい願いだ。けれど、きっとたくさんの人々が、こういうことを漠然と思っている。でなければ、千葉人があんなに国王抽選会に熱中するはずがない。
国王抽選会は、朝の10時から始まり、王位を引き受ける当選者が現れるまで続く。国王財団理事長、労働党第一書記、木更津新報主筆、この三人がサイコロを振って、当選者番号を決める。当選した継承者のところにTVカメラが駆け付け、王位を引き受けるかどうかをインタビューする。イエスならその場で当選者が即位する。返答がノー、あるいは当選者が登録した住所にいなければ、またサイコロを振る。
私は、千葉人なら誰もがそうするように、国王抽選会の様子を自宅のTVで見ていた。
ひとりめ、ふたりめ、三人目と、即位を断ってゆく。みな中高年の男性だった。四人目はお年寄りの女性で、画面に映った瞬間、もしかして、と思った。前国王陛下もその前も、70歳近いお年寄りだったのだ。が、次の瞬間、きっぱりと即位を断る声が流れた。
当選者が辞退するごとに、緊張が走る。次は自分の番かもしれない――私も、そう思っていた。
五人目は若い女性だった。ノー。六人目は中年の男性。ノー。
午後3時を回り、TVのリポーターが交代した。新しいリポーターの、緊張した声が流れる、
『私の継承者番号は6465-1143です。もし私が当選したら、当選者探しがゼロ秒で済んでしまいますね。ちなみに、もし私が当選したら、ぜひ王位を引き受けさせていただきます』
三人が同時にサイコロを振り、地区番号が決まる。地区番号5426、千葉市三石区三石1~3丁目。その地区を紹介する映像とアナウンスが入り、それに続いて、ヘリからの中継映像が流れる。戦前に宅地として開発され、いまでは高級住宅街になっているとのこと。
『この地区の着陸ポイントは、三石小学校の校庭ですね。いま、安全を確認中とのことです。あっ、もうすぐ着陸するようです』
陸軍の輸送ヘリが着陸し、TV中継をするワンボックスカーが中から出てくる。
『いま、1丁目町内会の会長さんと電話がつながっています。もしもし?』
そうこうしているうちに準備が整い、個人番号(下四桁)のサイコロを振るときがきた。
4221。
中継車が走り出し、街路を縫って目的地へと向かう。新しい当選者の住所へ。
当選者の家は、お屋敷だった。緑の芝生の西洋庭園が、TVにちらっと映る。
TVを見ていて、待ち構えていたのだろう、すぐに当選者が玄関先に現れる。私と同じくらいの歳の女の子だった。室内着だろうか、高そうなカーディガンを着ている。
当選者はマイクを向けられ、あのアニメ声で、第一声を発した。
『国民の皆様、はじめまして。私は波多野陸子と申します。
ただいまより、国王を務めさせていただきます。
皆様、私とともに、誇り高い千葉を目指しましょう』
私は、なんとなく納得のいかない思いで、陛下のお顔を見つめていた。
そのときはっきりそう考えていたわけではないが、納得のいかない思いというのは、つまるところ――どうして私でないのだろう。
マスコミの報道ラッシュの第一波は、陸子陛下の珍しい生い立ちに注目したものだった。当時のTVのワイドショー流に、陛下の生い立ちをたどってみよう。
千葉市子供の家の前に捨てられていた、女の赤ん坊。生みの母親からのメッセージはなにもなかった。名前さえ。『陸子』という名前は、千葉市の福祉課長補佐がつけたという。
その子供の家の職員が当時、インタビューに答えている。
『見た目はいいし、頭もいいしで、それだけでも目立つ子でしたが、それ以上になんといっても、口の達者な子でした。それも、人を丸めこむんじゃなくて、敵と味方を作る子でした。
あの子が9歳かそこらのころでしたね。いじめっ子のグループが、あの子に意地悪したことがありまして。それであの子が、いじめっ子らを罵ったんです。
子供の家では、まあ、ほかの子を罵るなんてのは、よくあることです。子供ですから、本当に容赦がありませんよ。罵る相手の親兄弟や友達まで、徹底的に悪く言うんです。聞いてるとひどいもんですが、そのほうが暴力沙汰にはなりにくいんで、私らはほっときます。
でも、あの子の場合には、いけなかったですね。子供がいくら罵詈雑言を並べ立てたって、5分も続きやしないもんですが、あの子は味方を集めて盾にして、1時間くらいやっていました。私はちょっと聞いただけですが、まあ、大人だって頭にくるような、レトリックというんでしょうかね。いままでほかに聞いたことがないような、すさまじいものでしたね。
そうしたら、家の子がみんな影響されて、いじめっ子らの側とあの子の側の二手に分かれてしまって、いまにも殺し合いを始めそうな雰囲気になってしまって。いじめっ子らに謝らせて、その場を収めたんですが、あとあとまで尾を引いて、結局あの子が波多野さんに引き取られるまで、続きましたね』
このインタビューは生放送で、そのあと二度と放送されなかったが、私は覚えている。その顔と声は、トラブルメーカーへの憎しみを、はっきりと浮かべていた。
子供の家での生活のあとは、全国小学生弁論コンクール優勝のエピソードが続く。
陸子陛下は10歳のとき、まだ小学5年生でありながら、全国小学生弁論コンクールに優勝なさった。コンクールのテーマは、「正義と平和」。その弁論の様子がビデオに記録されており、何度もTVに流れたが、いつも冒頭の『耐えることは恥ではありません』という一言までしか放送されなかった。護衛官になったあとで、その理由がわかった。国王は、政治的な信念のようなものは、必要なときまで出さずにおくのだ。政治家は自分の主張によって支持を集めるが、国王はただ国王でありさえすればいい。政治的な信念は邪魔になることもある。
