2006年09月29日

1492:69

 同人誌にまとめるために、この話の原稿を校閲している。
 昔の原稿を読む苦しみを、なにに喩えればいいか。

 
                        *
 
 オーストラリアで撮影した映画が、興行的にはともかく、評論家に受けた。緋沙子も賞をもらい、名前を売った。お世辞とはいえ、『次の仕事はハリウッドの大作になるだろう』と何度も言われていた。緋沙子は代理人を雇って交渉と契約を任せた。
 そんななか、イギリスの映画人の働きかけで、緋沙子のイギリスへの入国禁止が解けた。
 
 ロンドンには朝に着いた。
 「ロンドンは物価が高いから気をつけて。特に公共料金。資本主義国だから」
 地下鉄の料金は腰を抜かすほど高かった。資本主義国だからと緋沙子はいうけれど、ニューヨークの地下鉄はまともな値段だ。説明になっていない。
 緋沙子は名門デパートを足早にめぐった。ほとんど買い物はしない。不思議だった。緋沙子はあまりウィンドウショッピングはしない。
 けれどアーサー・グラハムにはわかっていたらしい。
 「店員がお前の顔を知ってるのが、そんなに嬉しいか」
 図星を突かれたときの顔をして、このときだけはクィーンズイングリッシュで緋沙子は言った。
 「もし私が何者かを説明しなければならないとしたら、それは私が何者でもないということだわ」
 「お前はアヤカだよ。いつまでたっても寸足らずな奴だ」
 私には意味のわからないやりとりだった。昔のことに関係しているのかもしれない。
 アーサー・グラハムは緋沙子の元養父だ。70歳ほどの老人で、緋沙子のことをアヤカと呼ぶ。緋沙子はイギリス時代には他人の名前を借りて暮らしていた。その名前が、アヤカだった。
 二人の会話を聞き取るのは難しかった。私は英語に不慣れなうえ、アーサーも緋沙子もコックニー訛りでしゃべる。聞き取ってから何秒もかけて、「アガイン」をagainに、「アー」をheartに変換して、やっと意味がわかった。
 それでも、二人の仲のよさは、見ていてわかった。二人のいうことの、半分は皮肉で、残りの半分は悪態だった。お互いへの皮肉と悪態を、いつまでも飽きることなく、嬉々として交わしていた。親子というよりは、歳の離れた兄と妹のようだった。50歳差はいくらなんでも離れすぎだけれど、それでも兄妹に見えた。
 なぜだろうと思って観察していて、気づいた。二人はよく似ている。
 棒を飲んだようにまっすぐな姿勢、人の顔を見るときの探るようなまなざし、超然としているのに神経質そうな物腰。こうしたものを、緋沙子はこの老人から受け継いだのかもしれない。
 似ているのに、親子のようではない。緋沙子もアーサーも、お互いに容赦がない。子や孫を、これほど遠慮なく、しかも対等に扱うような父や祖父はいない。緋沙子にも同じことがいえる。
 観察しているうちに、思い出した。養父というのは世をあざむくための仮の姿で、もともと二人は共犯者だったのだ。
 
 夜には、緋沙子の昔の仲間が、パブでささやかな歓迎会を開いてくれた。みな年上で、アーサーくらいの歳の人が目立った。途中で出たり入ったりして、延べでは8人くらいだった。
 私はまわりの会話をほとんど聞き取れないまま、緋沙子を眺めていた。
 久しぶりの再会なのに、いつもと違う様子は見えない。大きな笑い声をあげることもなく、人の肩や背中を叩くこともない。昔の仲間たちは全員がそうしているのに。向こうも、そんな緋沙子を当たり前のように受け入れている。
 そうしているうちに、私は痛感した。
 同じ訛りでしゃべっても、昔の仲間がいても、兄のような人物がいてさえも、ここは緋沙子の故郷ではない。緋沙子にも、向こうにも、それがわかっている。
 『私の帰るところなんて、ひかるだけ』と緋沙子は言った。けれど私だって、彼らとそれほど違わない。学校時代やアシスタント時代の仲間たちと分けあったものを、緋沙子は持っていない。
 私は考えはじめた。孤独について。緋沙子の、それに陛下の。
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2006年09月26日

ノベルス・文庫作家人気番付

 本の実売部数は通常わからない。しかし、同一レーベル・同一発売日のノベルスや文庫なら、どれがどれより売れているか、わかる場合がある。情報源は、トーハンまたは日販調べの週間ベストセラーリストだ(書店調べは論外なので要注意)。たとえば、このリストをみれば、『灼眼のシャナ(13)』『とらドラ!(3)』『アスラクライン(5)』の順に売れていることがわかる。さらに、ランク外のタイトルも調べることができる。上の例では、『撲殺天使ドクロちゃん(8)』が同一発売日でランク外にある。

 この情報を蓄積・分析すれば、「誰が誰より売れているか」を、単一の数字として表せるだろう。

 以上の仮説にもとづいて、私は数年前、BL作家人気番付というものを作った。このときはBL関係レーベルの情報だけを入力した。また、実験として作ったため、持続的に運用しつづけることができないシステムだった。

 今回は本番である。私は、1万件の書誌情報と、800件のベストセラーリストを入力した。

 BL作家人気番付のときとはレーティングの計算方法が違う。また、情報の精度がまだ荒いので、今後さらに精査する必要がある。しかし暫定値を出すには十分だろう。

 まずワースト20から。

吉村達也 256   ちょっと信じられない値だが、計算間違いはまだ見つかっていない。
田中光二 462  
西澤保彦 531  
司馬遼太郎 560   新装版はたいていランク外なので、昔の作家は悪い値になる。
小池真理子 593  
梓林太郎 600  
菊地秀行 620  
太田蘭三 627  
木谷恭介 628  
東海林さだお 647  
吉村昭 666  
北方謙三 668  
太田忠司 670  
鳥羽亮 681  
逢坂剛 684  
中里融司 693   ラノベ系は通常高い値になるはずなので、この値は相当なもの。
高田崇史 698  
二階堂黎人 708  
篠田真由美 715  
村上龍 718  


