従軍しないと決意した理由をここで明確にした方がよさそうだ。説明しても少々長く、わかりにくいかもしれないのだが、当時、私は自分は真に明晰だと思っていた。しかし、極めて重大な問題の決定をするに当たり、真に明晰でいられる人などいるのだろうか。これまで一度たりとも定言的命令が意味あるものと考えたこともない。カントの哲学あるいは今日カント哲学としてまかり通っているものは、傲慢と愚かさの極みとしか私には考えられない。常に普遍的格率の道徳率に従って行動せよと主張するのは、的外れか、偽善かの何れかである。どのような行動をとろうとそれを正当化するのにその格率を持ちだせばよいのだから。私など「でも誰もがあなたのように振る舞ったら…」と意見されたことなど数え上げたらきりがない。例えば選挙でも決して投票に行かないと言った場合だ。そういう時には、「誰もが私のように振る舞うなんてことはあり得ないからご心配なく」と答えるようにしている。
『アンドレ・ヴェイユ自伝 下』(シュプリンガー・フェアラーク東京)52~53ページ
私の知るかぎりではカントは、コペルニクス的転回という金字塔を除けば、ロクなことを言っていない。そして、コペルニクス的転回が注目されるようになったのは、言語論的転回が始まってからのことらしい。それまでは真面目な顔で「アプリオリな総合的判断」などとぬかしていたのだろう。ヴェイユでなくても知恵のある人間なら馬鹿らしいと思ったにちがいない。
(ただし、これがなぜ馬鹿らしいかを解明するのは、馬鹿馬鹿しいほど難しい)
しかしそれにしてもヴェイユの物言いには刺がある。このあいだ紹介したくだりといい、ヴェイユは西洋哲学――1930年代にフランスの学校教育で教えられていたような、言語論的転回が始まる前の、デカンショ節なもの――になにか含むところがあるらしい。妹(シモーヌ・ヴェイユ、哲学者、社会運動家。第二次大戦中に中二病をこじらせて34歳で死んだ)を救えなかった西洋哲学を恨んでいたのだろうか。
『狼と香辛料』にアニメ化の効果
『狼と香辛料』は今年1月からUHFでアニメが放映されている。
支倉凍砂の週間ベストセラーリスト動向をみると、『狼と香辛料』5巻(2007/08発売)ではR1139。『私立!三十三間堂学院』(佐藤ケイ)とほぼ同等である。これが7巻(2008/02発売)では、『私立!三十三間堂学院』7巻を順位で大きく引き離し、さらに2週目もランクインを果たして現在R1392。
・萌え系の原作を、
・そこそこ出来のいいアニメにして、
・地上波で流す
という条件が揃った例になるか。
あさぎり夕、下げ止まらない
あさぎり夕は2003年を頂点にして、文庫で上位に入ることがなくなり、ノベルスでも『YEBISUセレブリティーズ』や斑鳩サハラに勝てなくなっている。
2008/02発売のBe boy novelsでは、人気シリーズの『ダイヤモンドに口づけを』7巻が『月にむらくも』(玉木ゆら)に敗れてランク外となった。
私のような部外者の目には、この発言はきわめてスーツ的に映る。だがその理由はあまり自明ではない。この発言のスーツ性がどのように発生しているのか、そのメカニズムを説明してみたい。
スーツの行動パターン:自分の話の相手が、自分とグルになると決めてかかる
スーツ的世界観においては、「パートナー」「ステークホルダー」といった概念が重要だ。つまるところ、経済的利害の共有を中心にした人間関係である。こういう関係をまとめて「グル」と呼ぶことにする。
スーツは常に、自分とグルになる人間を増やそうと務める。グルになる見込みのない人間とは、そもそも話さない。対話の可能性がないので、存在を忘れ去る。こうして生まれるのがスーツなお言葉、「私は本については、書く努力の5倍、売る努力をするということを決めています。」だ。
「書く努力の5倍、売る努力をする」は、単なる読書人として聞くなら、不可解きわまりない。映画の宣伝で、「制作費×億ドル」とは言っても「宣伝費×億ドル」とは絶対に言わない。そんなことは映画自体とは関係ないうえに、「その金を内容に回せ」という無用の怒りをかきたてる。