全国小学生弁論コンクールの優勝がきっかけで、陛下は11歳のとき波多野夫妻の子になり、子供の家から引き取られた。
波多野夫妻は当時、千葉で9番目の資産を誇る資産家だった。恵まれた環境のもと陛下は、中学と高校で優秀な成績を修められ、千大法学部に進学なさった。
陛下のご学友としてマスコミに登場した人はみな、この時代に陛下のお側にいた人だ。陛下の驚異的な記憶力と読書量、人をそらさない魅力、細やかな気配りを、申し合わせたように称えていた。
そんなとき私は、護衛官募集の広告を目にした。
表向きの動機はあった。まんがを描くうえで、実物の千葉国王を見ておくことは、いい経験になる。陸子陛下のドラマに満ちた人生にも、興味があった。陸子陛下のいわゆるアニメ声には賛否両論あったが、私は好きだった。そしてこれは文句なしに誰もが認めていた、愛らしい美貌も。
もうひとつ、誰にも言えない動機があった。
当選などありえない国王抽選会、採用などありえない(はずだった)護衛官募集。どちらでも私は、私のフィレンツェを探していた。
いま、ここは、私のフィレンツェなのだろうか。わからない。けれど私はいつのまにか、そんなことを思わないようになっていた。
Continue
落ち着き払った姉歯氏の顔を見ていると、考えさせられる。こういう秘密を告白するときには、どんな顔がふさわしいのだろう。
想像してみた結果、あれでいいのだということになった。多少の想像力がある人間なら、あれ以外の反応はできない。本人にとっては、すべて予想済みの展開なのだ。飽き飽きしている、という顔が正しい。
同じような例として、大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件(井口俊英『告白』)がある。巨額の簿外損失を隠し続けていた本人は落ち着いたものだった。
社会主義国の主人公は労働者ということになっている。
この「主人公」とはどういう意味か。
たとえば、労使対立というものはなく、賃金交渉もない。労働者が主人公だからだ。そのため労働者はみな国の言い値で働く。
たとえばTVでは、工場やコルホーズを取材する果てしなく地味な番組が、延々と流されている。誰も、労働者自身も、そんなものを見ない。
*
明日はぜひ平石緋沙子に会おう――しかし朝のブリーフィングで、その希望はかなわないとわかった。
陛下のスケジュールは、安全上の理由から、ほとんど秘密にされている。重要な行事のほかは、直前になってから出席や参加が発表される。秘密にする相手には、一般の国民だけでなく主催者も含まれ、さらには護衛官さえ含まれる。護衛官が陛下のスケジュールを知らされるのは、当日の朝のブリーフィングのときだ。
それでも、たいていの日は、公邸から出て公邸に戻る。だから公邸に戻ったときに、平石緋沙子に会おうと思っていた。
が。
外房のリゾートホテルの開業式に出席するため、午後から現地に飛び、一泊する。それが今日のスケジュールだった。
午後1時、公邸そばの陸軍基地から、ロシア陸軍のヘリで移動。
午後2時、地元の市長や有力者とともに、ホテルの施設や、近くの名所を見学。
午後4時、陛下の逗留される部屋へ。このあとは、7時からの晩餐会まで、なにも予定が組まれていない。晩餐会は陛下のスピーチもない。気楽なものだ。
ホテルの部屋へ向かうエレベーターのなかで、私とふたりきりになったとき、陛下はおっしゃった。
「こういうホテルって、緊張しない? お金持ちっぽいから」
「陛下のご実家も、こことそう違わないように思いますが」
「うん、だからね、いっつも緊張してたよー? ありえねー、って感じ。シンデレラの服と馬車、って感じ」
陛下のご両親は、11歳のとき、陛下を引き取って親となられた。
陛下はそれまでは、千葉市の子供の家(孤児院)におられた。陛下は捨て子だった。『陸子』という名前は、千葉市の福祉課長補佐が、本人の顔も見ずにつけたのだという。
「公邸はいかがでしょう?」
「実家より落ち着くよ。古臭いところがいいよね! 雨戸とかトイレとか。
お風呂が離れにあるのもポイント高いでしょう。冬なんか、お風呂上がりに渡り廊下を歩くから、凍えそうになったりとかね」
エレベーターを降りると、お側仕えのメイドがひとり待っていた。彼女の先導で廊下を歩いてゆく。その先のドアの前に、財団の警護部の担当者二人が立っていて、「異状ありません」と私に告げた。それを聞いて私が合図すると、先導してきたメイドがドアを開ける。
「晩餐会の時間にお迎えにあがります」
「ひかるちゃん、これから忙しいの? ね、遊んで遊んで!」
「では、お招きにあずからせていただきます」
室内に入ると、太平洋と海岸線が目に飛び込んできた。
ホテルの外壁に沿った、細長い弓型の部屋で、部屋の中央に立つと、左右の視界が180度を超える。ここの夕日は素晴らしい眺めだろう――と一瞬思ったが、外房だから朝日しか見られない。
陛下は見晴らしのよい景色を好まれる。しばらくのあいだ、その場に立ったままで、景色を楽しんでおられた。
「……これで夕日が見れたらなー」
「私はさきほど、ここの夕日を想像してしまいました」
陛下は声を立ててお笑いになった。そこへメイドが、
「陸子さま、お召し替えを用意してございます」
「あ、待たせちゃってごめん」
メイドがジャケットとスカートを脱がせ、ブラウスのボタンを外す。