  そしてベスト20。

あさぎり夕 1319   BL
上遠野浩平 1311   代表作・ブギーポップシリーズ
賀東招二 1283   代表作『フルメタル・パニック!』
時雨沢恵一 1283   代表作『キノの旅』『リリアとトレイズ』
神坂一 1264   代表作『スレイヤーズ!』
斑鳩サハラ 1239   BL
宮部みゆき 1216   よろず
佐伯泰英 1201   時代小説
高橋弥七郎 1176   代表作『灼眼のシャナ』
築地俊彦 1167   代表作『まぶらほ』
横山秀夫 1151   代表作『半落ち』
ごとうしのぶ 1150   代表作・タクミくんシリーズ
秋月こお 1147   代表作・富士見二丁目交響楽団シリーズ
村山由佳 1147   代表作『おいしいコーヒーのいれ方』
今野緒雪 1144   代表作『マリア様がみてる』
天童荒太 1142   代表作『家族狩り』
栗本薫 1137   代表作・グイン・サーガシリーズ
石田衣良 1101   代表作『池袋ウエストゲートパーク』
鎌池和馬 1100   代表作『とある魔術の禁書目録』
ヤマグチノボル 1096   代表作『ゼロの使い魔』


 完全なデータの公開は年内を目指している。

 以下、想定問答集。

Q: 西村京太郎は? 内田康夫は?

A: 彼らが書くレーベルのレーティング水準は非常に低い。まったく売れない本を1冊でも出すと、レーティングが大きく下がる。両者とも、新装版やエッセイなどの売れない本を数冊出しており、そのためレーティングが下がっている。

Q: レーベルのレーティング水準はどのように決まるのか?

A: 2つの要素で決まる。第一に、ピラミッド全体の大きさ。第二に、複数レーベルにまたがって書いている作家を通じての、レーティング水準の流出・流入。
 週間ベストセラーリストに多くの作家を入れているレーベルは、ピラミッドが大きく、その頂点も高くなる。
 複数レーベルにまたがって書いている作家を通じて、ピラミッド同士の相対的な上下関係が明らかになり、それがレーティング水準へと反映される。
 トラベル・ミステリーを売るレーベルは、ピラミッドが小さい。また、赤川次郎などを通じてレーティング水準の流出が起きている(赤川次郎はコバルト文庫でも書いている)。

Q: 発売日にどかんと売れるレーベルと、キヨスクで売れるレーベルを、同列に並べることはできないのでは?

A: 人気は惰性ではない。

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2006年09月24日

1492:68

 司法は個別の具体的な事件を解決するだけなので、憲法判断を直接裁判所に問うことはできない。裁判所は事件を解決するために必要があるかぎりでのみ憲法判断を行う。
 たとえ訴訟の本筋が憲法判断であっても、その本筋から外れたところで原判決の全部を破棄すべき問題点があれば、破棄差戻し判決の際には本筋の憲法判断を示すことはできない。
 今回のケースでは、合憲・事情判決と請求認容の分け方が問題で、一部破棄差戻ししようにも主文の書きようがない、とでもお考えいただきたい――と読者に設定を任せてみる。

 
                        *
 
 護衛官訴訟の高裁判決が出た。
 憲法判断の部分は地裁判決と似たようなもので、そのため一般には地裁判決ほどは注目されなかった。けれど専門家の見方は違った。この高裁判決をそのまま確定させれば差障りがあり、しかも一部破棄差戻しではどうにもならず、全部を破棄して差戻すしかない、という意見が専門家の大勢を占めた。
 となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定はロシア大統領選挙の直前にずれこむだろう。なにかが起こるかもしれない。
 
 それを切り出したのは緋沙子だった。
 「護衛官訴訟の高裁判決、知ってる?」
 私も緋沙子も、護衛官訴訟のことをめったに話題にしなかった。緋沙子も、関心がないはずはないのに。
 オーストラリアからインドへ向かう飛行機の中だった。まわりは旧西側の白人ばかりで、日本語はわかりそうもない。
 「長引くみたいだってね」
 「早く終わってくれればいいのに」
 長いこと一緒にいるうちに、私は緋沙子のつく嘘がわかるようになった。さっきのはウソ泣きだった、と言い張ったときのような嘘。100パーセントの嘘ではないけれど、あえて口に出すことで、自分を支えようとする嘘。
 早く終わってほしいという気持ちもあるだろう。けれど、避けられない終末が先延ばしになったことを喜ぶ気持ちのほうが、ずっと強いだろう。
 千葉を去ってから初めて、私は訊ねた。
 「いまでも好き?」
 緋沙子は私の目を見た。あまり熱心ではなく、眠そうだった。なにをわかりきったことを、と言いたそうだった。
 「うん」
 『私も』――さりげなく言おうとして、言えなかった。
 けれど緋沙子は感じ取ったかもしれない。
 なにか言いたそうに目を細め、そのまま目をつぶった。それと同時に、毛布の下で手を伸ばし、私の腕をさぐった。私はその手を握って指をからめ、一緒に目をつぶった。
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2006年09月21日

少コミを読む(第9回)