しかし、スーツの行動パターンを理解すれば、「書く努力の5倍、売る努力をする」も理解可能なものになる。このスーツなお言葉は、編集者や出版社(=自分とグルになりうる人間)に向けて放たれているのだ。単なる読書人ばかりが何百人も集まっていて、編集者など一人もいない場であろうと、スーツの目には、単なる読書人(=自分とグルになる見込みのない人間)は見えない。
これほど著しく認知を歪める世界観や生活様式は、たいてい「カルト」と呼ばれている。
だがスーツをカルトと呼べば、別の危険をもたらすだろう。たとえばナチスをカルトと呼ぶようなものだ。それに、カルトを教義としてしか認識できない人々への配慮を欠く。スーツには教義らしいものは見当たらない。「自分とグルになる人間しか見えない」という世界観は、宗教のような社会現象に一般的にみられるもので、スーツに特有のものではない。
貨幣は最強の共通言語のはずであり、スーツは資本主義、市場主義の産物のはずなのに、そのスーツが宗教的な排他性・独善性を帯びるとは、どういうわけか。
グル、他者、公共性、グローバリズム的な拡大、疎外、あらゆる種類の原理主義――たくさんの問題へと通じる交差点が、このあたりに確かにあるのだが、まだうまく説明できない。もどかしい。
GlassFish v2内でlog4j 1.2.15のSocketAppenderを使うと、ログの受け側との接続を開始してから数十分が経過すると勝手にconnection lostし、その直後のログを取りこぼす。原因は不明。JBoss AS 4.0.xではこのような現象は起こらない。
学校の成績に関する限りはうまくいっていたが、有能な先生の指導にもかかわらず、私は哲学というものを決して「好む」にはいたらなかった。この学問と私の思考法には非両立性が在るようだ。試験ではカントとデュルケイムに関する問題が出題された。私は使っていた教科書はよく勉強していたので、無難な小論文が書けたが、それまでにこのふたりの学者が書いたものを一行も読んだことはなかった。それなのに、私は自分が思ったよりも、はるかに上位の成績がもらえたことが不快だった。
(中略)
自分が話している中身についてほとんど理解していないのに充分やってのけられる学問など、一顧だに価しないと、私には思えたのだ。
『アンドレ・ヴェイユ自伝 上』(シュプリンガー・フェアラーク東京)25~26ページ
逆にいえば、ヴェイユのような数学者は、たとえば高次元の幾何学を、論理的な操作以上のものとして理解できるらしい。想像もつかない世界だ。
米兵による性犯罪が起きるたび、「ついてゆく方も悪い」などと被害女性に責任を転嫁し、根拠もなく中傷する物言いが繰り返されてきた
多くの排除現象の場合、わたしたちは「傍観者」であるか「観客」である。自分が直接の被害者にならないかぎり、けっして公共的問題に関与しようとせず、ひたすら私生活に引きこもる。現代の排除現象をしばしば悲劇的なものにしているのは、この傍観者的態度である。さきほど「相互共犯性」として述べたことは、たんに道義的に共犯だというのではなく、現実に排除現象の重要な要因になっているという厳密な意味で共犯なのである。そしてこれも「わたしたちが社会をつくる」ことのひとつの局面である。
この世には、しなければならないことなど、ひとつもない。だから沈黙や無視を、私が責めるいわれはない。
しかし、私生活に引きこもる後ろめたさから「被害者にも責任がある」とうそぶくことは、してはならないことに属する。
それにしても、「自己責任」というのは「自業自得だから放置」のことだと思っていたが、「俺の空気を読めない奴らを征伐しろ! 俺が空気をガンガン作って世の中を支配してやるぜ!」という意味になったのはどういうわけだろう。
この記事を読んで、「ああ、精神分析だなあ」と思った。
精神分析の主張ではなく、方法のほうだ。擬似問題を立ち上げては擬似説明を与える方法が、精神分析と同じだ。
精神分析の方法は、無能なシャーロック・ホームズとでもいうべきものだ。ゴミのような情報を収集してそこから問題を解決する――と思いきや、問題を解決することはできない。今日、精神分析が治療に役立つと主張する精神科医はほとんどいない。それでも、出発点の問題(=患者を治療する)から切り離されて体系だけは残り、見るものに「ふーん」と言わせる。
「ふーん。で、その体系がそこからどうなるの?」
