結論:
すべてのJavaプログラマはただちに本書を読むべきだ。読む時間がないのなら、あなたにはコードを書く資格がない。
理由:
・安い
Javaの並行処理を知るために、私は莫大な授業料を支払った。「synchronizedやvolatileを使ってはいけない」くらいの分別は最初からあったが、それ以上のことはなにも知らなかった。
並行処理には試行錯誤は役に立たない。テストは無力だ。正しいコードを書くか、それとも爆弾を作るか、どちらかだ。爆弾を作れば高くつく。
本書には、私が莫大な授業料を支払って知ったことがすべて書いてある。
・薄い
458ページは厚いと思えるかもしれないが、それは人間の頭が破壊的代入にしがみついているせいだ。破壊的代入と並行処理を両立させたいと人間が願う以上、この程度のページ数は避けられない。
・役に立つ
本書は実戦の勘所を押さえている。著者たちは、自分の足を撃つ方法がどれだけあるかを知っており、どの方法がよく使われるかも知っている。
本書で紹介される概念もきわめて有益だ。「スレッド束縛」という概念は、漠然と知ってはいたが(「synchronizedやvolatileを使ってはいけない」の理由の半分)、いままで名前を知らなかった。
・必要になったときにはもう遅い
常にマルチスレッドを避け続けるのは、それほど易しいことではない。どうしても簡単なワーカスレッドが欲しくなり、ごくごく簡単なものだからと思ってsynchronizedと書き――そして爆弾を作る。
いまのうちに備えておくべきだ。その日は来る。
とはいえ不満な点はゼロではない。
自分の足を撃つ方法をたくさん知っているからといって、自分の足を撃たずに過ごせるかというと、そうではない。自分の足を撃つ方法と、危険を遠ざけて暮らす方法は別のものだ。しかし本書は、危険そのものに注目し、結果として、危険のそばで暮らす方法に偏っている。
危険を遠ざけて暮らす方法を、私なりにまとめると、以下のとおり。
・スレッド束縛か、それともimmutableかの二者択一にする
スレッド束縛というのは、あるオブジェクト等を使える(参照できる)スレッドを、一度に一つに限定するということだ。スレッド間でオブジェクトを渡してもいいが、そのときは元のスレッドは、渡したオブジェクトへの参照を持っていてはいけない。
immutableなオブジェクトは完璧に安全だ。ただしJavaはろくに不変性をサポートしていないので、本当にimmuatbleなオブジェクトを作るには、よほど気をつける必要がある。
この二者択一ルールを守っているかぎり、synchronizedやvolatileはいらない。
・mutableなオブジェクトを共有するときには、java.util.concurrentを使う
java.util.concurrentには、必要なはずのものが一通り揃っている。synchronizedやvolatileは最後の手段だ。
・スレッドを直接には操作せず、Executorフレームワークを使う
自分でスレッドを生成するのは、synchronizedやvolatileと同じくらい危険な行為だ。Executorフレームワークを知り、これを前提にして設計すべきだ。
理想をいえば、Javaをやめて破壊的代入のない言語を使うべきだ。しかし残念ながら人類はまだその段階にたどりついていない。HaskellやCleanで突っ張るよりも、本書を読むほうが安くあがる。7andy
2006年11月26日午後7時、北海道は札幌にある体育館「きたえーる」の柔道場にて、ひとつの他流試合が行われた。主なルールは以下のとおり。
・目突き、肘、股間への攻撃は禁止
・足以外のところが地面についているときは顔面への打撃は禁止
さらに、これがルールかどうかはわからないが、
・グローブなし、マウスピースなし
「手の骨、鼻の骨、前歯、どれが先に折れるか」という、無闇に危険なセッティングである。感染症の問題もある。おそらくもう二度と見られないセッティングだろう。
そして対戦者の片方も珍しい。
珍しくないほうは、総合格闘家の岩倉豪。アマチュアだそうだが、鍛え上げられた巨体がまさに格闘家だ。
珍しいほうは、合気道を教える柳道場の師範、柳龍拳。御歳65歳、細身の老人だ。合気道を教えているといっても、平凡な合気道家ではない。「気功」を看板に掲げるオカルト風味の怪老人である。オカルト合気道の実演動画はこちら。
試合前後の情報や説明によれば、この無闇に危険なセッティングは、柳龍拳が要求したものだったという。
オカルト合気道家が、普通の総合格闘家とまともに試合をする――わけがない、と私は信じていた。なにか奇天烈な方法で試合をうやむやにしてしまうにちがいない。そのときの失望を味わいたいものだと思った。バキ風にいえば「失望を知りたい」だ。
だから私はこの他流試合を見に行った。
そう、私は北海道に行った。11月26日の朝、羽田発新千歳行スカイマーク717便で行った。
札幌到着のあとは食べ歩きで時間を潰し、午後5時前には試合会場に到着した。私より先に来ていた観戦者は、ほんの数人。おかげで私は最前列から事の次第を見守ることになる。
試合前、午後6時から7時までは、柳道場の門下生が稽古をした。私は合気道のことなど皆目わからないが、とりあえず門下生は常識的なカタギに見えたし、稽古には別段オカルト要素はなかった。
しかしこのとき私の中では事態は風雲急を告げていた。柳道場には実態がある。信者かもしれないが子分ではないカタギの門下生がいる。その門下生を観戦者の前に出したということは、相手が逃げでもしないかぎり、本当に試合をやるということだ。
午後7時、両対戦者が顔を合わせ、ルールの確認を行い同意書にサインした。岩倉豪の体格を目の前にしても、柳龍拳には怯んだ様子はない。では自信満々かというと、そうでもない。戦って敵を倒そうとする気迫や生臭さがまるでない。そういう美学なのかもしれないが、あきらめているようにも見えた。
なにか奇天烈な方法が飛び出して試合が流れるのではないかと、試合開始の瞬間まで、私はまだ信じていた。
柳龍拳は、肩口から斜めに腕を振り下ろす、奇妙な動きを見せた。この動きの意味がわからなかったが、あとから考えるに、この腕をつかませて技をかける狙いだったのではと思われる。岩倉豪は2、3回この動きを見てから、振り下ろされる腕を相手にせず攻撃に入り、顔面にパンチが入った。
柳龍拳は鼻と口に出血した。戦意喪失でギブアップかと見た岩倉豪のアピールで、レフェリーが確認に入ったが、しっかりした声で「ノー」と宣言。再開である。