 本誌の話をする前に、増刊の話をしよう。
 10月増刊号を読んだ。オシャレ眼鏡が流行りつつある今日びに、眼鏡を外す話を3本(悠妃りゅう『キミニアツイキス。』、山中リコ『キミにまかせなさい!』、ナオダツボコ『いとし君への恋の花』)も載せているのに驚く。魅力に乏しい絵ともあいまって、これは実は商業誌ではなく妙なカルト(巣鴨こばと会残党?)の会報ではないかと思えてくる。
 カルト的なドグマやイデオロギーにまみれているからといって、必ずしも商業的に劣るわけではない。たとえば『嬢王』は、非常にイデオロギー的でありつつ売れている。だが『嬢王』と同じことを、少コミの新人作家にできるかといえば、難しい。イデオロギー的な作品には独特のテクニックが必要で、それは少コミの新人作家がめったに知らない種類のテクニックだ。
 では本誌20号のレビューにいこう。

 
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第4回
 主人公が仇役()とくっつくことが事実上決定した。もしこの予想が外れたら、私は少コミレビューをやめる。
 サッカー描写はやる気なし、恋の行方も先が見えた、というわけで、残るお楽しみは男子校潜入だけになってしまった。
 単行本で『萌えカレ!!』1巻を読んだときにも思ったが、この作者は、連載の立ち上がりがぎこちない。「かわいいものしか描かない」という縛りのせいで、「これはこういう話ですよ」というサインを適切に出すことができないらしい。
 採点:★☆☆☆☆
 
青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第26回
 3号続けて連載回数を1つ少なく表記しているので、現在の表記が正しいのだと思う。
 あらすじ:それから4年が過ぎた。
 意表を突いてきた。のことは切り捨てるのか、また使ってくるのか。
 採点:★★☆☆☆
 
咲坂芽亜『ラブリー・レッスン』連作読み切り
 あらすじ:カリスマ美容師にくせっ毛対策を学んで、彼氏役ともハッピーに。
 話や人物はともかく、絵に魅力がある。ネームの勢いもわかりやすさも申し分なく、巻を置くあたわざる一本に仕上がっている。
 採点:★★★★☆
 
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第5回、次回最終回
 あらすじ:はつめいプリンスが登場、主人公をかっさらおうと企む。
 彼氏役(はじめ)が相変わらず面白い。それにしても、はじめがなぜ総理大臣の息子なのか、最後までよくわからなかった。
 採点:★★★☆☆
 
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第3回
 あらすじ:主人公と彼氏役(蒼以)がさらに接近。それが面白くない乃亜
 ようやく設定の説明が終わり、本題に入りつつある。どんどん蒼以の味をアピールしていってほしい。
 採点:★★★☆☆
 
・藍川さき『姫君革命』読み切り
 あらすじ:たおやかな幼馴染の彼氏役(和希)がある日目覚めて主人公を守りはじめる。
 あらすじを書くと普通に見えるが、実物は不条理だ。たおやかなはずの和希のバスケの腕が、なんの前置きもなく、運動部レベルだったりする。また、和希にはたおやかなりの魅力があるはずなのに(でないと彼氏役として成り立たない)、その点がアピールされていない。
 前の3回連載でもそうだったが、思考の量と密度がまったく足りていないように思える。
 採点:☆☆☆☆☆
 
新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第16回
 あらすじ:馬鹿話。
 普通に面白いが、新條パワーの炸裂が見たい。
 採点:★★★☆☆
 
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第6回
 あらすじ:彼氏役()がデレまくり。
 1ページ目「ああ そうなんだー」→『違――う これ違う――!!』の流れが好きだ。
 この連載は、一時はどうなることかと思ったが、幼馴染(敬士)が巻き返して面白くなってきた。
 採点:★★☆☆☆
 
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第7回
 あらすじ:主人公は彼氏役(大輝)と結ばれる。しかし保護者役(和也)は主人公をあきらめるどころか、さらに前進しようと試みる。
 大輝は、現在の少コミで一番魅力的に描けている彼氏役だと思う。和也はどうなるだろうか。
 次回、いよいよ権力問題との衝突である。近親ものが好きな作家なら、避けて通れない難関だ。
 採点:★★★☆☆
 
・わたなべ志穂『ご指名です!!』読み切り
 スーツが好きでホストクラブに行く? は? 行くなら平日昼間の霞ヶ関だろ! と本気で突っ込みたくなった。なお、ガキのスーツが好きな変態など知ったことではない。
 この作者、前半は調子よく流れて、後半が苦しい、という癖があるような気がする。
 採点:★☆☆☆☆
 
・真村ミオ『願いの降る夜』読み切り
 構成がぎこちない。
 採点:★☆☆☆☆
 
・あゆみ凛『Kissよりもいじわる』最終回
 少コミお得意の不条理展開が炸裂した。
 新人作家の皆様、3回連載を始めるときには、最終回まできちんと話を作ってからにしましょう。
 採点:☆☆☆☆☆
 
第10回に続く

Posted by hajime at 00:26 | Comments (0)

2006年09月18日

1492:67

 お知らせ:
 『1492』を脱稿しました。11月12日開催のCOMITIA 78(ビッグサイト東4ホール)で初売りの予定です。また同日からダウンロード販売を開始します。
 なお、冬コミには参加いたしません。

 
                        *
 
 オデュッセウスなら、どうやって千葉を元通りにするだろう。いくら不意打ちとはいえ、わずかな手勢と弓だけで、またたくまに108人を殺してしまう凄腕のテロリスト、オデュッセウスなら。
 けれどそんなことは考えるまでもなく不可能だった。きっと三千年前のイタカでも、本当は不可能だった。映画のスーパーマンは、地球を逆回転させることで時間を巻き戻し、死んだヒロインを甦らせた。オデュッセウスの皆殺しも、これと同じだ。不可能なことを成し遂げるための妄想的な手段だ。
 オデュッセウスなら、どうやって国王公邸に入り込むだろう。嘘を武器にする詐術の達人、オデュッセウスなら。
 考えていくうちに、オデュッセウスの力はみな私にはないものだと気づく。
 オデュッセウスはその怪力で、常人にはひけない大弓をひいた。私には普通の女の力しかない。
 オデュッセウスは天性の詐欺師で、なんの仕込みもなしに巧みな嘘をついた。私には巧みな嘘など思い浮かばないので、基本的には正直でいることしかできない。
 なんといっても、オデュッセウスはイタカの王だった。私は王ではなく、陸子陛下にお仕えするものだ。
 オデュッセウスの力のない私は、自分の力でお側に帰り、自分の力でお仕えしなければならない。
 大弓をひく怪力がなくても、人を欺く狡猾さがなくても、千葉を元通りにする神々の力がなくても、きっと私にはできることがある。
 