私の目はいつのまにか、そのブラウスに吸い寄せられていた。
「ひかるちゃん?」
いつもと少し調子の違う、陛下のお声。
「はい」
「なんでもない」
そのお顔も、いつもよりまぶたが重そうで、そう――あのときのお顔だった。
見抜かれている。
コットンのサマーセーターと、足が透けて見えるほど薄いスカートを召されると、陛下はソファにお座りになった。私は向かい合わせに座る。
陛下は、人と相対するとき、机やテーブルを挟まないようになさる。この部屋も陛下のお好みにあわせてある。テーブルが、ソファそれぞれの左右に置いてあり、前にはない。
「こーんないい部屋に、ひとりで泊まるのかー。つまんないの」
「では私の部屋にいらっしゃいますか?」
冗談だった。が、陛下ははなはだ真剣なお顔で、
「いく」
「もっとも、本当に陛下がいらっしゃいましたら、警護に大穴を開けたということで、私は辞任しなければならないでしょうが」
「あーっ、すぐそういうこと言うんだ。かわいくなーい」
メイドが茶器をテーブルに並べてゆく。少し遅いが、おやつの時間だ。
「平石緋沙子は最近どうしていますか? 夢の中学生メイドのご感想は」
「ひさちゃんはかわいいよ! でも、夢の実現ってなかなか難しいね」
最初、平石緋沙子は他のメイドと同じように仕事させていた。が、なかなか陛下のお目に入らない。
まず、遅番だけでも4人いる。お召し物担当、美容担当や女中頭ならともかく、担当のないメイドは、庭仕事や掃除や洗濯など、あまり陛下の目につかない仕事をしている。必ず会えるのは夕食のときくらいだ。さらに、労働法の制限により、平石緋沙子は午後9時で帰ってしまう。
そこで陛下は、平石緋沙子本人に相談なさった。
「ひさちゃんがいうには、私をコンパニオンにしなさい、って。
コンパニオンってなに? お水の仕事? ってきいたら、レディの話相手とかする仕事だって。でもそれってメイドじゃないでしょう? ひさちゃんも、そうだって言ってた。コンパニオンがハウスメイドの格好をしてたらおかしい、って」
「日本建築の公邸にメイドがいるのですから、いまさら細かいことを気にしても仕方ないと思いますが」
「そうなんだよね。だから、ひさちゃんに、格好はそのままでコンパニオンになってもらったんだけど――」
隣の部屋で控えていて、呼ぶと来る。ゲームを一緒に遊んでくれる。学校の勉強を教えてあげることもあれば、英語を教えてくれたりもする。が、なにかが違う。
「ひさちゃんのコンパニオンって、友達みたいなもんなんだね。私は、もうちょっと、なんだろ、お母さんみたいなことをしてほしいんだけど――」
8つも年下の子供に、『お母さんみたいなこと』を求めてしまえる、陛下の飾らないお心。尊敬に値するといえば嘘になるが、私はどうにも、陛下のこういうところにも惹きつけられてしまう。
「――あ、お茶をいれてくれるのって、お母さんみたいだね。遠野さん、いつもありがと」
陛下は、お茶の用意をしていたメイドに、ねぎらいの声をかけられた。
「陸子さまのお褒めとお気遣いにあずかり、身に余る光栄です」
この瞬間、私は気がついた。
『ひかるちゃん』『ひさちゃん』『遠野さん』。女中頭のことは『橋本さん』、お召し物担当のことは『大沢さん』。
私と、平石緋沙子だけが、ファーストネームにちゃん付けだ。
心のなかの嫉妬メモに、このことを書きつけた。彼女に会ったときにぜひ言おう。そう決心すると、あまり動揺もせずに済んだ。こうしてみると、彼女の提案は、そう馬鹿にしたものではないかもしれない。
メイド――遠野さんがカップにお茶を注ぐと、鮮やかな香りがたちのぼった。
会話が途切れたとみたのか、遠野さんが言った、
「その平石さんですが、本日ついさきほど、TVに出演しました。こちらに録画が用意してございます。ご覧になられますか?」
「TV? 見せて。またなんか悪いことして逮捕されたのかな?」
すると遠野さんは、ぷっと吹き出し、そのまましばらく腹を抱えて、笑いをこらえていた。私にはなにが面白いのかわからなかったが、同僚だからわかることもあるのだろう。それとも、録画を見ればわかるのかもしれない。
「……失礼しました」
リモコンをいくつか操作すると、房総テレビのワイドショー番組が途中から映し出された。視聴者のリクエストに答えて、さまざまな労働現場で働いている人に生放送でインタビューをする、というコーナーだった。リクエストされた労働現場は、『国王公邸』。
インタビューは、公邸の庭にカメラを入れて行われていた。画面に映し出された平石緋沙子は、生で見るよりも年相応らしく見えた。陛下のほうがだいぶカメラ写りがいい、ということもわかった。ただ陛下は、カメラに応対する訓練を受けておられるうえ、経験も豊富なので、不公平な比較かもしれない。それでもやはり、平石緋沙子のそっけない雰囲気よりも、陛下の大げさな身振りや表情のほうが、TVカメラには向いていると思う。
『国王公邸でアルバイトをなさっている、平石緋沙子さんです。ではさっそく、質問です。国王公邸では、何人くらいの人が働いているんでしょう?』
『特にイベントのない日には、16人前後が公邸で働いています。早番・昼番・遅番の勤務シフトがあるので、16人が朝から夜まで働くわけではありません。内訳は、私たち女中が8人、料理人が2人、警備員が6人です。そのほか庭師なども必要に応じて来ていただいています』
『国王公邸で働く人は原則として全員フルタイムで採用されているそうですが、平石さんだけ特別にパートタイムで採用されているそうですね。どうしてでしょう?』