ゴミのような情報のなかに擬似問題を見つけては擬似説明を与える、それだけだ。『「意志からインセンティブへ」とダイエット方法論の重点をズラしている点にあります』と擬似問題を見つけ、『近年の情報技術の台頭による「自己モデル」の変化』と擬似説明を与えるわけだ。
なぜ擬似問題と擬似説明なのか。「ダイエット方法論の重点」をそのように把握する必然性が、「自己モデルの変化」という擬似説明の中にしかないからだ。
上記の例で具体的にいえば、「意志からインセンティブへ」「自己モデルの変化」という擬似問題と擬似説明は、「『測定なくして改善なし』をダイエットに持ち込んだ」というシンプルな説明と両立しないし、シンプルな説明のほうが強い。筆者がシンプルな説明を無視して擬似問題と擬似説明をとる理由は、先に擬似説明ありきだからだ。つまり論点先取である。
無能なシャーロック・ホームズを発明したフロイトと精神分析業界はある意味で偉いが、同じパターンを踏襲するだけのポモ業界の偉さが私にはさっぱりわからない。
笙野頼子論の切り口その2、「ロリコン」。
ロリコンロリコン子供をだーしに
ロリコンロリコン商売はんじょう
らりるれらりるれろーりこーん、みたこのて、き、だー。
(『だいにっほん、おんたこめいわく史』75ページ、「ロリコンアワー」歌詞)
笙野頼子の一部の作品では、「ロリコン」という言葉がキーワードになっている。このキーワードを理解するのが難しい。マスコミ的な日本語から遠く離れて、笙野流の独自の意味を強く帯びている。だからといって笙野作品を読めないのではもったいない。というわけで絵解きに挑戦してみる。
「趣味ロリコンではなく商売ロリコン」(213ページ)という言葉がヒントになる。実例でいえば、村上隆とそのエピゴーネン、そして連中を支える欧米の美術界、ひとまとめにして言えば、HENTAIエウリアンだ。笙野作品の「ロリコン」は「HENTAI」と置換して読むとわかりやすい。昔GEISHA、今HENTAIだ。
こう考えて読めば、笙野流ロリコンとその扱いは政治的に正しいものになる――わけではない。笙野作品は政治的な正しさを拒んでいるし、そもそも小説に政治的な正しさを求める態度がおかしいのだが、これに関して一言。
上で引用した「ロリコンアワー」の歌詞に反して、HENTAIエウリアンが直接ダシにしているのは子供ではない。連中の商売のダシにされ、トーテム簒奪に憤っているのは、オタク文化を生き、オタク文化の少女表現におのれの魂を見出す人々だ。今風にいえば「萌えオタ」だ。しかしこの言葉にはやや狭いニュアンスがある。ここでは笙野流ロリコンと対比させて、「真のロリコン」と表現する。
ここで整理しておこう。
・笙野流ロリコン=HENTAIエウリアン=村上隆
・真のロリコン=萌えオタや萌え絵師=都築真紀
真のロリコンが笙野流ロリコンと戦うのなら、政治的に正しい。ただし、その正しさを成り立たせる枠組みは狭い。「実物の子供はどこへいった?」というツッコミにさえ耐えられない狭さだ。『おんたこめいわく史』でいうところの「正しいぼくたちの反権力闘争」だ。
だからといってツッコミに耐えるよう枠組みを広げてゆけば、綺麗事の一般論にたどりつく。真のロリコンが「真」である所以の情熱、生々しさは消え失せてしまう。小説は一般論では成り立たない。
偏狭な政治的正しさを投げ捨てて、自分や他人の迷妄と誤解をありったけぶちこみ、小説を生々しく立ち上がらせる。他者を代弁することのおこがましさを知るがゆえに、真のロリコンは作品世界には影としても登場させない。――これが笙野頼子の手法である。作品世界から排除されている真のロリコンは、読者として想定されている、と言っていいだろう。
生きながらロリコンに葬られ、それでもなおどういうわけか地上をさまよっている真のロリコンのために、『だいにっほん、おんたこめいわく史』はある。
こんな読み方に、作品内の笙野頼子は激怒するかもしれないが、その程度でひるむ腰抜けには「「近代文学」と称せられたアニメのノベライズ作品」(26ページ)がお似合いだ。
各紙はこの殺害計画発覚に抗議し、再掲載に踏み切ったものとみられる
コピペ煽りを恥と思わないような人々に説得されるようなテロリストがいるとは思えない。
2008年第1号から表紙の題字が「Sho-Comi」に変わった。流通などに登録されている雑誌名も「Sho-Comi」に変わったのだろうか。誌面からはよくわからない。とりあえずこの連載は本文では「少コミ」のままでいく。