 緋沙子が日記を閉じた。
 明かりを消し、私とおやすみのキスをしあって、ベッドに入る。
 寝室の暗さのなかで一心に、帰ることを考える。
 美園はどう思うだろう。たとえ私が帰るのには賛成してくれても、護衛官の座を譲ってくれるとは思えない。ならメイドとしてお仕えしようか。でもそれでは私の力を役立てることはできない。ではやはり――
 陛下の威厳を世に示し、ふたたび千葉の人心の要となるには、どうすればいいだろう。千葉が独立を失ったいまでもなお、陸子陛下が千葉国王として輝くには。マスコミは移り気で、行政的手段の裏づけがなければ捕まえておけない――
 あらゆることが阻まれているように思える。けれど、私は不思議と確信に満ちて、そのことを考えつづけた。
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2006年09月13日

1492:66

 今日も今日とてライダージャンプと唱えてみる。

 
                        *
 
 そのときはやれやれと思ったけれど、結局、私はそうするようになった。
 緋沙子を傷つけたい、という思いが芽生えて育つのを、自分ではどうしようもなかった。原因はわかっていた。毎日24時間、ほとんどかたときも緋沙子のそばを離れないからだ。しょっちゅう緋沙子とケンカするようになっただけでなく、よく泣くようになり、動揺から立ち直るのも遅くなった。
 こんな暮らしはよくない、緋沙子から離れたところで自分の生活を持つべきだと、頭ではわかっていた。けれど、緋沙子を傷つけるのが恐かった。それに、緋沙子との関係が壊れてしまうことが恐かった。
 『私の帰るところなんて、ひかるだけ』
 緋沙子はそう言った。あのとき私は卑怯にも黙っていたけれど、私だって緋沙子とそれほど違わない。私には家族も友達もいるけれど、緋沙子を置いてゆくことはできない。
 そうして私はますます余裕をなくし、なかば緋沙子を憎むようになった。
 と同時に、いままでよりもずっと、緋沙子を愛しむようになった。
 発作的に緋沙子を強く抱きしめて、そのまま何分もそうしている、というようなことが何度もあった。そんなときには、頭の中の蛇口が壊れたかと思うような、異常な多幸感に溺れていた。そんな多幸感のしばらくあとには、まるで反動のように、私は緋沙子を憎み、傷つけたいと願った。緋沙子を殺すことさえ空想した。自分の葬式を空想するような、倒錯した喜びがあった。
 そうして私も、緋沙子が私にするのと同じように、緋沙子にするようになった。
 最初は自分から誘ったのに、いつも緋沙子はひどく怯えて苦しそうにしながら、私を受け入れた。そんなにいつまでも苦しいものではないはずだと、だからこれはきっと演技か、それとも思い込みでそう感じているだけではないかと、私は疑っていた。そのことが私をのめりこませた。緋沙子を傷つけたことが、現実的なかたちで――怪我や痣として表れてしまったら、きっと私はそこで夢から覚めたように立ち止まっただろう。緋沙子の苦しみの現実性を疑い、なかば夢うつつのままでいた私は、その行為にのめりこんでいった。
 
 夢うつつを夢に引き寄せておくために、私は言葉を使うことを覚えた。
 「痛くないよ――痛いよ」
 私が『痛いよ』と言った瞬間、緋沙子は唇をきゅっと引き結んだ。特に力をこめたわけでもないのに、反応した。たとえ多少の力をこめたとしても、身体の中は鈍感で、あまり細かいことを感じ取れない。だから緋沙子は、私の言葉に反応して、苦しげな顔をした。
 やはり緋沙子は苦しいふりをしているだけ、だから徹底的に苦しがらせていい――私は力をこめて引き伸ばした。
 「ぎゅうううう」
 顔をしかめて泣きそうになりながら、緋沙子は苦しみに耐えた。それとも、耐えるふりをした。けれどまだ先は長い。事の終わりにはいつも緋沙子は涙を流している。
 「今日はぜったい、第一関節まで入れるよ」
 緋沙子は、半開きの口から息を漏らしながら、こくこくとうなずいた。
 「本当に入るの?」
 「はい」
 その声の哀れさが私をかきたてる。緋沙子もそれがわかっていて、わざとそうしているにちがいない。
 「このあいだもそんなこといって入らなかったじゃない?」
 「入れてください。お願いします」
 緋沙子が敬語を使うたびに、私は必ずやめさせてきた。けれどこのときだけは言わせておく。いまは現実よりも夢に近い。緋沙子の夢にまで口出ししたくない。
 