最初の攻防と同じように、柳龍拳は斜めに腕を振り下ろし、岩倉豪はそれを相手にせず普通に攻める。今度は柳龍拳の袖をつかみ、顔面にパンチが続けて入った。レフェリーが割って入る。静脈を切った程度の出血があり、柳龍拳は起き上がれないどころか動かない。試合終了である。
結末から遡っていえば、こういうことだ――オカルト合気道家が、無謀な相手と危険なセッティングで試合をやって、大怪我をした。
だが、このまとめは、なにかしら論点先取になっている。グローブも防具もなしに人間の顔を殴ることの不吉さが、抜け落ちている。
2つの世界がある。暴力前の世界と、暴力後の世界だ。両者のあいだはあまりにもひどく断絶している。この断絶は、なまなかな想像力では埋まらない。その深い断絶を、一方通行で飛び越えるのが、暴力だ。後戻りする方法はないので、暴力後の世界にいる人は、暴力前の世界など最初からなかったように思い込む。だがそれはあった。私はそれを見たし、そこにいた。
暴力後の世界に行って得られるのは、「暴力前の世界は素晴らしい」という認識だけだ。それさえもじきに忘れてしまう。自分とは無縁なものに興味を抱き続けるのは難しい。
暴力は、その苦痛や恐怖のゆえに悪いのではない。暴力は、暴力前の世界を消滅させてしまうがゆえに、悪い。暴力後の世界になじんだ人は、もっとも美しい希望のなかにさえ、暴力前の世界を持たないだろう。
普通のセッティングを蹴って、無闇に危険なセッティングを要求したのは、柳龍拳側だと聞いている。これは犯罪に近い。
オカルトを信じていたとしても十分に悪いが、「こんなに危険なセッティングでの試合は、相手が避けるだろう」などと当て込んでいたとしたら、なお悪い。格闘技という競技を成り立たせるためのルールを悪用することでもあるからだ。
「オカルトの実力が試される」という筋書きは好きだ。オカルト側が逃げるという結末になっても、もちろん失望はするが、その失望を味わうために北海道に行ったくらい好きだ。だが今回の結末はいただけない。
今回の試合で、柳龍拳はなにかを成し遂げた。そのことには賛嘆している。逃げたら馬鹿にするつもりでいたし、普通のセッティングで負けたら退屈しただろう。だが、その成し遂げたこととは、悪いことだった。
今回の試合が悪い例として記憶され、同様の事件が二度と起こらないことを願う。
1. 映画『ファイナル・カウントダウン』のように、アメリカ人がナチュラルに空母萌えを炸裂させている話かと思って読み始める。
2. しかし実はディーゼル潜萌えの話だったと気づく。著者のプロフィールを確かめたら、アメリカ人ではなくイギリス人だった。
3. しかしディーゼル潜萌えにしては、ディーゼル潜狩りに攻撃型原潜を使うラストを不審に思う。普通に考えれば、対潜哨戒用の水上艦艇を使うところ。馬鹿高い攻撃型原潜を持ち出して、シュクバルがまぐれ当たりする危険を冒す理由がない(ディーゼル潜は黒海艦隊のキロ級)。
4. ロシアの水兵とディーゼル潜を率いて、セバストポリから3ヶ月もかけて地中海・大西洋を通りインド洋にたどりつく敵役の潜水艦暮らしのほうが、どう考えても面白い。オチは「魚雷が不発」、続編はグアンタナモ基地の監獄暮らしでどうか。
7andy
新條まゆが休載である。が、前号には「次号休載」の表記がない。落としたのか、では誰が代原なのかと思って調べたところ、どうやら代原はひとつもない。今回掲載の読み切り3本は、前号の次号予告に載っているのだ。では「次号休載」の表記を忘れたのか。よくわからない。
さて第24号のレビューにいこう。
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第8回
あらすじ:彼氏役(司)がツンデレぶりを発揮。3週間後に、主人公(翠)の学校との練習試合があると予告。
体の動きがやはりつらい。たとえば15ページ、翠の動きがサッカーっぽくない。こういう動きを描いて、サッカーがうまいということにされても、まったく説得力がない。
採点:★★☆☆☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第10回
あらすじ:学園祭で彼氏役(芯)といい感じ。
画面が華やかで、いつもより迫力がある。
このレビュー開始以来初めて、眼鏡が肯定的に描かれているのを見た。もう少しオシャレなデザインだったら、なおよかった。
採点:★★★☆☆
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第8回
あらすじ:発明品を誤動作させて彼氏役(はじめ)が記憶喪失に。
もう記憶喪失かよ! という突っ込みを一応しておく。
だいぶ描線が整理されて見やすくなってきた。画面構成にはまだやりようがあると思うが、背景がろくに描けていない現状ではこれが精一杯か。
採点:★★★☆☆
・悠妃りゅう『恋するふたりの蜜なやりかた』連載第3回
あらすじ:よくわからない。
たとえば8、9ページで、彼氏役(嵐)が「触んな」と発言したのはなぜか。画面構成からいって、あとで理由が説明されそうなところだが、なんの説明もない。「そういう性格」というのなら、複数の例を示す必要があるし、画面構成でもっと軽く扱う必要がある。
採点:★☆☆☆☆
・麻見雅『ぷら・クラ』読み切り
あらすじ:塾講師とくっつく。
麻見雅は、どこがどう話になっているのかわからない話を描くことが多い。今回も途中まではそんな雰囲気だったが、オチ一発でなんとかまとめた。
採点:★★☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第31回
あらすじ:逞に死の影。頼登場。
話は普通に進んでいるだけだが、画面構成とネームの迫力が素晴らしい。根性を見せてもらった、という感じだ。
ところでカルテの横文字は普通ドイツ語と聞いているが、どうか。
採点:★★★★★
・水瀬藍『HAPPY*BIRTHDAY*CHRISTMAS』読み切り
あらすじ:年下の彼氏役とクリスマスをめぐってじたばた。
話は微妙によくわからないし、画面構成もこなれていないが、なにやらすごい情熱と素直さに圧倒される。
採点:★★★☆☆
・車谷晴子『アイドル様の夜のお顔』連載第4回、次回最終回
あらすじ:彼氏役に徹底的にやさしくしてもらう。
最終回に一波乱でまとめるつもりなのだろう。一球外してきた、という展開である。
採点:★★☆☆☆
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第5回