『私が中学生だからです。私の歳ですと、専門の職業教育を受けていないということで普通は採用されませんが、私はイギリスでクリーニングスタッフをしていましたので、採用していただけました』
『普通の中学生では、国王公邸で働くのは無理ですよね』
インタビュアーは驚いた顔もせず、『普通の』のところを視聴者に強調してみせた。イギリスで働いていた、というところは突っ込まずに流してしまう。財団の広報部が書かせた筋書きだろう。
仕事内容について何度かやりとりをしてから、
『平石さんは国王陛下のお側で働いていらっしゃるわけですが、そういう立場からみて、陛下はどんなかたでしょう?』
魔法をかけたように、花が咲くように、平石緋沙子の表情がほころんだ。
『素敵なかたです。この仕事の一番の魅力は、陸子さまにお仕えできることです』
『マスコミの人間からみると、陛下は大変親しみやすいご気性であられますが、お側で働いていると、どう感じますか?』
『想像以上でした。本当に誰の名前でも覚えておられて、会うたびにお声をかけてくださいます。あまりのお気遣いに、こちらの胸が痛くなるほどです』
目が潤んでいる。まさに恋する乙女だ。
『では最後に、国王陛下へのメッセージをどうぞ』
『お慕い申し上げております、好きです、陸子さま』
インタビュアーは一瞬固まったが、
『……以上、かわいいメイドさんへのインタビューを、国王公邸からお送りしました』
画面がスタジオに切り替わり、
『いや、若いって、いいですね』
『私も、あんな青春を送りたかったですね。うらやましいです』
CMに切り替わった。遠野さんがTVを切った。
「ひさちゃん、かっわいーいっっっっっ!」
両の拳をふりまわして、陛下は感動を表現なさった。
「そうだ、ひさちゃん呼ぼう! この部屋に一緒に泊まってもらうの」
「公邸からここまで、車や電車では3時間はかかります。彼女は明日も学校でしょう」
「こんなことがあったんだから、ヘリ飛ばしてもらってもいいじゃない」
「まずは電話で本人とお話しになられては」
「……ふーん?」
声のトーンが、微妙に変わる。まぶたの重そうな目。私はあわてて、
「陸子さま、これは――」
護衛官は『陛下』と呼ばなければならない。遠野さんが横にいるのに、思わず『陸子さま』と言ってしまう。
「ま、とりあえず電話しよっか。――あ、早ーい。さすがー」
遠野さんはさっそく携帯で公邸と話しはじめていた。ほどなくして平石緋沙子の声が聞こえた。陛下は携帯を受け取ると、
「ひさちゃん、いまTVみたよ! すごいすごいすっごいかわいかった! 私もひさちゃんのこと好きだよ愛してるよ大好きだよ!」
私は心の嫉妬メモにしっかりと書きつけた。
「私がいまどこにいるか知ってる? 外房のホテルなんだけど、ひとりで泊まるとつまんないから、ひさちゃんに来てもらおうかなーって。……やった! すぐ足を手配するから、そっちで待ってて。乗り物は、ヘリでいい? ……うん、待ってるからね」
陛下は電話を切ると、
「遠野さん、ヘリをなんとか回して。できるだけ早く。明日の朝の分も」
「承りました。ただ、努力はいたしますが、ご希望には沿いかねるかもしれません」
遠野さんは部屋を出ていった。
私はようやく一息ついて、ポットからお茶を注いだ。お茶は冷めていた。
陛下はおっしゃった。
「ひかるちゃんの部屋に泊まるんだったら、呼ばなかったのにね?」
どう返答したものか、少し考えた。
私は珍しく、陛下に対して、苛立たしい気持ちになっていた。嫉妬をかきたてられたせいだろうか。いや、そうではない、と思える。
「……恐れながら申し上げます。
私は、陛下の慰みものにしていただけるだけでも、幸いでございます。ですが、平石緋沙子を私と同じように扱うのは、おやめください。
私は純情とは程遠い人間ですが、彼女はあのとおりです。守ってあげるべきではないでしょうか」
陛下は目を丸くなさった。
「うわ、ひさちゃん、すごいなー。魔性の女だ。ひかるちゃんを取られちゃうかも。
ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね。ひさちゃんが辞めても、ひかるちゃんは辞めないでしょ?」
陛下は、同情をけっして惜しまないかただが、時として、人間の感情に対してきわめて冷酷な態度をお取りになることがある。捨て子として子供の家でお育ちになったせいかもしれないと、私は思っている。
「なんと申し上げてよいのかわかりませんが――」
「ひかるちゃん、いま私のこと、『育ちの悪い奴だなー』って思ったでしょ?」
そして、人間の感情に対してきわめて敏感でもあられる。
嘘をつくのは簡単だった。陛下はこういうことにこだわるかたではない。ただ、つきたくなかった。
「……はい。ですが、だからといって――」
「私は気にしてるけど、ひかるちゃんは気にしないで。
それ、みんな思ってることだから。ひさちゃんなんか露骨だよ。だから、ひかるちゃんは気にしないで。私は気にしてるけどね」
「陛下、恐れながら――」
陛下は眉を寄せ、唇をとがらせて、おっしゃった。
「ひかるちゃん、さっきから言い訳してばっかり」
「……申し訳ございません」
陛下はソファから腰をあげられ、その場でくるりと半回転なさると、私の隣にお座りになった。肩が触れたので、私は体をずらして、陛下のための空間を作った。
「あ、逃げた」
陛下も体をずらして、私の作った空間をなくしてしまわれた。
「恐れ多いことでございます」