 事のあとには、ひどい自己嫌悪が待っている。
 夢のなかでしか許されないような独善で緋沙子に接したこと。なによりも、それがわかっていて、やめられないでいること。陛下の警告が身にしみる。『自分でもわけがわかんないけど、やめられないの、悪いこと』。緋沙子がもう子供ではないということだけが救いだった。
 落ち込む私をよそに、緋沙子はさっぱりした顔で、ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら、日記をつけていた。
 緋沙子の日記は、筆記用具が変わっている。筆だ。そんなものを使うだけあって、緋沙子は字がうまい。字を書く姿もさまになっている。まんが家でも、絵のうまい人がペンを走らせるときのリズムには音楽的なものがある。
 私は自分のベッドに入ったまま、机に向かう緋沙子の、横顔を眺めている。
 そうしていたら、なぜか突然、訊ねてみる気になった。
 「……ひさちゃんは、いつもすごく痛がってるけど、まだそんなに痛い?」
 「え?」
 「これ」
 私は右手を上げて示した。
 緋沙子は怒ったように目尻をつりあげ、
 「演技」
と、語気も荒く言い捨てて、日記に戻った。
 なぜ緋沙子が怒ったのか、わからなかった。だから疑いはとけなかった。緋沙子は自分の弱さや苦しみを隠したがる。それでも私は少しだけ自己嫌悪から逃れられた。緋沙子はもう子供ではないのだ。
 ふと、陛下のことを思う。陛下のなにを思うのでもなく、ただ、陛下のことを。
 その瞬間、緋沙子が手をとめて、こちらに目をやった。まるで私の心を読んだかのように。心臓が止まるかと思った。
 けれど緋沙子は超能力者ではない。
 「……歯医者で、歯を削るときの音。あの音って、痛くなくても恐い。そういうのと同じ」
と緋沙子は、さっきの返事を取り消した。そして日記に戻った。
 ふたたび緋沙子の横顔に癒されながら、思う。
 私はきっと陛下のお側に帰る。
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2006年09月08日

1492:65

 設楽ひかるが、発信者番号通知をしたものかどうかを悩むシーンがある。これには私の経験が反映されている。
 といっても、同じことを悩んだのではない。私の携帯はデフォルトで非通知になっているのだが、そのことをすっかり忘れて、通知すべきときに非通知でかけてしまったことがある。気づかないまま何度もかけたうえに、気づいたときにはもう謝るには遅すぎた。
 というわけで、ボトルメールをここで。
 Sさん、ごめんなさい。とみなが貴和『EDGE』は買ったものの読んでいません。里中満智子『あすなろ坂』も、ちょっと立ち読みしただけです。

 
                        *
 
 ここ何年か緋沙子とは、はっきりした身体の関係がなかった。
 モスクワに落ち着いたころから、だんだんそうなっていった。もしかすると友達同士でもするかもしれないくらいに身体を触れあうだけで、深く触れることがなかった。たまに、じゃれあいから深入りすることもあった。そんなときはいつも後味が悪かった。緋沙子を不安にさせているのかもしれないと思い、迷ってしまった。
 けれど、バンクーバーでの撮影が終わり、モスクワの家に帰ってきた夜のことだった。
 シャワーを浴びて出てきた私に、緋沙子は、新品のインナーウェア上下を突きつけた。差し出した、というより、突きつけた、だった。カメラの前以外での緋沙子はいつもぶっきらぼうで、あまり女らしい仕草をしない。
 「これ、ひかるに似合うと思うの」
 青みを感じるほど白いシルクだった。リバーレースと同色刺繍がさりげなく使われている。普段使いのものではない。上品ではあるけれどちょっと少女趣味で、私よりは緋沙子に似合いそうだった。
 「着て待ってて」
 緋沙子はシャワーを浴びにいった。そして、そういうことになった。
 
 カナダで撮影した映画はそこそこ当たり、英語圏での仕事を緋沙子にもたらした。
 もちろん、いきなりスターというわけではなかった。ときどきキャスティング・ディレクターから連絡が入り、二ヶ月に一度くらい欧米に行っていくつかオーディションやカメラテストを受け、たいてい落ちる、という具合だった。欧米では端役ばかりだったけれど、冬には香港映画に大きめの役で出演し、これもそこそこ当たった。
 そのあいだ緋沙子はずっと私を雇いつづけた。
 護衛官時代は、プライベートのときはほとんど陛下にお目にかからなかった。原則として週に5日、日に8時間、それだけだった。けれど今度は、緋沙子と顔を合わせないでいるときがない。私は精神的にきつくなり、緋沙子とケンカすることが増えた。
 私が心の余裕をなくすのに比例するかのように、緋沙子はますます私を求めた。それも、かなり極端なやりかたで。
 
 私の身体のなかに、物理的に入り込むこと。それが緋沙子の望みだった。
 入るだけの指をできるだけ深く入れて、準備体操のストレッチのように引き伸ばす。ただそれだけのことが、ひたすら続く。慣れると、痛みや辛さはあまり感じなくなった。それでも、交わったあとにはいつも、処女を失ったあとのようなひりひりとした感覚が残った。
 私も緋沙子も、ほとんどしゃべらない。たまに緋沙子がなにか言うと、私は自分でもおかしいくらい動揺した。
 あるとき、沈黙のなかで緋沙子がぽつりと言った。
 「前より濡れやすくなってるね」
 それだけで私は混乱して、
 「だからってこんなことしていいと思ってるの?」
 自分で言っていて、わけがわからなかった。私は緋沙子の行為を受け入れている。苦痛や不安を覚えたことはあっても、拒んだことはない。
 私の動揺は緋沙子にも感染した。一瞬、緋沙子は怯えたように身体を硬くしてから、おずおずと、
 「ひかるの身体が欲しがってるんじゃない」
 まるで棒読みだった。
 動揺したままの私の頭は、ふらふらとよろめきながらも働いて、どうにか緋沙子の気持ちを読み取った。緋沙子は、そう簡単に退くわけにはいかないと思って、虚勢を張ったのだ。
 その虚勢を解きたいと思って私は、共犯の含みをこめて言った。
 「欲しがってるのは私だけ?」
 緋沙子の緊張がほどけたのを感じた。私のなかに入り込んだ指に、力がこもって、引き伸ばす。
 けれど、共犯の含みは通じていなかった。
 「……ひかるも、してみる?」
 やれやれだった。
Continue