あらすじ:彼氏役(蒼以)と乃亜の事情が判明。
親の職をネタに脅されていた、という例のパターンだ。よくあるパターンなのだが、支配を覆すときにどう始末するか悩ましい。
乃亜の報復を封じ込めてケリをつけるには、乃亜本人の気高さに頼るか、相互確証破壊を確立するか、乃亜の報復能力を無効化するか、この3通りしかない。最初のは乃亜の怪物性を弱めるので話として弱い。あとは非常に生臭い話で、あまり少女まんが向きではない。どう始末するかお手並み拝見だ。
採点:★★☆☆☆
・あゆみ凛『保健室のヒミツ・』読み切り
あらすじ:女アレルギーの校医に迫る主人公。
いろいろ平仄が合っていて、話として完成度が高い。「女アレルギー」がお約束からもう一歩深く描いてあったりする。この一歩の距離感が非常に重要だ。彼氏役の魅力にも自然な説得力がある。画面構成はまだ頑張れそうだが、全体に好感が持てる。
採点:★★★★☆
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第11回
あらすじ:執事喫茶でイチャイチャ。
まだイチャイチャ展開を引き伸ばすつもりらしい。
採点:★★☆☆☆
・千葉コズエ『7限目はヒミツ。』最終回
あらすじ:よくわからない。
これまでレビューしてきて、3回連載は非常に難易度の高いものだとわかってきた。3回に分けるということ自体が、話の構成を難しくしているのではないかと思う。根拠はないが、2回か4回連載なら、もっと構成がラクになりそうな気がする。
採点:★★☆☆☆
第14回に続く
私は発見した。
スパムはなくならない。それどころか、予見しうるかぎりの将来、スパムは増大し続ける。そして人々の時間をますます奪うようになるだろう。この趨勢を止める方法はまったく存在しないように見える。人類はスパムという災厄にとりつかれた。もしかすると永遠に。
トラックバックのうち約95%がブラックリストからのスパム
メールが止められないのはまだわかる。しかしトラックバックのような、ろくに機能していないシステムでさえ、スパムまみれだからといって止めることができないのだ。
いままでスパムによって崩壊したシステムはひとつもない。これからも存在しないだろう。
ティーンズハート。
「X文庫ティーンズハート」というフルネームを最初から知っている人に、いまだお目にかかったことがない。昔は、「X文庫」がティーンズハートのことだと思っている人が多かった。今では――そもそもティーンズハート自体を知っている人が、どれだけいることか。なにしろ今年の3月で潰れてしまったのだから。
解説しよう。まず「X文庫」という枠が最初にあり、その中に「ティーンズハート」というレーベルができた。今では妹のホワイトハートのほうがはるかに有名になって健在だが、これもやはり「X文庫ホワイトハート」がフルネームである。
(余談だが、少女小説のレーベルの位置付けはたいていややこしい。現在のコバルト文庫も、80年代末までは「集英社文庫コバルトシリーズ」だった。本書でも、ティーンズハート立ち上げ前のコバルトのことを、「コバルト文庫」と書いてしまっている)
私がティーンズハートを読むようになった理由は、まったく即物的なものだ。80年代末、私の近所の古本屋で一番安い本が、ティーンズハートだった。1冊50円だった。かくして私の人生にはティーンズハートという縦糸が加わり、今もこうしてかかずらわっている。
そろそろ本題に入ろう。
本書『ときめきイチゴ時代 ティーンズハートの1987-1997』の著者である花井愛子は、作家の立場から、ティーンズハートの立ち上げに深く関わった。原稿を出して印税をもらうだけでなく、本業であるコピーライターとしての能力を生かして、装丁やブランド戦略にも気を回していた。この努力は大いに報われ、文芸業界全体にインパクトを与えるようなベストセラー作家となった。が、その地位は長続きしなかった。
歴史家の最大の武器――後知恵――でいえば、著者の成功は、コピーライターとしての能力によるものだった。マーケティング的な新鮮さを打ち出す手段が尽きると、文章の魅力だけが残った。しかし――ここで私はorzとうなだれる――文章の魅力は、それ単体では、ベストセラー作家の地位を支えられるものではない。
著者自身の成功と没落を描いたのが本書である。その軌跡は、ティーンズハートの成功と没落にも重なっている。
かつての花井愛子ファンなら、本書から得るところは多い。たとえば、『ボクのティア・ドロップス』が2巻で止まってしまったのはなぜか? フレンド編集部が専属作家(かわちゆかり)のイラスト仕事に圧力を加え、タイムリーな新刊を出せなくしてしまったためだという。
ティーンズハートというレーベルのファンなら、なおのこと必読である。あの3局企画部の内情を知る日がこようとは、夢にも思わなかった。――なに、3局企画部を知らない? ではあなたはモグリなのだ。
失望させられた点も多々ある。
同時代の他のティーンズハート作品への言及がない。あらすじ等しか読まなかったという。最盛期には月に十点以上も出ていたので、全部を読むのは不可能だったろうが、それでも少しは、と思う。
ティーンズハート草創期を支えた男性作家の多く(津原やすみ、皆川ゆか等)が、女性と思わせるような演出(ペンネーム等)をした。このことについての著者の見解を知りたかった。また、時間の視差に耐えるティーンズハート作品のほとんどは、年齢的・性別的に読者から離れた作家が書いているように思えるが、どうか。「時間の視差」のようなものを著者がどう感じているかを含めて、知りたいところだった。
視差について、もう少し詳しく。
小説を測る物差しはひとつしかない。面白いかどうかだ。しかし、1988年に読んで面白かった本が、2006年にも面白いという保証はない。これが時間の視差である。
もちろん同時代でも読者によって評価が分かれる。これも視差の起こす現象だが、その内訳は複雑で、時間のようには単純化できない。ここでは時間の視差を例にとって話を進める。
「新刊時の面白さがすべて、あとは知ったことじゃない」という考え方も当然ある。おそらくシェイクスピアはそう思っていたはずだ。そのシェイクスピアを400年後に読む身としては、シェイクスピア本人のように単純には、「新刊時の面白さがすべて」と思うことはできない。
純文学などにくらべて少女小説は、時分の花だと思われやすい。著者の本業であった広告は、少女小説以上に、時分の花と思われやすい。