「ひかるちゃん、笑って?」
陛下はこういうことをよくお望みになる。その慣れで、私はとっさに作り笑いをした。
「もっと。目をうるうるさせて、頬を赤くするの」
その陛下のお顔は、まぶたの重そうな、あのお顔だった。
「私の服の匂いを、かいでるときみたいに。
――そう。そういう顔」
Continue
点滴をしていると、入院患者の気分が味わえる。現実に入院患者なのだが、それはともかく。
点滴で驚いたことには、平気で気泡を入れる。
直径数ミリの気泡なら、気温や気圧の変化から生じることもあるので、問題なさそうだと見当がつく(これが問題になるならそもそも点滴などできない)。が、数ミリの気泡どころか、点滴のチューブの途中を数センチにわたって空気が占めていても、なんの問題もないらしい。
「非公式な人間関係」について。
諜報機関が情報を得る方法は飛躍的に広がりつつある。通信傍受や衛星画像はいうに及ばず、行政機関の公開する情報も量と範囲が増えた。また、民主主義や法の支配が強まった現在、少数の強力なスパイにできることは限られつつある。
それでも今のところはまだ人間は、システムのなかの弱い環であり、優先度の高い目標でありつづけている。
人間そのものがオールドファッションな目標なので、その攻撃手段もやはりオールドファッションだ。情、つまり人間関係は、金と並んで重大な脆弱性である。
*
発信者番号通知。
プライベートの携帯番号を、女中頭――橋本美園に知らせたものかどうか、考える。もし非通知でかければ、彼女を拒絶するというメッセージになる。それよりは、かけないほうがいい。番号を通知すれば、彼女の話を聞くというメッセージになる。だが、こちらの携帯番号を知らせることは、それ以上のメッセージになりはしないか。
だいたい、『さらってゆきます』というのは、なんのつもりなのか。
女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負う。ただのメイドならともかく、女中頭が護衛官と特別な関係に陥れば、公邸にはいられない。彼女はそこまでするつもりがあるのか――あるのだろう。でなければ、公邸の裏庭であんなことはできない。
彼女の顔を、思い出す。 カチューシャの髪飾りの重さに負けじとばかりに、胸を張って顎を引いた、誇り高い顔。
あの顔に、目をそらしたくない、と思った。
番号が通知されるままにして、名刺の携帯番号にかけた。
が。
つながったのは、留守電だった。
拍子抜けして、床にごろりと転がる。
私の家は、公邸のそばの官舎だ。庭つき一戸建てで、ひとりで住むと庭仕事や掃除に手が回らない。そこで、ありがたいことに、公邸のメイドがときどき来てくれる。独身だから特別に、とのこと。
陛下との雑談に備えて、ゲームをしようかと思った矢先に、携帯に着信があった。
かけてきたのは、橋本美園。
「設楽です」
「ひかるさん?
ほんとにかけてくれたの?
実はあのとき陸子さまがご覧になってて、陸子さまのお言いつけでやってる、なんてことないでしょうね?」
さすがは女中頭、疑り深い。
「かけてはいけませんでしたか?」
「嬉しいけど、ちょっと意外だな。そんなに女の子に飢えてるの? うちの子を誰か食べちゃえばいいのに。ほら、陸子さまがあれだからさ、みんな食べられるよ?」
「意外といえば、橋本さんが、職場と同じかたとは思えないのですが」
「そう? 敬語に惑わされてない? ――そうか、あっちのほうが萌えるんでしょ? ちょっと待って、頭切りかえるから。
……お待たせしました、ひかるさま。
こんな人さらいのところに、暢気にお電話をくださるだなんて、正気の沙汰とは思えません。ひとつのところに長く居すぎて、正気をなくしてしまわれましたか?」
「どう考えても、敬語だけの問題ではないのですが」
「ちがった話し方にはそれぞれふさわしい申しようがございます。
ひかるさまは、私のような女に抱きしめられるのは、慣れておいででしょう。わかります。でも逆はそれほどでもないご様子」
突っ込まれてもペースを崩さない。さすがは女中頭だった。
「おっしゃるとおりです」
「慣れないことを避けてばかりでは、もうじき私にさらわれてしまうことでしょう。もっとも、ひかるさまも、それをお望みのようですけれど」
「橋本さんが――」
その瞬間、ぴしゃりと、
「美園、とお呼びください」
素晴らしい威厳だった。
「――美園さんが、なにを望んでいらっしゃるのか、私にはわかりません。私を陛下にけしかけたかと思えば、私をさらってゆくとおっしゃる。お気持ちをきかせてください」
「そうやって人の気持ちを忖度してばかりのお心から、迷いを取り除いてさしあげたい、それが私の望みでございます。陸子さまとゆかれるにしろ、私がさらってゆくにしろ、ひかるさまのお心に迷いがなくなるのは同じこと」
彼女がどれくらい本気なのか、つついてみたくなった。
「私をさらってゆくとおっしゃいますが、客観的にみれば、美園さんの立場は弱いと思います。
もし女中頭が護衛官と特別な関係になって、それが公になれば、女中頭は公邸勤務から外されるでしょう。それに美園さんは結婚なさっています。仕事と家庭、両方でトラブルになるわけです」
返答は力強かった。
「それは弱みではなく、強みでございます。
もし国王陛下と護衛官が密かに特別な関係を結んで、それが公になれば、どうでしょう? 護衛官は務めを続けるのが難しくなるはず。でも相手が私であれば、露見のあとも、ひかるさまは陸子さまのお側を離れずにいられます。