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2006年09月07日

少コミを読む(第8回)

 第19号は付録に驚いた。忍者ペン&ライトである。
 染料ぬきで蛍光剤だけのインクの入ったペンと、紫外LEDライトのセットである。これを喜ぶ少コミ読者はいったい何人いるのだろう。理系の女性を増やすための陰謀だろうか。
 だがそれなら笙野頼子の小説をまんが化するほうがいい。少コミ読者のピュアな夢と希望を焼き尽くし、自分の道を究める方向へと向かわせてくれるにちがいない。
 ではレビューにいこう。

 
・水波風南『狂想ヘヴン』連載第2回
 あらすじ:
1. 学園に君臨する権力者(乃亜)は、淫乱で下劣な女
2. 水泳部が潰されたのは、乃亜の痴情のもつれから
3. 乃亜の手下の蒼以はモデル
 というわけで最初のボスキャラ・乃亜が登場した。乃亜を倒すまでの手際を見れば、この連載の先行きがわかるだろう。
 なぜ乃亜が最初のボスキャラだとわかるのか。まず、乃亜はつまらない奴だとはっきり示してある。そして、蒼以の権力の源泉が、生徒会だけでなくモデルにもあることが示された(少コミでは彼氏役は権力者でなければならない)。
 設定や人物を飲み込ませるために小ボスキャラを出すのは、よくある手だが、うまい手だ。第5回くらいまでにさくっと片付けてほしい。
 採点:★★★☆☆
 
・しがの夷織『めちゃモテ・ハニィ』連載第6回
 あらすじ:ちょっと意地悪な彼氏役(大輝)に、好きだの抱いてだのと言わされる。
 彼氏役といえば権力者で変人ばかりの少コミにあって、大輝はほぼ唯一、人間くさい。ただそれだけでは褒めるようなことではないが、その人間くささをよく生かしている。保護者役(和也)の人間くささがまだなので、それが楽しみだ。
 採点:★★★★☆
 
・池山田剛『うわさの翠くん!!』連載第3回
 10ページ目のセリフで変な書体を使ってみたり、13ページ目のイメージ映像でなぜか一万円札を降らせてみたりと、いろいろ芸が細かい。
 が、作者はあまりサッカーに関心がないように見える。サッカーの美しい瞬間を絵で再現しようとする努力をまるで感じない。
 仇役()は主人公が男子校潜入&サッカーするためのマクガフィンかと思っていたが、これは私の読み違いで、主人公は司に未練がある。私はこういう未練がましい行動パターンは嫌いだ。
 採点:★★☆☆☆
 
・くまがい杏子『はつめいプリンセス』連載第4回
 あらすじ:主人公を孕ませたと勘違いした彼氏役(はじめ)。
 はじめの思い込みと行動力が、妄想的で素晴らしい。この妄想性を縦横無尽に活用した話が読みたい。
 最後のページに、「最終回まであと2回」との表示があった。3回連載のほかに6回連載というパターンもあるらしい。
 採点:★★☆☆☆
 
・織田綺『LOVEY DOVEY』連載第5回
 あらすじ:彼氏役()がデレ期に入る。幼馴染(敬士)がさらに巻き返す。
 画面も話も薄味で、どうも私の口に合わない。
 採点:★☆☆☆☆
 
新條まゆ『愛を歌うより俺に溺れろ!』連載第15回
 あらすじ:別の男を退けて、秋羅がいいと再確認。
 これからなにがどう展開するのか、さっぱりわからない。だがそれがいい。
 採点:★★☆☆☆
 
・麻見雅『花園のジュエル』連作読み切り
 あらすじ:書きようがない。
 因果関係がスカスカで、話らしいものが存在せず、なんとも反応のしようがない。
 採点:☆☆☆☆☆
 
青木琴美『僕の初恋をキミに捧ぐ』連載第26回(扉表記は25回)
 2号続けて連載回数を1つ少なく表示している。もしかすると私が読み始める前に、連載回数を1つ多く数える間違いが起こっていて、それを修正したのかもしれない。
 あらすじ:の死をが知った。それでもなお別れるという結論を貫く二人。
 次になにか新材料をぶつけて二人を再びくっつけ、さらにそのあと照をぶつけて泣かせ、最後は二人の幸福な日々&死、という展開になれば美しい。だが照をぶつける手が、作者の頭に浮かんでいるかどうか。
 照をぶつけるには、「照と逞は幸せだった」という結論が必要だ。世紀の鬼手をひねり出さないと、この結論は出せない。
 採点:★★☆☆☆
 
・あゆみ凛『Kissよりもいじわる』連載第2回
 あらすじ:「どうせお前は××の手先だろ!」「本当に好きなのに、ひどい!」
 ネームはよく整理できているが、話はもっと練れる気がする。
 採点:★☆☆☆☆
 
・藤原なお『君は辛党いばら姫』読み切り
 あらすじ:いい男と出会ってデートしてゲット。
 彼氏役は一通りいい男に描けているはずなのだが、どうにも納得感がない。人間くささがないのだ。たとえばこの彼氏役が、自分の悪感情にどう対処しているか、イメージできない。
 ではどうすればいいのかというと、私にもわからない。そこを考えるのが作家の仕事だ、と逃げてみる。
 採点:★☆☆☆☆
 
・車谷晴子『放課後は恋愛授業』読み切り
 あらすじ:軟派のいい男に口説かれる。
 絵がだいぶ上達したか、それとも丁寧になったか。ネームもそれなりにできているので、あとは味わいが勝負になりそうだ。
 採点:★★☆☆☆
 