ということは――著者は、文学側の人間が少女小説を見るのとはまったく逆の視点から、少女小説を見ることができたはずだ。時間の視差などありえない広告の世界から、古本屋と図書館のある文芸の世界へようこそ、というわけだ。
読むのは今からでいい。かつてのティーンズハートの話題作や、今でも評価の高い作品について、著者の意見が知りたい。それが出版物になるとは到底思えないが、読者だけはここに一人いる。
コバルトが生き延び、ティーンズハートが滅びたことについて。
言い換えれば――ティーンズハートにはよい新人作家が現れなかった、という現象をどう解釈するか。
第一のレベルではこれは、「作家を冷遇したから」「カバーイラストがダサかったから」の2点で言い尽くせる。では第二のレベル、「なぜ作家を冷遇するという結果が生じたのか?」「なぜカバーイラストがダサいという結果が生じたのか?」はどうなるか。
著者は、講談社の体質に原因を求めたがっているように見える。だとすると、ホワイトハートが今日も生き延びており、カバーイラストがダサくもないのは、どういうわけか。
問いかけておいてなんだが、それは私にもわからない。
後知恵のあてずっぽうで言えば、イラストの方向性がマジョリティ指向であることが響いたかもしれない。活字を読む人間、書く人間はマイノリティだ。マイノリティの美意識に沿わないイラストでは、ブームは起こせても、長続きすることはできない。そして著者は、ティーンズハートのイラストがマジョリティ指向に固定されるうえで、大きな影響を与えた。
著者の小説がつまらなくなった理由について。
最近の花井愛子の小説はつまらない。つまらないとわかっているものを読むほど人生は長くないので、「これはひどい」というものは1冊しか読んでいない(『殺人ダイエット』)。その範囲で書く。
理由――視差に耐える力が、あまりにも乏しい。
作品は必ずなんらかの視差をもって読まれる。その事実が、著者の意識から抜け落ちているように思える。たとえ意識はされていても、対応する能力が失われているように見える。
これを卑俗にいえば、「著者の願望を垂れ流しているだけ」という感想になる。ここで問題なのは、願望ではなく、「垂れ流す」のほうだ。人間の願望はどんなものであれ面白い。いかれたパンストフェチの話を聞いて面白いと思わないような人は、私の友ではない(著者が私の友でない可能性は大いにあると睨んでいるのだが、この予想が外れていることを祈る)。
パンストフェチの目に映る世界を描くエロ小説は、「パンストはエロい」ということを読者に説得しなければならない。たとえパンストフェチだけが読む作品であってもだ。「パンストはエロい」ということには豊かな内実があるはずだ。もしなければ作る。太陽がなければ太陽を作るのが芸術家の仕事だとロダンも言っている(うろ覚え)。パンストフェチの読者は、豊かな内実をもって迫ってくる「パンストはエロい」という説得を、歓呼して受け入れるだろう。それは彼らの世界を豊かにする。パンストになんの感情も抱かない読者も、その説得には耳を傾けるだろう(繰り返すが、耳を傾けないような人は、私の友ではない)。
もし、「パンストはエロい」ということを説得しようとせず、無条件に前提としたら、どうなるか。
パンストフェチの読者には理解されるかもしれない。しかし説得する作品のほうが喜ばれるだろう。パンストフェチ以外の読者には、馬鹿馬鹿しくも不条理でやりきれないものとしか読めないだろう。これが視差に耐えないということであり、「垂れ流す」ということだ。
近年の著者の小説は、それをやっている。
かつてはそうではなかった。おそらくは、「自分よりずっと若い読者が読む」という意識が、視差に耐える力を生み出していた。その意識が弛緩するにつれて、著者の小説は、視差に耐える力を失っていったように見える。少女小説以外の場所でさらに衰えたのを見ても、「自分よりずっと若い読者が読む」という意識が大きな役割を果たしていたのではないかと推測される。
私は、「マイノリティからの告発」的な作家をまったく信用していない。
一般に、「巨乳はエロい」よりも「パンストはエロい」のほうが、よいものが書ける確率が高い。「巨乳はエロい」と感じるセンスはマジョリティなので、「巨乳はエロい」ということを無条件に前提としてしまいがちだ。マイノリティの宿命を背負うパンストフェチは、ほぼ必ず、「パンストはエロい」ということを全力で説得する。それなら後者が優れている。
だが、そのような意識はいずれ弛緩する。
過去に書いたものの蓄積が、弛緩をもたらす。「書いたものが伝わった」という事実が、弛緩をもたらす。
「自分とは違う読者が読む」という認識から力を得る作家は、書けば書いたぶんだけ、くたびれてゆく。その認識を外してしまえば、ほとんど作品とも呼べないようなものを書く。
花井愛子に起こったのは、そういうことではなかったか。
現在の少女小説の主流はBLである。もっとも売れている作家2人(あさぎり夕、斑鳩サハラ)はどちらもBL作家だ。
女性の書くBLは、その枠組み自体が、視差の装置を備えている。
作者の願望は、男性主人公を経由することで、性別の視差を通過する。これがBLに大きなアドバンテージをもたらしている。この装置が有効であることは、BLにときおり登場する女性登場人物をみればわかる。男性登場人物に比べると、驚くほど視差に耐えないものであることが多い。
一般に、「自分とは違う人間を書く」という認識は、「自分とは違う読者が読む」という認識よりも、緩むことが少ないように思える。
私が少コミレビューをやるのは、ひとつには、作家に視差を意識させたいからだ。
私の見方はおそらく、典型的な少コミ読者とは異なる。と同時に、異なりながら通じあっている。ちょうど人間の右目と左目が、異なりながら通じあう像を捉えているように。この視差が距離感をもたらす。
私の下した評価に対して、作家に一喜一憂してほしいわけではない。評価の集成のなかから、私という視点を築き上げ、作家自身のなかに視差の装置を持つようになってほしい。この視差の装置は距離感をもたらし、作家を大胆自在に振舞えるようにするだろう。
ここでいう「作家」には、少コミに作品を載せている現役作家だけでなく、投稿者も含まれる。むしろ投稿者にこそ視差の装置は必要だ。投稿者の多くは、視差に関することでは、現役作家とは比較にならないほど貧しい環境に置かれている。
私の少コミレビューを、無駄だという友人がいる。少コミのような箸にも棒にもかからない代物は要するに糞であって読む価値はない、と。