家庭のことについて申し上げれば、危険な恋ほど燃えやすいもの。たとえその危険が、自分のものでなくても」
「そんな卑怯者ではありたくないものですね」
「ひかるさまが卑怯であればこそ、私は純情ぶっていられます。これが恋の勘定、貸し借りはございません」
「美園さんのお考えはわかりました。でも、まだわからないことがあります。
美園さんが私にそこまでかまってくださるのは、私へのご好意からだと思います。それは嬉しく思います。
私にかまいたくなるそのお気持ちを、『恋』と呼ぶのは、ふさわしくないようです。美園さんは、そのお気持ちをどう名づけますか?」
「『萌え』です」
まるで陛下のようなことを、と思ったが、口には出さなかった。
Continue
突然だが私は13日からこのかた入院している。
かつて東大病院の豪華さを目の当たりにした私は、「私の知る大学病院が、まるでマレーシアあたりの地方都市の開業医のように思える」と言った。この大学病院なら、さしずめフィリピン南部といったところか。
あなたは乞食に施しを与えたことがあるだろうか。
そもそも、本物の乞食を見たことがあるだろうか。いっさいの大義名分のない、ただ乞食自身の哀れみだけを掲げる、本物の乞食を。「盲人支援のための募金を」と呼びかける盲人の運動家ではなく、「私は目が見えません」という札を掲げた盲人の乞食を。
日本に来てからというもの私は、本物の乞食を見たことがない。これが資本主義なのだと悟るまでに、10年かかった。
資本主義のもとでは、労働者は市場の向こうにおり、消費者の目に見えない。それと同様に、乞食は募金箱と投票箱の向こうにおり、慈善家の目に見えない。
あなたは商品を買うとき、労働者が流した汗に対して支払うのだろうか。まさか。あなたがiPodを買うときにAppleに流れ込む金は、東南アジアの組立工が流した汗とは無関係だ。
あなたは募金するとき、乞食の哀れさに対して施すのだろうか。
東南アジアの組立工が作ったiPodでAppleが儲けることは正しいのに、アフリカの子供たちの哀れさでサニーサイドアップが儲けることが間違っているのは、なぜなのか。
もちろん、この理屈はおかしい。断固として。
第一に、アフリカの貧しい子供たちの多くは、乞食ではない。
組立工は労働力を売って賃金をもらう。しかしアフリカの貧しい子供たちは、哀れみを売って施しを受けようとはしていない。アフリカで施しを求めているのは、貧しい子供たちではなく、裕福な支配層だ。
第二に、哀れみはiPodではない。
誰かが作り、誰かが売らなければ、iPodは存在しない。だからiPodが存在するためには、誰かが儲ける必要がある。
誰も作らなくても、人間があるかぎり、哀れみは存在する。だから哀れみのために、誰かを儲けさせる必要はない。乞食は神の宝石なのだ。
サニーサイドアップを儲けさせる必要はない。
だがサニーサイドアップは儲けた――ということは、この世のなにかが、間違っている。
2番目の命題に戻ろう。『乞食は募金箱と投票箱の向こうにおり、慈善家の目に見えない』。これがその間違いだ。目に見える隣人ではなく、箱の向こうの人々を哀れむ、そのイデオロギーが間違いだ。神の宝石の輝きを、箱につめて売り買いできると思う、その傲慢さが間違いだ。
「募金になると思ってホワイトバンドを買った」という言い訳を、私は認めない。
そしてサニーサイドアップを擁護すべき理由も、ここにある。彼らは、この間違いを間違いとして、白日のもとに晒した。それも、口先の理屈(この日記のことだ)でなく、市場の現実によって。
現実の矛盾を覆い隠す虚偽意識(=イデオロギー)を維持するよりは、矛盾をますます昂進させて暴露するほうが、よい。この資本主義世界にあっては、それは無邪気な資本主義者によって行われるだろう。サニーサイドアップはまさにそのような役目を果たした。彼らは世界を前に進ませたのだ。
ヘレン・ケラー×サリヴァン先生に萌えたことはおありだろうか。まさか読者諸氏の知識は「WATER」(それも『ガラスの仮面』の)で止まってはいないだろうか。
アン・サリヴァンは、20歳でヘレンに出会ってから死ぬまでの50年間、ずっとヘレンのそばにいた。ヘレンの目や耳となり、「WATER」のときにそうしたように、毎日その手に文字を書き続けた。
萌える、というには少々強すぎるだろうか。だがここで怯んではいけない。というわけで、ヘレン・ケラー『わたしの生涯』を読んだ。
認めよう――私の負けだ。
アン・サリヴァンは、私の知るかぎり、もっとも神に近い人間である。『奇跡の人』というだけのことはある。聖人強度でいえば1億パワーくらいか。
あまりのことに、適当な萌えエピソードなど見当たらないが、ひとつだけ紹介できる。
アンは、ヘレンが大学を卒業したあとに結婚したが、数年で別居するに至った。もちろん、結婚前から別居後までずっと、ヘレンはアンのそばにいた。
ヘレンの半生(すなわちアンの半生でもあるのだが)も興味深い。
できるだけ施しを受けず、財政的に苦しみながら、公演、執筆、ボードヴィルをして稼いでいる。その内容がいい。ヘレンの三重苦を哀れみたがる世間への、いい加減な迎合ではない。参戦反対運動(第1次世界大戦への)に社会主義運動だ。
そのためだろう、ウッドロー・ウィルソン大統領への評言(260~264ページ)は鋭い。「それと同じように後世の者も、ウィルソン大統領の偉大であったのは言葉にあったので、その人間性にあったのではないということを悟るでありましょう」。ヘレンがこのくだりを書いた当時(1929年)には、彼の言葉が20世紀の世界史をデザインするとは予見できなかったはずだが、なにか感じるところがあったのだろうか。