・天音佑湖『恋敵は子猫ちゃん・』最終回
 前にも書いたが、やはり動物の絵がポイントだ。動物をしっかり描くと、それだけで画面が面白くなるはずだ。
 思えば、少女まんがに動物の絵は使いやすい。老人の顔を描けてもあまり売りにならないが、動物をしっかり描ければ、できることが多くなる。
 採点:★★☆☆☆
 
第9回に続く

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2006年09月06日

信じさせる力

 佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)を読んだ。
 余談。秋葉原の書泉ブックタワーで買う予定でスケジュールを組んだら、なんと入荷していなかった。書泉ブックタワーに三度アナテマ。
 さて書評。
 書いてあることはいちいち正しくてもっともで、この程度のことは漠然とでもわかっていないと困るのだが、かといって誰かがしっかり書いたことがあるかといえば、ないような気がする。つまり、よくできた本だ。

 どんなことが書いてあるか。
 板垣恵介『範馬刃牙』に、刃牙が空想上の巨大カマキリと戦う話がある。ほぼ世界最強の格闘者になった刃牙は、イメージトレーニングの相手に事欠き、巨大カマキリを空想してそれと戦った、という話だ。小説を読むことはこれに似ている。読み手にとっての小説は、刃牙にとってのカマキリのようなものだ。
 巨大カマキリをどうイメージすればいいか。それにはまずカマキリを知る必要がある。どんなアプローチでカマキリを知るか。そして巨大カマキリとどう戦えばいいか。この一冊を読んでから小説を読めば、君にも刃牙の気分が味わえる!
 書評はここまで。
 この本に書いていないことは当然いくらでもあるが、まず火力について。
 刃牙のイメージした巨大カマキリは、ボクシングのヘビー級チャンピオンより強い。だが人は、刃牙のイメージした巨大カマキリよりも、現実のヘビー級チャンピオンに興味を抱く。そこには、純粋な強さ(小説なら、美のもたらす快)以外の要因が働いている。それが火力だ。
 人は、銃弾が飛んできたら、伏せるか撃ち返すか逃げるかする。何事もなかったかのように平然としていることさえも、ひとつの態度になってしまう。銃弾の前では、態度を取らずにいることが不可能だ。同じように、ある種の性的なモチーフが効果的に運用されたときには、心理的な態度を取らずにいることが不可能になる。これが火力だ。
 火力は時とともに生成・消滅する。たとえばドレフュス事件は、同時代のフランス人にとっては、まさに火力だった。事件の真相だの反ユダヤ主義だのを超えて、火力として暴走した。誰もがなんらかの態度を取った。無神論や進化論が火力として働いた地域・時代もあった。しかし現代日本ではどれも火力ではない。いつかは、性的なモチーフも、火力ではなくなるのだろう。
 火力を使うと、読み手にも書き手にもダメージがある。心理的な態度を取ることのなかには、一回限りの、取り返しのつかないものがある。BLは火力の与えるダメージを緩和し、それまでには難しかった大火力の常用を可能にした。女主人公で「強姦されてハッピーエンド」をやりまくったら、そのダメージに長いこと耐えられる女性の読み手・書き手は、さほど多くはないはずだ。
 もうひとつ。これは主に私の個人的な体験なのだが、信じさせる力について。
 私はいつも嘘の皮を書いているのに、どういうわけか、その皮のすぐ下に私の経験や信念があると信じてしまう人が多い。皮のずっと奥には、たしかにある。12歳までアフガニスタンで育った私にとって、現代日本は今でもファンタジーの世界であり、私の書くものにはそれが反映しているはずだ。だが、皮のすぐ下には、私はいない。
 非常に分別のありそうな人でも、この誤解を抱くことがある。登場人物のひとりを指して、「こんな養護教諭はいない」と言われたときには腰を抜かした。ミッキーマウスを指して、「こんなネズミはいない」などとは言いそうにない人だったが。
 長いことこういう目にあっていたら、だんだんわかってきた。私はなにかしら特殊なやりかたで、嘘を書いているらしい。そのやりかたを使うと、最初から嘘だとわかっていても、読み手は信じてしまうことがあるらしい。そしてどうやら、効果的に火力を運用すると、そういうことが起こるらしい。
 思えば、心理的な態度を取ることと信じることは紙一重だ。だからこれを仮に「信じさせる力」と呼ぶ。
 火力と、信じさせる力。これらは、本書のいうような意味では文学的なものではないかもしれないが、かといって、まったく文学的ではないとも言いかねる。イデオロギー的でなく――特定の心理的な態度を前提とせず――火力とその作用や副作用を扱う習慣ができてほしいと、いつも思っている。

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2006年09月05日

佐藤優・宮崎学『国家の崩壊』(にんげん出版)

 一外交官の目からソ連崩壊の過程を振り返った本である。
 情報はよく集めたらしい。特に民族問題については、日本語で読める本のなかでは、もっとも詳しいかもしれない。しかし8月クーデターについては非常に疑問がある。
 あれは偶然と意図と幻想が複雑に絡みあった出来事だが、あまりにも単純なストーリーを描こうとしている。少なくとも、軍のどこかのレベルで誰かが抗命したことはおそらく確かで、その抗命が起こるかどうかを確実に予想することはおそらく誰にもできなかった。神がサイコロを振っても見なかったふりをするのは頭のいい人間の悪癖だが、著者もこれに陥っている。
 何事かを成し遂げる政治家には、運任せの瞬間が必ず何度もある。1991年、ゴルバチョフに運はなく、エリツィンには運があった。その運も、政治家の偉大さのひとつとして数えるべきだ。でないと、すべてが運だということになってしまう。
 ゴルバチョフの評価にも抜けている点がある。ゴルバチョフは異常なほど演説や文章にこだわった。そのこだわりが彼の実行力を少なからず奪った。なぜ演説や文章をそれほど重要と感じたのか? この謎に説明を与えなければ、ゴルバチョフを理解したとは到底言えない。 7andy