今回は2008年第5号のレビューである。
・青木琴美『彼は行けもしない甲子園を目指す』読み切り
あらすじ:彼女役は野球部のマネージャー。妙な方法で野球部に勧誘された主人公(男)は、彼女役に告白するが振られる。それでも野球部に入るが、彼女役にすでに彼氏がいると知る(実は誤解)。
少コミなのに男主人公で許されるのか、さすが看板作家、と感心した。
小細工のアイディアはそれなりだが、登場人物の造形にひらめきがない。
採点:★★★☆☆
・くまがい杏子『放課後オレンジ』連載第12回
あらすじ:彼氏役(翼)が主人公(夏美)に告白してキス。
「筋肉はウェイトトレでつけるもの」と小学生のうちから教えるべきだと思う。
旋回軸がさっぱり見えない。
採点:★★☆☆☆
・千葉コズエ『24 COLORS』新連載第1回
あらすじ:高校に入学したばかりの主人公(七風)は、美術部の先輩の彼氏役(ちはや)に出会う。
構図に工夫がある。人物の扱いはややぎこちないか。
採点:★★★☆☆
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第35回
あらすじ:彼氏役(司)の父親の葬儀。主人公(翠)と司がいちゃつく。
また今回も当て馬(カズマ)が忠犬アピールをした。作者は忠犬アピールに思い入れでもあるのだろうか。
採点:★★☆☆☆
・真村ミオ『クラッシュ☆2』連載第2回
あらすじ:敵役(安奈)が主人公(桃華)と彼氏役(淳平)を自宅のパーティーに招待する。桃華は子供の面倒をみて面目を立てる。
子供をお手軽にダシに使う話は嫌いだ。「無能な私だけれど子供の世話だけは」などという人間に世話される子供は不憫だ。
採点:★☆☆☆☆
・織田綺『箱庭エンジェル』連載第4回
あらすじ:事故キスのあと、彼氏役(桃)は主人公(羽里)と距離を置く。苦しむ羽里を見て敵役(飛鳥)は、「陸上競技会で全種目一位を取ったら生徒会役員に迎えよう」と提案する。
話がぎくしゃくしがちな難しい展開なのに、実になめらかにこなしている。
採点:★★★★☆
・水波風南『今日、恋をはじめます』連載第10回
あらすじ:主人公(つばき)は妹(さくら)、彼氏役(京汰)、その友人(西希)と旅行に出る。さくらは京汰に接近を図るが、西希に口説かれて関係を持とうとする。さくらの軽薄な恋愛観に怒るつばきは、さくらに向かって「椿君(京汰)が好き」と宣言する。
さくらや京汰の軽薄な恋愛観は、遠目には痛ましく映る。つばきの慎重な恋愛観のほうが充実していると、遠目にはわかる。だが登場人物たち自身にはそれがわからない。軽薄な恋愛観のほうが楽しそうに思えてしまい、つばきは疎外を感じてしまう――昔ながらの典型といえば典型だが、説得力のある構造だ。
昔ながらの典型そのままなら、慎重な恋愛観がその強さを認められて終わりだ。が、作者はおそらく、それ以上の何かを狙っている。その狙いが楽しみだ。
採点:★★★★☆
・車谷晴子『危険純愛D.N.A.』連載第11回
あらすじ:主人公(亜美)と彼氏役(千尋)がいちゃいちゃする。敵役(臣吾)が不吉な言動を見せる。
臣吾は捌けないかと思っていたが、まだ使う気らしい。
採点:★★★☆☆
・咲坂芽亜『姫系・ドール』連載第19回
あらすじ:彼氏役(蓮二)の店が父親によって潰される。主人公(歩)は蓮二とともに蓮二の父親に会う。父親は蓮二に、「お前が社長を継がないのなら、歩のデザイナーとしての道を閉ざす」と脅し、蓮二は従う。
構図がメリハリや工夫に欠ける。
採点:★★☆☆☆
・蜜樹みこ『アンティークガール』読み切り
あらすじ:主人公はお堅い風紀委員。主人公に言い寄る彼氏役は、ゴシックな洋品店の息子。主人公はゴシックな装いに憧れているが、お堅いイメージのため口に出せずにいる。あるとき彼氏役の店に雑誌の取材がくることになり、主人公は姫役のモデルをさせられる。
作者は、裏切りとその後の関係修復に対する、なにかいわく言いがたい執着があるような気がする。「十分なスキルを備えた鋭敏な読者なら、何も知らなくても、そこに何か直視し難い暗いものが蹲っていることを感知するでしょう」(佐藤亜紀『小説のストラテジー』244ページ)。見える、僕にも見えるよ!