化粧と持ち物にはいつも悩まされる。
化粧するシーンは問題にならない。問題は、化粧を直したり落としたりする手順を、どう組み込むか。物事は何事であれ、片付けるときのほうが難しい。学園ものにはこの問題が基本的にないので書きやすい。
持ち物は、なにをどこにしまっておくか。バッグを持っていない瞬間に持ち物が必要になると、致命的に間抜けなことになりかねない。
今回はポケットを使ってしまった。あまりよくないが、この際はしかたがなかった。
*
私は昔から同性受けのする人間だった。
背も高くなければ、顔も女らしい部類に入ると思う。運動部どころか、まんがを描いていた。それなのに、なにかと好意を寄せられることが多かった。昔の友人にいわせれば、『ひかるは女くさくないから』とのことだった。
だから告白や、突然の抱擁は、これが初めてではない。唇を奪われたことまではないが、それは私が雰囲気に流されないからだ。
最後にそんなことがあったのは、もう5年以上も前だった。私も相手も、まだ子供だった。いまはちがう。彼女は国王公邸の女中頭で、夫も子供もいる。私は護衛官を務めて3年になる。遊びや軽はずみで済まされることではない。
さらに恐るべきことに、ここは公邸の裏庭だった。使用人の目があるかもしれず、それどころか、陛下までもがご覧になるかもしれない。
「橋本さん――」
「『美園』とお呼びください、ひかるさま。でなければ離しません」
「美園さん、人目があります」
「今夜、お電話くださいますか?」
「はい」
彼女は体を離した。
頬は頬紅をさしたように赤く、自尊心もいくらか影をひそめていた。いつもよりも髪飾りが似合う顔だった。
「こちらにお電話ください」
公邸のメイド服は装飾的だが、実用性も高い。たとえば、物を入れてもラインの崩れない実用的なポケットが多い。彼女は、そんなポケットの一つから名刺入れを出し、束の底から名刺を取ってよこした。携帯電話の番号が書き加えてある。
「……はい。
橋本さんのお気持ちはわかりますが、強引ですね。私の趣味ではありません」
「ええ、強引です。ですからさきほども、『さらってゆきます』と申し上げました。
貴重なお時間をありがとうございました」
彼女は一礼して去っていった。
いまさらながら公邸に目をやる。人の姿はない。それはそうだろう。でも平石緋沙子なら、隠れもせずにずっと見ているかもしれない。
平石緋沙子に会いたい、と思った。
ただ今日は会う口実がない。TV出演の件はまだ私には秘密のはずだから、口実にはできない。明日はぜひ会おう。TVを見て、嫉妬したと言おう。どんな顔をするだろう。
Continue
制度の設計は難しい。
どんなに小さな制度でも、全体を見通すことは不可能に近い。たとえば、読者諸氏ご自身の自室である。部屋のなかにどう物を配置し、どのように使うか。それが制度だ。
人の生活する部屋では、すべての物は、なんらかの理由があってその場所に置かれる。目的はなくても理由はあるのだ。どれほど乱雑で、秩序のかけらもない部屋であろうと、でたらめに物を置いただけの部屋とは明白に違う。
フィクションのための制度を設計するのは、人が生活しているように見える部屋を作るのに等しい。
そういう部屋を作るには、どうすればいいか。
実在の部屋をいくつか調べて混ぜあわせると、だいぶそれらしいものができる。といっても、数学的に混ぜあわせたのでは、まったくお話にならない。機能を考え、誰がどう使うかを考えて、分離・合成しなければならない。
どれほど考えても、これで完璧、ということにはならない。細部の整合性は、けっして合わせることができない。論理的・物理的な整合性なら簡単だが、生活習慣のうえでの整合性というものがある。なにげなく物を置くときに、どれだけ人の個性が出ることか。
*
護衛官はいつもは、公邸の玄関前で、一日の仕事を始める。陛下のご外出に付き添って警護するのだ。外出から戻ると、同じ場所で仕事を終える。
今日は、午後5時ちょうどに、公邸に戻った。9月の初旬のことで、日はまださんさんと照っている。
「ひかるちゃん、今日もありがとうね。じゃーねー」
陛下をお見送りしたあと、私は官舎に帰ろうと、通用門に向かった。そこへ、勝手口からメイドが走り出てきて、私に声をかけた。
「設楽さま、少々お時間をよろしいでしょうか」
女中頭の橋本だった。女中頭のしるしである、髪飾りをつけたカチューシャがよく目立つ。この髪飾りは、金銀と玳瑁で薔薇をかたどった豪奢なもので、陸子陛下おんみずから、かなり念を入れてお選びになった品だという。しかし中身は髪飾りとは正反対に地味で堅い。
「ええ。中で話しましょう」
台所の隣にある控室に入り、引き戸をぴしゃりと閉めると、彼女はエプロンのポケットからB5の紙を取り出した。雑誌記事のコピーのようだった。
「明後日発売の、日本の週刊誌です」
見出しにはこうあった。『千葉女王、愛人の女子中学生をメイドに?』。
中身にざっと目を通す。『かねて同性愛のロリコンを噂される千葉女王』『即位の直後、公邸で働く女性の制服をメイド服に変えさせ』『女子中学生を雇うことについに成功』――醜聞というほどのものではないが、気になる記事にはちがいなかった。公邸の人事は、安全上の理由から秘密にされている。関係者の誰かがリークしたのだ。