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2006年09月03日

1492:64

 参考文献その3。東ドイツ関連のものを、といっても1冊だけ。
クリストフ・ハイン『僕はあるときスターリンを見た』(みすず書房)
 他にも多数あるが、あいにく手元になくタイトルを思い出せない。
 千葉国の設定には、東ドイツと西ベルリンが混じっている。
 東ドイツ政権は、東側としてはかなり国民に支持されていた。特に文化人からの支持が厚かった。理由は、国民がよく本を読んだからだ。東ドイツがもうちょっと長生きしていたら、『R.O.D』の敵役はシュタージになっていたにちがいない。
 西ベルリンは、補助金と兵役忌避者でできたハリボテだった。連合軍の占領統治地区だったので兵役はなかった。陸の孤島なので産業が栄えるはずもないが、西ドイツ政府は東側に見栄を張るために莫大な補助金をつぎこみ、繁栄のイメージと220万人の人口を維持した。

 
                         *
 
 4ヶ月で英会話を覚え、依頼人の警護の引き継ぎを済ませて、私はカナダに発った。緋沙子とともに。
 千葉国王が大人気のロシアとは対照的に、旧西側諸国では、千葉国王に関することは報道されない。旧西側諸国は、日本との関係を重視して、千葉国王の存在をできるかぎり黙殺してきた。日本以外の旧西側では誰も私のことを知らない。映画の撮影チームは50人以上の大所帯だから、私ひとりくらいは目立たずにまぎれていられるかもしれない、と願っていた。
 けれど、撮影チームの誰かが、緋沙子と私の過去を知っていた。たちまち緋沙子にはMadam、私にはKnightess(knightの女性形)というあだ名がつき、千葉国王や昔のことをあれこれ訊ねられるようになった。
 質問には、馬鹿馬鹿しいものもあれば、辛いものもあった。
 「国王の即位式には宗教儀式はないのかい? 剣を岩から引き抜いたりさ」
 それはアーサー王だし、たぶん宗教でも儀式でもない。
 「国王はショーグンとどういう関係にあるのかな? タイラノ・マサカドとの関係は?」
 ロシア軍の将軍ならときどき引見なさっていた。平将門は千葉の英雄ではあるけれど、現在の千葉国とはつながりがない。
 「刑務所で服役中でも、抽選に当たれば、国王になれるの?」
 理論上はなれる。とはいえ、王位継承者の服役囚はほとんどいない。
 「千葉が日本に統一されて、国王はどうなったの?」
 辛い質問だった。
 「国王の地位がいまでも法的に有効かどうかを争って裁判してる」
 「判決はいつごろ?」
 「あと1年か、1年半」
 「勝てそう?」
 「不可能」
 「敗訴が確定したら戦争?」
 「西千葉はとっくの昔に北アイルランドよ」
 ああ、西千葉、知ってる、と彼女はうなずいた。
 モスクワではこういう話をしたことはなかった。千葉国王のことは、いつもニュースで流れていて、常識だった。慣れない英語で新鮮な会話を交わすと、昔のことがありありと心に甦ってくる。
 そして、なにより辛い質問は、こうだった。
 「あなたの後任はどんな人?」
 橋本美園。
 「女で、私より何歳か上で、私よりちょっと背が高くて――」
 「ずばっと一言でいうと?」
 美園がどんな人か、少しだけなら知っている。知っているから、言えない。慣れない英語では、なおさらだった。
 美園のことを言うかわりに私は、自分の辛い思いを告げた。
 「――去年、テロにあって、右足の甲から先をなくした」
 もし私が辞めなければ、美園はこんな目にあわなかった。
 「女王は?」
 「無事」
 「なら、いいじゃない。Knightess、あなたが同じ立場にいたら、そうでしょう?」
 その言葉で、私の心は、遠い昔にかえった。
 『私よりうまく陛下をお守りできる人は、ほかにいるでしょう。けれど、もし陛下の楯となって命を捧げる日がきたとき、満ち足りて死んでゆけるのは、ほかの誰よりも、この私です』
 その思いが、いまでも色あせていないことに、驚く。
Continue

Posted by hajime at 22:19 | Comments (0)

2006年09月02日

僕の考えた携帯電話の新機能

 ソ連の鉄道には、囚人を動員して作ったものが多い。「枕木の一本ごとに囚人が一人死んでいる」と言われる鉄道もある。実際に計算してみると、枕木一本ごとに一人というのはさすがに嘘で、15本ごとに一人の割合だったという。
 いまでは、携帯電話に新機能が一つ増えるごとに、開発者が一人死ぬという。では死ねとばかりに新機能を思いついてみた。
 普通のアラームは時間で鳴る。鳴らす時間をあらかじめセットしておくと、その時間に鳴る。アラームがメモと連動するとスケジューラになる。
 このアラームを、時間ではなく、場所で鳴らせるようにする。
 なにが嬉しいか。たとえば、外出の帰りに駅前で買い物をするときだ。家の最寄り駅を出たとき、買い物があることを思い出せればいいが、私は思い出せない。百発百中で思い出せない。家に帰ってから思い出し、ふたたび駅前に行くはめになる。しかし場所アラームのスケジューラがあれば、駅を出たときにアラームが鳴り、買い物メモが出てくるわけだ。
 携帯電話は常に基地局と交信しているので、精度1km程度の位置情報は常に持っている。アラーム地点に接近したら、複数基地局の電波の電界強度を測定することで、10~100mの精度が得られる。駅前でアラームを鳴らすには十分だろう。
 というわけで、携帯電話の開発者殿、私のために死んでほしい。

Posted by hajime at 01:35 | Comments (1)