しかしこの意見は、三十万人という読者の数を見落としている。この三十万人は、いまは方向感覚を持たず無気力に漂う三十万人かもしれない。しかし革命を待つ三十万人でもある。
もしティーンズハートが最盛期に小説誌を出していたとしても、三十万人の読者は得られなかっただろう。三十万人とはそういう数だ。
凋落したあとのティーンズハートの新人作家は、何人の読者を得ただろう。おそらく一万人を大きく割っていた。方向感覚を持たず、購買力にも乏しい数千人。こうなっては確かに、無駄といわざるをえない。
コバルトが生き延び、ティーンズハートが滅びたことについて、もうひとつ。
あらゆるものと同じく、ティーンズハートは生まれながらにしていくつかのハンデを負っていた。イラストの方向性がマジョリティ指向であったことはすでに述べた。
もうひとつ、ハンデがあった。その最盛期に、読者が短期間で通りすぎていったことだ。
私が少コミレビューを始めたとき、知人友人の元少コミ読者に声をかけて、レビューをしてみないかと訊ねてみた。返事はすべて否だった。そのときの身振りが興味深かった。冷笑的な苦笑い。もし少コミではなく花ゆめだったなら、あんな表情で迎えられることはなかっただろう。
おそらく最盛期のティーンズハートにも、これと同様の傾向があった。読者のほとんどは数年間で「卒業」し、あとは冷笑的な苦笑いをもって、ティーンズハートのすべてを切り捨てる。作品も、作家も。
この種の「卒業」する読者に支えられて偉大になった作家はいない。
本書には、このような問題意識は見当たらない。著者がもともと広告業界の人間だからだろうか。講談社を批判するなら、おそらくここが核心になるべきだった。「卒業」されてしまうような作品でレーベルの血を薄めた罪を、糾弾するべきだった。この点でも、著者がティーンズハート作品を読んでいないことが惜しまれる。読んでいないものを糞だと主張するのは難しい。
(私は読んだ。小泉まりえの著書がもし今でも手に入るなら、ご覧になるといい。当時の平均的なティーンズハート作品と思って間違いない)
「卒業」という現象もやはり、視差の問題だ。
13歳のティーンズハートの読者は、いずれ23歳になり、33歳になり、43歳になる。13歳が読む作品は必ず、年齢と時間の激しい視差にさらされる。最盛期のティーンズハート作品の多くは、この視差にほとんど耐えられなかった。その結果が、「卒業」だ。
最盛期の著者の作品の一部は、かなり耐える。とはいえ、津原やすみなどに比べれば、桁違いに弱い。
そろそろ、まとめに入ろう。
少女小説は子供だましであることはできない。もしそれをやれば、最初だけは成功しても、長続きはしない。子供は次々と生まれてくるはずなのに、だ。ティーンズハートはその実例になった。著者はそのことを感づいてはいたが、知り抜いてはいなかった。
現在の著者の作品はひどいものだが、最盛期にはそうではなかった。しかしその力は、書くほどに失われることを運命づけられた力だったのかもしれない。それに比べてBLの力はもっと耐久性があるように思える。
著者は、ティーンズハート作品を読むべきだったし、今でも読むべきだ。
では、そろそろ、別れを告げよう。私の縦糸、ティーンズハートに。
ありがとう、とは到底言えない。よい本はあまりにも少なかった。別れを惜しんでもいない。くだらない過去の因縁を終わらせることができて、すがすがしい気分だ。
ここから始めよう。百合の時代はもう始まっている。
『1492』の作品紹介ページを設けました。
この作品紹介ページにはHoundを設置しているので、リンクするとリンク元が表示されます。『1492』になにか一言あるかたは、罵声歓声問わず、作品紹介ページへのリンクと一緒に、ご自身のブログ等にお書きください。
「いじめ」というのは悪い言葉だ。
暴行、窃盗、名誉毀損、侮辱、恐喝。これらの言葉はみな犯罪行為を指し示す。「これをやったらアウト」という一線で区切られた、一定の領域を指し示す。加害者と被害者が、通りすがりの他人同士であろうと血を分けた親子であろうと、これらの犯罪行為はなされる。現実の事件としても起こっているし、世間一般にも犯罪として認識される。
「いじめ」という言葉は、そうではない。それは犯罪行為ではなく、人間関係を指し示そうとする。その結果、「いじめ」という言葉は、犯罪行為から目をそらしてしまう。
犯罪行為をみるべきだ。
「強くなれ」だの「逃げろ」だのというメッセージは、当事者に感情移入したものだ。だが感情移入とカタルシスでは物事は変わらない。「同情するなら金をくれ」だ。
この場合は金では解決しない。では、なにをすればいいか。まず、認識の枠組みを変える必要がある。
学校のような空間のすみずみまで、「みんな仲良し」を行き渡らせることなど、最初からできない相談だ。生活を共にする家族が暮らす家でさえ、うまくいかないことも多い。なんの絆もない赤の他人を寄せ集めた学校が、すみからすみまで「みんな仲良し」になるわけがない。
学校では、悪いことが、当然に起こる。すべての悪いことに公的な第三者が介入するわけにはいかない。どこかに一線を引く必要がある。
第三者の目には、人間関係はつかみどころがない。学校による「いじめ」認定があれほど恣意的なのは、「いじめ」という言葉が人間関係を指し示すものであり、その人間関係につかみどころがないからだ。一線を引く基準としては明らかに役に立たない。
そこで、司法というシステムの知恵を借りよう。具体的な行為を基準とするのだ。
暴行、窃盗、名誉毀損、侮辱、恐喝。
学校で起こる悪いことは、これらの言葉で語られ、記録され、認識されるべきだ。
悪いことがみな犯罪になるわけではない。犯罪未満の悪いことは、認識をすりぬける。だが、第三者であるということは、そういうことだ。当事者にしかわからないことがある、それも膨大にあるのだと知ったうえで、自分の無知に耐えること。これも司法というシステムの知恵だ。
学校と実社会の違いを考慮に入れて、刑法よりも細かいところまで認識してもいい。たとえば、厳密には侮辱には当たらないような言葉による嫌がらせなど。しかしその場合も、あくまで具体的な行為を基準とする。
以上の理由により、文科省と教育委員会は、以下のように行動すべきだと考える。
・学校の記録や報告から「いじめ」という言葉を廃止して、侵害行為にもとづく記録や報告を行う。
・そうした記録や報告が、生徒児童の生活実感を反映できるように、侵害行為を分類する体系を整備する。
・偶発的な侵害行為をかならず記録・報告するという姿勢を築く。偶発的な侵害行為を、「将来にかかわるから」などという理由で隠蔽すれば、連続的・組織的な侵害行為も隠蔽せざるをえなくなる。