話題の女子中学生こと平石緋沙子が、まるで平凡な子供のように書かれていることも気になった。これはおそらく、無邪気で偶発的なリークではなく、なんらかの狙いがある。
「これは、私に見せてはいけないものでは?」
明後日発売ということは、印刷所どころか出版社から取ってきたものだ。国王財団の諜報活動の成果にちがいない。
「読んだあとでおっしゃいますか」
「秘密にします。
陛下には内縁の配偶者がいる――なんて嘘を平石さんに教えたのは、あなたでしたか」
「なんのことでしょう?」
女中頭はいったい、とぼけているのか、本当に知らないのか。容易に判断がつくようでは、この仕事はできないだろう。女中頭は、公邸内における非公式な人間関係について責任を負っている。非公式な人間関係とは、派閥、いじめ、そして恋愛沙汰だ。
「忘れてください。
広報部はこれの対抗宣伝をやるわけですね?」
「はい。明日、平石さんがTVに出るそうです」
あのでたらめなキャリアを、全国に公表するとは。ここで引き下がっては、なんのために公邸にきたのかわからない――というわけだろう。私はちょっと平石緋沙子に同情した。
「心の準備はできました。ありがとうございます」
「平石さんがここをお辞めになれば、もっと丸く収まると思うのですが」
と、女中頭は目論見を白状した。
私は彼女のあさはかさを指摘した。
「この件はまだ私には秘密のはずですが、漏らしたのは誰でしょう? あの子なら気がついて逆ねじを食わせます。機密保持にかかわる問題提起を、橋本さんの裁量で止めることはできないはずです」
「設楽さまは、それでよろしいのですか? 広報部がどんなストーリーを作るか、設楽さまならご想像がつくかと思います」
相思相愛の線を強くアピールするだろう。
「陛下はお心の広いかたです。いまさらファンがひとり増えたくらいでは、気に病んだりはなさらないでしょう」
「私は、設楽さまのお気持ちを慮って、申し上げているんです」
なにをおためごかしを――一瞬そう言いそうになって。
そのとき私は初めて、女中頭の顔を、ちゃんと見たような気がした。
女は、自分よりずっと美しい女を長いこと見ていると、自尊心をすり減らすという。陛下と女中頭なら、すり減るのは女中頭のほうだ。だとすると女中頭の自尊心は、もし減ったのだとしても、元が十分に多かったのだろう。きりり、という音がしそうなほど、顔に出ている。
嘘のない顔だと思った。
「……いつまでも篭っていては、目立つかもしれません。裏庭でも歩きましょう」
私は返事を待たずに控室を出て、靴をはいた。
裏庭は立ち木もなくがらんとして、学校の校庭を思わせる。屋敷のそばに花壇があるのがまた校庭らしい。私はその花壇のそばを歩きながら、
「橋本さんがその髪飾りをつけてから、もう1年半になりますか。よくお似合いです。
お子さんはいま幼稚園でしたか? ……ああ、かわいい盛りですね。旦那さまもおかわりなく? ……それはなによりです」
年はきかなかった。たしか、26か7だったと思う。陛下が即位されて公邸の使用人が総入れ替えになったとき、メイドは20代前半で揃えた。当時の女中頭に次いで年長だったのが、彼女だった。
のんびりと彼女のことを尋ねていると、
「あまり長いこと持ち場を離れたくありません。単刀直入におっしゃってください」
「橋本さんは、実るべきものを実らせている――そう思いまして。
私は陛下をお慕い申し上げています。この気持ちは、なにを実らせるべきでしょう。
橋本さんは、私のことを、ご自身のなさりようにひきつけて考えていらっしゃると思います。けれど私は、橋本さんのなさっているようには、物事を実らせることがありません」
「そんな……! 設楽さま、もっとお気を強く持ってください。
設楽さまがそのおつもりになれば、陸子さまとどんな道でも歩むことができます。私は女中頭です。この判断には自信があります」
私は笑ってみせた。
「どんな道も必要ありません。いま、ここが、私のいるべきところです。陛下のお許しがあるかぎり、私はここにとどまります」
陛下がなにかの折りに雑談で、おっしゃっていたことを思い出す。
『でも天才って、目指すものがないから、辛いんじゃないかな』
私も陛下も、かつてはまんがを描いていたので、ときどき作品制作のことが話題になる。もし自分が、まんがの天才だったら? そんな話に及んだときだった。
数学や自然科学の世界なら、天才は、論理や自然に働きかけて成果を得る。凡人のまんが家は、切れ味鋭いネームや説得力のある構図を求めてさまよう。どちらも、自分の外にあるものを求めている。けれど、まんがの天才は、きっとそういうものではない。凡人のまんが家の目標が意味を失うような別の世界に、その作品はある。まんがの天才には、きっと、自分の外にあるものが不要なのだ。
なら、まんがの天才は、なにに働きかけ、なにを求めればいいのか。自分の外にあるものが不要だというのは、作品制作には素晴らしいことでも、生きるという面では不幸なことではないのか。
いまの私が、それと同じだ。
「設楽さま、それは嘘です」
女中頭の顔が、きりり、と音をたてたように思えた。
突然――私は、抱きしめられていた。
「人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません。
設楽さまが陸子さまとゆかれるのでなければ、私が設楽さまをさらってゆきます」
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