採点:★★★☆☆
・藍川さき『オレ様王子』最終回
あらすじ:悪役が主人公に迫るが彼氏役に撃退される。
どうでもいい。
採点:★☆☆☆☆
第41回につづく
笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社)を読んだ。
最近、とある早大生と話したとき、笙野頼子で卒論かなにかを書くのだと聞いた。どう切るのかと尋ねると、女性文学やフェミニズムの方面だという。そんなものだろう、と思いつつ、強い違和感を覚えた。笙野頼子をフェミニズムで切っても、笙野のいう「イカフェミニズム」や「学者フェミニスト」を解説する以上のなにができるのか。
それ以来、笙野論の切り口をずっと考えていた。本書を読んで、答のひとつが見えた。公共性だ。
例えばお尻マニアの雑誌は一万部売れるという、しかしそれはただの欲望である。自己都合で売れる一万部が、そのまま思想支援の一万人にはならないだろう。無論、お尻の思想というものがあってそのために死ぬ人はいるかもしれない。だがそのような人が切実にお尻を擁護する理論構築をしたとしても、そこに普遍性は宿るであろうか。無論、もし普遍性が宿るとしたならばそれは公共的文化ということになるのであるが。
しかしその場合は他者の想像力に訴え、緊張感のあるグローバルな視点を持たなくてはいけないのだし。つまりは、お尻の公共性である。
(62ページ)
私なりに言い換えれば、パンストフェチの目に映る世界を描くエロ小説は、「パンストはエロい」ということを読者に説得しなければならない。
ある頭いい評論家は国家の大きな物語が見えなくなった時代、小さい身の回りの事を書く小説が中心になったと言っています。え、でも国家対抗的な主人公だったらひとりひとりは小さくても思想、感覚は大きく出来るでしょ、小さい私から大きく振り返るそれが文学だ。
(220ページ)
国家対抗的という話ではないが、緊張感のあるグローバルな視点を持って「パンストはエロい」と全身全霊で説得するエロ小説(もはや純文学のような気がするが)は、国家よりも小さいといえるのか? パンストフェチの目に映る世界は「小さい身の回りの事」なのか? 国家を基準にして物事を測る夜郎自大な態度のほうが、全歴史の全人類を説得しようとするパンストフェチより大きいと、なぜいえるのか?
市場原理は個人より大きい、しかしでは個人の命や私有や精神よりも大事なのか、ここを曖昧にしてくるのがおんたこである。「公共の福祉」という言葉は権力しょった上で、叩かれまくりながら使う言葉ですよ。それなのに大きいという事を公共と言ってくる。既に個人の利益追求の範疇を越えた、消費のいきおいや怪物的経済を大衆の総意と称してくる。
(212ページ)
公共性は、数の論理や大きさに宿るのではない。社会の中での合意形成だけの問題でもない。社会の外にいる他者を想像する努力、他者の批判に耐えようとする決意、他者の想像力に訴える態度に宿るのだ。
審美的判断はこのような公共性を前提とする。
芝居や絵の「上手下手」という判断を例にとって説明しよう。上手下手は論理的に白黒がつくものではなく、官能的・審美的なものだ。「論理的に白黒がつかないことは判断してはならない」などと極論に走るのでもないかぎり、人々の審美的判断はおおまかな一致をみるし、一致を得るために話し合うこともできる。また同じくらい確かなこととして、人々の審美的判断は完全には一致しない。あらゆる審美的判断には異論の余地がある――ただし、異論を差し挟むには資格がひとつ要る。その芝居なり絵なりを鑑賞した、という資格が。
思考実験をしよう。「自分は『モナ・リザ』以上の絵を描いたが、誰にも見せないうちに焼いてしまった」と主張する画家がいても、誰も真に受けないだろう。「誰にも見せないうちに」という部分を「一人だけに見せてから」と変え、その鑑賞者が「確かに『モナ・リザ』以上だった」と証言しても、事態はほとんど変わらない。
さて問題である。「一人だけ」が「十人だけ」のとき、あるいは「一億人だけ」のとき、事態はどれくらい変わるか?