コミティア78にて香織派のスペースにおいでくださった皆様、また新刊『1492』をお買い求めくださった皆様、まことにありがとうございました。
また本日、『1492』のダウンロード販売を開始しました。こちらからお買い求めください。
長らくご愛読いただきましたこの『1492』の連載は、今回で終わりです。
連載は終わりですが、作品自体はもう少し先まであります。この先は、同人誌またはダウンロード販売のPDFでお楽しみください。
いわゆるひとつの「あのね商法」です。悪しからずご了承ください。
以下の3つのオプションを11月12日から順次ご提供します。
・ダウンロード販売 1000円
・コミティア78にてお求め 3000円
・同人誌通販 4000円
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判決期日は2週間後に迫っている。敗訴すれば、陛下は財団幹部ともども、対テロ関連法で逮捕・起訴されるだろう。
その前に、陛下だけでも逮捕・起訴をまぬがれる道を手引きしよう、という連中がいる。それも複数いる。ただしこの連中はみな、判決の前に決心することを求めている。判決後では時間的な余裕がないというが、実のところは連中はみな日本政府の回し者で、千葉国王の権威を失墜させようと企んでいる。もし陛下が、財団幹部や支持者を放り出して自分の身の安全を図れば、千葉国王というものは存在しなくなり、再分離運動も瓦解するだろう。
「今度の水曜日に、公邸にその連中を集めて、オークションみたいなことをやるんだわ。誰が一番いい条件をつけるか。そもそも、陛下がうなずくような条件を出せるかどうか。
財団だってこんなこと、やりたくてやるわけじゃないよ。あんなチンピラどもは相手にしたくない。陛下だって連中なんかに頼るわけがない。そんなことくらいはみんな知ってるけど、ま、ケジメって奴よ。なんていっても、ほかに陛下をお助けする手立てがないんだから。
ひかるをそのオークションに加えてあげる。ただし、ひかるの出す条件は、敵前逃亡じゃなくて、徹底抗戦だけどね」
そのとき私は珍しく冴えていて、勘繰ってみた。
「美園さんはそのオークションの前に辞職を発表なさるんですね。その連中からいくら貰えるんです?」
すると美園はこともなげに認めた。
「お金が欲しい? あげるよ、全部。
そのかわり――陛下を助けてあげて。
牢屋に入れられたり、外国に逃げたりしないですむようにしてあげて。この国で、自由に生きていけるようにしてあげて。
私はそんなスーパーマンじゃないから、お金をもらってトンズラこくわけよ」
その条件に、うなずくこともできず、断ることもできずに、私は外の景色に目をやった。
帰りの車中だった。運転は美園だ。ひさしぶりに研修以外で運転する、と言っていた。護衛官は私用では車の運転をしない。あと2日で辞めると決まったから、美園は運転席に座った。
車は高速道路を南に走っている。窓の外は山と田んぼばかり、もう木更津が近い。
私はふと思いついて、試しに言ってみた。
「そのお金は、美園さん自身のために使ってください」
「どうかな。悪銭身につかず、って言うじゃないの」
なぜ美園に貯金がないのか。本人の言うとおり、子供の養育費と仕事用の衣装代もかなりの負担だろう。けれど、それでも赤字にはならない。官舎の家賃はタダ同然だし、独身では車も乗れないので必要ない。
きっと美園は、工作費の一部を、自分の懐から出した。保安局には言えない支出があったのかもしれないし、そもそも工作費がもらえなかったのかもしれない。
「美園さんのことが心配になってきました」
すると美園は急にぶっきらぼうに、
「考え事したいから、ちょっと黙ってて」
と咎めるように言った。
官舎の前で車を停める。
「さっきはごめん。寄ってくでしょ?」
「メイド服に着替えないと約束していただければ」
冗談のつもりだった。けれど美園は目を丸くして、
「なに、『まんじゅうこわい』? ひかるってゲテモノ好きだったんだ。びっくりだ。ひさちゃんとか陛下とか、あんなに趣味いいのに。人間ってわかんないもんね」
どうやら美園はからかっているつもりらしかったが、意味がわからなかった。
「なにが悪趣味なのかわかりません」
「こんなババアにあんなの着せるのが悪趣味」
「いまでもよくお似合いになると思います」
当たり前のことだと思って答えたのに、
「これだよ、女ったらしがきたよ。ひかるが変なこと言うから震えちゃってるよ私」
本当に美園の手は震えていた。私は黙ってお茶が出てくるのを待つことにした。
官舎は昔となにも変わらない。間取りはもちろん、床がきしむ場所も、ドアの取っ手の形も、身体が覚えているままだ。家具は入れ替わっている。けれど、私の身体の感覚では、なにひとつ変わっていない。
「あのねえ、私にあんまり変なこと言わないでよ」
美園がアイスティーを運んできた。
「変なことを言っているつもりはないのですが」
「ここんとこ何年も陛下しか食べてなくてさ、男が足りなくて情緒不安定なんだわ。陛下の前だと収まるんだけど。一体どんなフェロモン出してるんだあの女。
ひかるみたいな女食動物にはわかんないでしょう。女を食うで女食(にょしょく)ね。いや、わかるか。陛下の匂いにがっついてたし」
「あのとき私は情緒不安定でしたか?」
「あんたは基本的に自覚ゼロなんだよ。
まあね、あんまり自覚するのに忙しいと、いろいろ重たくなってきて、自分もまわりも、たまらんわね。自覚するより大切なことなんてたくさんあるし。私にできてなくて、ひかるにできてること、たくさんある。
でも一つだけ言っとく。
陛下と親しそうな子に、ガンつけて毒舌するのはやめて。みんな恐がってた。陛下は喜んでたけど」
私はそんなことをした覚えは――心の中で反論しかけたときに、思い当たる。
初めて緋沙子に会ったとき、言っていた。『もし設楽さまが、陸子さまのことで私に嫉妬したら、そのことを私に隠さないでください』。あれは、そういうことだったのだ。
「ひかるは相変わらず顔に出るねえ。思い当たったんなら結構。
さっき、井村さんに――女中頭に電話した。ひかるのこと、話を通すためにね。もうすぐここにくる。ガンつけるんじゃないよ。陛下はあの子には手を出してない、はず。でもそいつ、陛下は私のものです、みたいな顔したがる奴なんだわ。お面が自慢の子でさ、なんで陛下に手を出してもらえないんだろうって思ってるね、あれは。まあ、ひかると緋沙子を見たら誰だって、陛下のこと面食いだと思うか」
あとから思い返せば、このとき美園は巧妙に嘘をついていた。話の流れとしては言うはずのことを、わざと言わなかった。
「昔はひかるが年下だったから、みんな譲ってあげてたけど。今度はひかるが年上だからね。お姉さんしてあげよう。
……お説教はこれくらい」
言い終えると、美園は自分のアイスティーを一気に飲み干した。運転で喉が乾いていたのだろう。私も自分のを、美園のように一気にではないけれど、おいしく飲んでゆく。
美園が席を立ったのを、私はほとんど意識しなかった。次の瞬間、私は背後から抱きしめられていた。
「私の匂いで発情なさいませ、ひかるさま」
その言葉につられて、美園の匂いを意識した私は、その言葉どおりに動かされてしまった。
「――なーんてね。感じたでしょう? ありがと。ごめんね。情緒不安定なんだわ」
けれど腕は解かず、美園は続けた。
「ひかるにお願いがあるの。
判決が出て、陛下が…… そういうことになったら、私のところに来て。
いまの財団関係者の風向きとか人間とか、ぜんぜんわかんないでしょう。誰がなにをするかわからない。
私なら、ひかるに一番いいようにしてあげられる」
その言葉の裏にあるものが、私の胸をふさぐ。家族も失い、陛下のお側からも去り、美園はひとりになろうとしている。
「お願いされるまでもありません。私はいまこうして美園さんを頼っているのに、2週間後には手のひらを返すとでもお考えですか?」
「ひかるがどうするかは、そんなに重要じゃないんだわ。お願いすることが重要。わかる?」
「わかりません」
「そりゃそうだ。ひかるだもんねえ」
私が返事に窮していると、懐かしい音がした。玄関の呼び鈴だ。女中頭がきたのだろう。
Continue
連載物のエロまんがである。
あらすじ:内気なめがねっ娘が鷹揚なお嬢様にいじられる。
このお嬢様はめがねっ娘をいじるだけで食わない。「食うのか食わんのか、はっきりしろ」と言いたくなる。さらに後半になると、お嬢様がいじり役ではなくなってしまう。
百合的にお勧めとは言いがたいが、最後はきっとお嬢様がめがねっ娘を食って終わるのだと信じたい。
18禁なので7andyへのリンクはない。
「神経症は君だけじゃない」というポスターを昔ときどき見かけた。それをもじっていえば、IE7が落ちまくるのは君だけじゃない。
私の周囲ですでに三人がIE7に挑戦したが、Amayaもかくやという落ちまくりっぷりに全員が驚きあきれている。読者諸氏は十分に気をつけられたし。
少コミのふろくについて。
月2回刊ではネタ出しも大変だろうと思うが、当たり外れが大きい。今号(第23号)は髪留めだ。私的にはハズレだ。前号のレターセットは当たりだった。次号はボールペンらしい。文具系はあまりハズレがないので嬉しい。当たりといっても実用にするわけではないのだが。
希望としては、中国の人件費が安いうちに、フィギュアをやってくれないかと思っている。少コミまんがの彼氏役をうまく立体にできる原型師がいるかどうかが問題だが。
では第23号のレビューにいこう。
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載再開第7回
あらすじ:主人公と彼氏役(はじめ)がデートを強制される。
「主人公の身に危険が迫る→攻撃的に対応する彼氏役」というパターンをやっている。しかしこのパターンは、彼氏役が主人公を陰から見守っている場合に使うものだ。今回のように、彼氏役が主人公をエスコート中の場合には成立しない。エスコートされているはずの主人公の身に危険が迫ること自体、彼氏役のエスコートになんらかの問題があったことを示している。危険というのが大地震のような天変地異ならいいが、この話はそうではない。
文部科学省が「文部化学省」なのは、意図してやっているのだろうか。
採点:★★★☆☆
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第10回
あらすじ:彼氏役(大輝)に魔性の女が近づくが、難なく切り抜ける。
まだしばらくイチャイチャを続けるつもりかもしれない。大輝は内心の読みづらいサスペンス型の彼氏役なので、接近戦には向かない気がする。二人を引き裂く話をやってほしい。
採点:★★☆☆☆
・悠妃りゅう『恋するふたりの蜜なやりかた』連載第2回
あらすじ:彼氏役と二人きりになりたい主人公、けれど一歩踏み出すのが難しい。
くまがい杏子にも思うことだが、背景をちゃんと描けないと、恐ろしく不自由な画面構成になる。青木琴美や千葉コズエがうまく背景を使っているのと比較してみると、よくわかる。
採点:★★☆☆☆
・青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第30回
あらすじ:逞と繭がデート。
こういう展開はじつにうまい。それはもうわかっているので、照の問題にうまくオチをつけて終われるかどうか、そこだけが見どころだ。
採点:★★★★☆
・伊吹楓『小悪魔☆パニック』読み切り
あらすじ:内気な主人公に二重人格が発症、新しいほうは攻めキャラだった。
絵が流麗で画面構成もいいが、話運びがぎこちない。
採点:★★★☆☆
・車谷晴子『アイドル様の夜のお顔』連載第3回
あらすじ:恋の盛り上げ役が登場、彼氏役をやきもきさせる。
今回は一応話になっていた。
3回で終わりと思っていたが、続くらしい。
採点:★☆☆☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第7回
あらすじ:女の姿でファミレスでバイトする主人公。サッカー部の仲間にバレそうなところを切り抜けたあと、彼氏役(司)がやってくる。
男子校潜入モノのお楽しみ、バレそうなところを切り抜ける展開だ。どんどんやってほしい。
採点:★★☆☆☆
・千葉コズエ『7限目はヒミツ。』連載第2回
あらすじ:彼氏役(順)と接近、主人公が告白。
「心の闇」という日本語のへぼさには強烈なものがある。避けてほしかった。
話を滑らかに進め、画面構成に見所を作り、彼氏役の魅力をアピールする――少コミ作家は忙しい。
今回は画面構成が割を食った。アピールもいまいちだ。恐れることなく話を練りこんでほしい。
採点:★★★☆☆
・新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第19回
あらすじ:主人公(水樹)の学園祭。主人公と彼氏役(秋羅)が王子様の役を争う。
新條パワーが出ている。いいぞ、もっと、もっとだ!