もし鑑賞者十人と画家が話し合い、「あの絵は『モナ・リザ』以上だった」という共同見解を発表したら、胡散臭さに茶番が重なって、事態はむしろ悪くなる。一億人いれば、もっと悪くできる。もし画家がスターリンで、一億人の鑑賞者が全員ソ連人民なら、胡散臭さと茶番と圧制の三重奏だ。
事態をまともにするには、他者が必要だ。関係者の誰ともグルでない(=社会の外にいる)、自由に発言する、異論を差し挟む資格を有する他者が必要だ。評価を下すとき鑑賞者は、そのような他者を意識し、他者に対して説得力のあることを言おうと努めなければならない。このとき他者は実在しなくてもいい。もし誠実な鑑賞者なら、有資格者が自分ひとりのときにも、同じ努力をするだろう(ただし、評価を聞く人々がその誠実さをどれくらい信じるかは別の問題だ)。
他者なしで下された評価は、スターリンの見世物裁判が無効なのと同様、審美的判断として無効である。
美術評論家は、新聞などのマスコミに対する影響力を持つ。審美的判断と公共性の結びつきが、現実の社会に表れている例だ。
他者を想像し、他者の批判に耐え、他者の想像力をかきたてる能力において、美術評論家は素人よりも優れている、と期待されている。努力や態度だけなら素人でもできるが、素人にはないような能力がある、と期待されている。
もし美術評論家が誠実ではなく茶番をしているなら、マスコミに対する影響力は許されない。美術評論家の茶番に紙面を割く新聞は、悪徳商法の片棒を担いでいることになる。
この絵をいくらで買いますか?
村上隆が欧米の美術界に登場してから、もう何年も経った。初めてその作品を見たときには、「じきに日本通からさんざん叩かれ、支持してくれる美術評論家もいなくなって消えるだろう」と思っていた。しかしどうやら私はナイーブだったらしい。欧米の美術評論家の誠実さを、無邪気にも信じていた。彼らはただ無知なだけで、日本通から示唆を受ければすぐに勉強して視野を広げ、「この絵はプラクティカル・ジョークです。これをこの超ボッタクリ価格で買うという行為が本当に痛々しくてアートです。痛車に比べると評価は一桁落ちますが、絵なら買ってきて飾るだけだから楽ですね。こつえーとか知らずにこれ買う人はププププ」という評価に至り、マスコミを通じて広めるだろう、と信じていた。
それが今では、エピゴーネンまでが大手を振ってまかり通るようになったらしい。明らかに、欧米の美術評論家は、茶番をしている。欧米の美術界は巨大なエウリアンだ。この事実はぜひ告発しなければならない。
しかしより重要なのは、エウリアンが悪徳商法たる所以を解き明かす原理として、公共性を高く掲げることだ。
繰り返そう。公共性は、数の論理や大きさに宿るのではない。社会の中での合意形成だけの問題でもない。社会の外にいる他者を想像する努力、他者の批判に耐えようとする決意、他者の想像力に訴える態度に宿るのだ。
笙野頼子の作品は、公共性を願い求める声として読み解くことができる。
笙野の作品は、自らの苦悩や幻想から公共性を引き出そうとする試みだ。と同時に、公共性にもとづいた地位にありながら公共性を忘れた人々を叩いている。
笙野の初期作品には、「他者がいない」と言われることがある(私がこの耳で聞いた)。なるほど、作品の中にはいない。だが笙野は、身をよじるほど他者を想像し意識している――読者という他者を。他者がいない作品を覗き込むとき、読者である私の目には、自分自身そして社会という他者が映っている。