採点:★★★★☆
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第9回
あらすじ:彼氏役(芯)がいい男ぶりをアピール。
ツンデレの芯が普通に有能・万能な男をやっている。
少コミを読んでいると、考えさせられる――有能・万能を避けつつ、いい男ぶりをアピールするには、どうすればいいか。これはおそらく、現在の少コミにとって重要な問題だ。
たとえば、今年の第20号に掲載の藍川さき『姫君革命』では、たおやかなはずの彼氏役が、なんの前置きもなく運動部レベルのバスケの腕を発揮したりする。「いい男=万能・有能」という枠に縛られることで起きた不条理展開だ。
今年の第16号に掲載の陽華エミ『独占LOVEスクープ!』は、回答例のひとつになっている。
あと、内容とは関係ないが、モブを描いているアシスタントの絵がちょっと面白い。
採点:★★★☆☆
・紫海早希『さとうさん恋愛革命!!』読み切り
あらすじ:意地悪な男が実は主人公のことが好きで、くっつく。
画面構成はそこそこできているはずなのに、話がすんなり頭に入らない。いろいろ整理が足りない気がする。
採点:★★☆☆☆
・藤原なお『嘘つき恋愛マニュアル』読み切り
あらすじ:男にふられた主人公がよりを戻そうとホストの指導を受けたら、よりを戻すかわりにホストのほうとくっつく。
足りないところはないはずだ。画面構成はやや単調だが十分、話はわかるし頭に入る、彼氏役の魅力もアピールできてる。
が、足りない。なにかしら気に食わない。人物の表情だろうか。
採点:★★☆☆☆
第13回に続く
即売会参加のお知らせ:
西在家香織派は来る11月12日(日曜日)のコミティア78にサークル参加します。スペースは「お15a」、新刊は『1492』です。
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予想してはいたことだった。『護衛官も千葉国王に見切りをつけた』という報道が、かつて緋沙子のことを初めて報じたのと同じ経路から出てきていた。私は念を押した。
「週刊××の木村記者は、いまでも財団の?」
「それは守秘義務。
でも、ちゃんと届くもんだね。特定個人を狙うのって、あんまりアテにしてなかったけど」
「あれは私宛てに?」
美園はうなずいて、
「ひかるをおびきよせるためにね。……実はね、今このお店、ひかる以外はみんな保安局員」
私は振り向いて店内を見回した。とたんに、美園は大笑いした。からかわれたのだ。
「こんな手間かけるわけないでしょう。ひかるに用があるなら官舎の前で押さえてるって」
思わず子供のようにむきになって私は、
「取調べでは私が口を開かないかもしれません」
「ふーん? ひかるは今日なにかしゃべったっけ? ひさちゃんと別れたことくらいか。そんな大切なことなんだ、ふーん。そりゃそうだよね?」
「……本題に戻りましょう。私をおびきよせたのは、どうしてですか?」
「ひかるは、誰に会いにきたの?」
それはもちろん陛下に――そう言いかけて。
美園が嘘つきだということを思い出す。
正面きって本心を言うことが、めったにない人間だということを、思い出す。
陛下のおっしゃることが、たとえ嘘であっても本心からなのとちょうど正反対に、美園の言うことは事実でも嘘ばかりだ。言葉のはしばしから気持ちを読み取っていくしかない。
私が誰に会いにきたのか。
わかりきった質問だった。こんなわかりきったことを、こんな顔をして、訊ねるだろうか。
私が帰国して一番最初に美園に連絡したことを、嬉しかった、と言っていた。
本のページに挟まれた残り香のように密かに、昼間の星の光のように淡く、美園は期待している。
できるだけ平気そうな顔を作って、私は答えた。
「陛下です」
「会って、それから?」
「またお側に置いていただければと」
「そういうこと。ひかるをおびきよせたのは、私の求人活動。こんなときに未経験者にやらせるわけにはいかないでしょう。いまは公募はいらないから、すぐに代わってもらえるしね」
千葉の憲法は公務員の採用について募集と選考の一般公開を定めていた。
「どうして辞めるんです?」
「退職金が欲しい。判決の後だと出ないかもしれない、って脅されててさ。貯金がぜんぜんないから、これ辛いんだわ」
美園は力説してから、ちょっと早口で、
「あと、愛と正義のため」
と付け加えた。
Continue
買おう買おうと思っていても店頭で見当たらないものは、ネットで買うしかない。というわけで私はいまから以下のものを7andYで買う。
花井愛子『ときめきイチゴ時代 ティーンズハートの1987-1997』
Simoun CDドラマ 嗚呼、麗しの派遣OLなぜなんだシムーン株式会社